2006年 09月 19日
気と練功そして意念について |
張宇老師来日講義録から抜粋します。
気と練功
外丹功とは、この衛気・営気を鍛錬するものです。まず肌肉を放松させます。そのようにして正しい姿勢をとれば、気が肌肉の中を通ってゆくのが分かります。これが外丹功で衛気を鍛錬する基本です。この場合の肌肉の放松とは決して力の抜けたダラッとしたものではなく、放松して「開いた」状態、太極拳でいうところの柔中有剛、真綿に針をくるんだような状態を指しています。そのようになって初めて気が満ち、衛・営が練られてゆく訳ですが、これらの気はみな下焦すなわち下丹田に由来します。一般にこの下丹田を練るのに「意守丹田」とよくいわれますがこれは全くの間違いです。沈肩墜肘、含胸抜背等の要求を満たして放松していれば、気は自由に集まってくるものであり、意守するものではありません。むしろ過度に意守をして、めまい・腹部の膨満感などの偏差を招くことになりがちです。ですから、最初は意念は用いず、もっぱら要求通りの形を作ることに専念すべきです。
意念について
ここで以上のように鍛錬を進めてゆく中で、意念がどうかかわるのかを述べましょう。いわゆる気功法で意念を使わないものは(ある高いレベルのものを除いて)考えられません。しかし、すでに述べたように、用い方が強過ぎるとどうしてもいろいろな問題が起こってきます。意念には「有るようで無いような」が大切で、ある時には強く、ある時には弱く用いながら進んでゆくものなのです。
1.外丹功と意念
まず外丹功と意念について考えてみましょう。外丹功の鍛錬にあたっては、気に意念を置きません。そして、体の中に意念せず、むしろ外に意念します。天・地・人の合一、内外の交流を計り、自分を取り巻く空間の中から(単にものを食べるという形だけでなく)全てを取り入れなければ、外丹功における練功の成功はありえません。意念を「より少なく」そして「体の外へと」集中してゆきます。このようにして、体内の衛気を練るのとあわせて体外の気をも練ってゆくことになるのです。
2.内丹功と意念
これに対して、内丹功の場合には意念を用います。(ただし鍛錬が進めば進む程、意念は少なくしなければなりません。)外丹功で練った気を、外から内へもってくる最初の段階で、強い意念活動が必要だからです。そして、内丹功で初めて気に意念を置きます。「意をもって気を導く」ということを最初に僅かだけするのです。しかし、ひとたび気が動き出せばすぐにこれは逆転し、気が意を導くようにしなければなりません。すなわち初発において先発は意、後発は気、その直ぐ後にはもう、先発は気、後発は意となります。そしてさらには、意念を殆ど使わない状態へと進んでゆくのです。
#楽隠居です
張宇先生が来日された時に、偶然にも大阪の中央公会堂で開催された講習会に参加することができました。通訳は星野先生だったと記憶しています。
普通私は、全く功法の順番を覚えられないのですが、この外丹功は、不思議と覚えられたのです。勿論、関西気功協会が発売した北京で撮影されたビデオも購入して、自習しました。そして、この外丹功の一部を、大東流のOO会に所属していた時に、稽古前の体操として取り入れたのでした。
その後、偶然にも中国から帰られ、日本で鍼灸学校に通っておられた鵜沼先生に西宮で、外丹功を教えて頂く機会にも恵まれたのです。
その時のお話の中で印象的だったのは、鵜沼先生が中国で気功を習っていた時に、中国人の先輩達は、時々老師に呼ばれて、何か一言二言アドバイスされているのに、いつまで経っても、自分は老師に呼ばれることはなかった。やはり、自分は日本人だから先生は何も教えてくださらないのだろうかと思っていると、ある日老師に呼ばれた。
老師曰く、「君は既に川を渡ってしまっているのに、いつまで筏を担いでいるのだ!」これは、中国語で言われた言葉ですから、微妙な表現の違いはあるとおもいますが、要は「基本的な要訣はマスターしてしまっているのに、いつまで初心者用の要訣にしがみついているのだ。」ということだと思います。実際、筏を乗り捨てるタイミングは、難しいものです。私は何度も筏を組み直しては使っています。ハイ!
