2006年 10月 12日
心身の不必要な緊張をやめるために |
「自分と戦わない方法」と関連して、たまたま「ひとりでできる アレクサンダー・テクニーク 心身の不必要な緊張をやめるために」ジェレミー・チャンス著 片桐ユズル訳を読みましたので、その本の中から、アレクサンダー先生の言葉を抜粋してご紹介します。
・ひとに何をするべきか、いうことはできない。あなたのするべきことは、感覚することなのだから。
・努力とは、自分がすでに知っていることを強化することでしかありません。
・ある部分に問題が生じるのは、有機体全体に問題があるからなのです。その証拠に、手順を踏んでいけば特定の欠点は根絶されます。
・変化するには、ひとの一生の習慣に抵抗するような決断が要求される。
・覚えておくべき重要なことがある。あらゆる活動において、ある特定の部分を使うということは、有機体の他の部分を使うことに密接にかかわりあっている。そして、様々な部分がお互いに及ぼしあう影響は、これらの部分の使い方との関係でつねに変化している。
・実際の場では、自分自身の筋道の立たない方向性と、筋道の立った方向性のふたつにはっきりした境界線がないことに、わたしは気づいた。それでわたしは、ふたつがだんごのようにいっしょくたになってしまうのを、いまいち完全に防止することはできなかった。
・というのも、即座の反応は、わたしの側で何かを一気にやってしまおうと決定した結果であったのが見えたからです。わたしはある目的に最短距離で行けるつもりになったのです。そして、この決断によって素早く動いてしまったので、この目的を達成するために、筋道立てた最良の手順たる新しい方向性を、必要な回数だけくりかえす機会を、自分自身にあたえなかったのです。
・わたしの結論は、自分の声を使うという刺激に満足に反応することができるようになるためには、わたしは自分の時代遅れの本能的な(筋道だっていない)方向性に代わるものとして、新しい意識的な(筋道だった)方向性に置き換えていく必要があるのです。
・ひとの個性とか性格について語ることは、そのひとの自分の使い方を語ることだ。
・自分がまちがっていることを知ること、世界中でわかることはこれだけだ。
・イスから立ったり座ったりすることは、それが最善の状況下でするとしても、それ自体に価値はない。それは単なる体育だ。動きを起こすにいたる準備をどうしているかということが問題なのだ。
・煮詰めればすべては、与えられた刺激に対する特定の反応を抑制することにつきる。だがそのように見るひとはいない。みんなが思うことはただ、正しい仕方でイスから立ったり座ったりすることなので。そういうことではない。必要なのは生徒がそれをすることに自分で同意するとか、しないとかいうことなのだ。
・すでに知っていることをくりかえしているかぎり、未知のことをできるはずがない。
・だれもが正しくありたいと思っている。しかし、だれも立ち止まってその正しいという観念が正しいかどうかを考えようとはしない。
・印刷物には要注意。書いてある通りには読まないことがある。
・学習するかわりに脱学習する考えで来るようになれば、そのひとたちは好ましい精神構造にあるといえる。
・見ることができる地点に達したら、ずいぶんのことが見えてくる。経験それ自体が養分となって、次の経験へと進む。
参照:創始者達
・ひとに何をするべきか、いうことはできない。あなたのするべきことは、感覚することなのだから。
・努力とは、自分がすでに知っていることを強化することでしかありません。
・ある部分に問題が生じるのは、有機体全体に問題があるからなのです。その証拠に、手順を踏んでいけば特定の欠点は根絶されます。
・変化するには、ひとの一生の習慣に抵抗するような決断が要求される。
・覚えておくべき重要なことがある。あらゆる活動において、ある特定の部分を使うということは、有機体の他の部分を使うことに密接にかかわりあっている。そして、様々な部分がお互いに及ぼしあう影響は、これらの部分の使い方との関係でつねに変化している。
・実際の場では、自分自身の筋道の立たない方向性と、筋道の立った方向性のふたつにはっきりした境界線がないことに、わたしは気づいた。それでわたしは、ふたつがだんごのようにいっしょくたになってしまうのを、いまいち完全に防止することはできなかった。
・というのも、即座の反応は、わたしの側で何かを一気にやってしまおうと決定した結果であったのが見えたからです。わたしはある目的に最短距離で行けるつもりになったのです。そして、この決断によって素早く動いてしまったので、この目的を達成するために、筋道立てた最良の手順たる新しい方向性を、必要な回数だけくりかえす機会を、自分自身にあたえなかったのです。
・わたしの結論は、自分の声を使うという刺激に満足に反応することができるようになるためには、わたしは自分の時代遅れの本能的な(筋道だっていない)方向性に代わるものとして、新しい意識的な(筋道だった)方向性に置き換えていく必要があるのです。
・ひとの個性とか性格について語ることは、そのひとの自分の使い方を語ることだ。
・自分がまちがっていることを知ること、世界中でわかることはこれだけだ。
・イスから立ったり座ったりすることは、それが最善の状況下でするとしても、それ自体に価値はない。それは単なる体育だ。動きを起こすにいたる準備をどうしているかということが問題なのだ。
・煮詰めればすべては、与えられた刺激に対する特定の反応を抑制することにつきる。だがそのように見るひとはいない。みんなが思うことはただ、正しい仕方でイスから立ったり座ったりすることなので。そういうことではない。必要なのは生徒がそれをすることに自分で同意するとか、しないとかいうことなのだ。
・すでに知っていることをくりかえしているかぎり、未知のことをできるはずがない。
・だれもが正しくありたいと思っている。しかし、だれも立ち止まってその正しいという観念が正しいかどうかを考えようとはしない。
・印刷物には要注意。書いてある通りには読まないことがある。
・学習するかわりに脱学習する考えで来るようになれば、そのひとたちは好ましい精神構造にあるといえる。
・見ることができる地点に達したら、ずいぶんのことが見えてくる。経験それ自体が養分となって、次の経験へと進む。
参照:創始者達
by centeringkokyu
| 2006-10-12 23:25
| アレクサンダー・テクニーク