鵜沼先生に関しては、こちらをご覧下さい。
参照1:外丹功
参照2:太気拳の実践 立禅
気と練功
外丹功とは、この衛気・営気を鍛錬するものです。まず肌肉を放松させます。そのようにして正しい姿勢をとれば、気が肌肉の中を通ってゆくのが分かります。これが外丹功で衛気を鍛錬する基本です。この場合の肌肉の放松とは決して力の抜けたダラッとしたものではなく、放松して「開いた」状態、太極拳でいうところの柔中有剛、真綿に針をくるんだような状態を指しています。そのようになって初めて気が満ち、衛・営が練られてゆく訳ですが、これらの気はみな下焦すなわち下丹田に由来します。一般にこの下丹田を練るのに「意守丹田」とよくいわれますがこれは全くの間違いです。沈肩墜肘、含胸抜背等の要求を満たして放松していれば、気は自由に集まってくるものであり、意守するものではありません。むしろ過度に意守をして、めまい・腹部の膨満感などの偏差を招くことになりがちです。ですから、最初は意念は用いず、もっぱら要求通りの形を作ることに専念すべきです。
意念について
ここで以上のように鍛錬を進めてゆく中で、意念がどうかかわるのかを述べましょう。いわゆる気功法で意念を使わないものは(ある高いレベルのものを除いて)考えられません。しかし、すでに述べたように、用い方が強過ぎるとどうしてもいろいろな問題が起こってきます。意念には「有るようで無いような」が大切で、ある時には強く、ある時には弱く用いながら進んでゆくものなのです。
1.外丹功と意念
まず外丹功と意念について考えてみましょう。外丹功の鍛錬にあたっては、気に意念を置きません。そして、体の中に意念せず、むしろ外に意念します。天・地・人の合一、内外の交流を計り、自分を取り巻く空間の中から(単にものを食べるという形だけでなく)全てを取り入れなければ、外丹功における練功の成功はありえません。意念を「より少なく」そして「体の外へと」集中してゆきます。このようにして、体内の衛気を練るのとあわせて体外の気をも練ってゆくことになるのです。
2.内丹功と意念
これに対して、内丹功の場合には意念を用います。(ただし鍛錬が進めば進む程、意念は少なくしなければなりません。)外丹功で練った気を、外から内へもってくる最初の段階で、強い意念活動が必要だからです。そして、内丹功で初めて気に意念を置きます。「意をもって気を導く」ということを最初に僅かだけするのです。しかし、ひとたび気が動き出せばすぐにこれは逆転し、気が意を導くようにしなければなりません。すなわち初発において先発は意、後発は気、その直ぐ後にはもう、先発は気、後発は意となります。そしてさらには、意念を殆ど使わない状態へと進んでゆくのです。
#楽隠居です
張宇先生が来日された時に、偶然にも大阪の中央公会堂で開催された講習会に参加することができました。通訳は星野先生だったと記憶しています。
普通私は、全く功法の順番を覚えられないのですが、この外丹功は、不思議と覚えられたのです。勿論、関西気功協会が発売した北京で撮影されたビデオも購入して、自習しました。そして、この外丹功の一部を、大東流のOO会に所属していた時に、稽古前の体操として取り入れたのでした。
その後、偶然にも中国から帰られ、日本で鍼灸学校に通っておられた鵜沼先生に西宮で、外丹功を教えて頂く機会にも恵まれたのです。
その時のお話の中で印象的だったのは、鵜沼先生が中国で気功を習っていた時に、中国人の先輩達は、時々老師に呼ばれて、何か一言二言アドバイスされているのに、いつまで経っても、自分は老師に呼ばれることはなかった。やはり、自分は日本人だから先生は何も教えてくださらないのだろうかと思っていると、ある日老師に呼ばれた。
老師曰く、「君は既に川を渡ってしまっているのに、いつまで筏を担いでいるのだ!」これは、中国語で言われた言葉ですから、微妙な表現の違いはあるとおもいますが、要は「基本的な要訣はマスターしてしまっているのに、いつまで初心者用の要訣にしがみついているのだ。」ということだと思います。実際、筏を乗り捨てるタイミングは、難しいものです。私は何度も筏を組み直しては使っています。ハイ!
鵜沼先生に関しては、こちらをご覧下さい。
参照1:外丹功
参照2:太気拳の実践 立禅
by centeringkokyu
| 2006-09-19 00:00
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