2006年 09月 11日
舞…歩行の芸術 |
「舞踊の芸」武智 鉄二著 昭和60年6月発行から抜粋してご紹介します。
以前この本からは、ナンバを取り上げさせていただきました。
以上のように.舞がナンバの身体の動かし方と、精神的な深みの表現とを民族芸術的特色として持っていることをほぼ明らかにしたが、もう一つ重要な点は舞が踊と違って、飛んだりはねたり(リズムを持たないことはすでに述べた)することをしないために、土の上を歩くということが重要な身体表現の要素になってくるということである。その意味で舞は、歩行の芸術ということができる。
この歩く芸術の要素は、日本の舞踊にきわめて大きい影響を与えている点で、舞が踊の影響を受けるようになってから成立した歌舞伎舞踊や、いわゆる現代の邦舞にも大きい影響を与えているが、本来舞を歩行の芸術として完成したのは、能であった。そもそも日本人が両足を平行に歩行することは、すでに弥生中期の足跡遺跡から現代の狂言の伝承にまで及んでいることはすでに述べたが、能においては歩行が重要な所作にまで高められている。
すなわち、それは「運歩」と呼ばれるのであるが、足を平行に前へ出す時、地を摺るように前に移行させていく。いわゆる「摺り足」である。能の直立の姿勢では、身体の重心が土踏まずの一番外側のほとんど一点をなす部分に置かれるのであるが、それを歩行に移す場合、地を摺って左足が一歩分前進し、そのとき重心は後足(右足)に残る。左足が一歩出終わったとき、右足は重心と共に前方へ移行し、左右の足がすれ違うとき、右足の重心は左足の土踏まずの一番外側の部分へ移される。すなわち、前へ出る足には重心がないのである。重心を喪失した前方の足は、弧を描いて無限の宙空へ上がっていく。しかし、前足を宙空へ解き放っては歩行にならないので、まさに前足が空へ上がろうとする瞬間をとらえて、後足が重心を前足へ移すために前進するのである。
能の摺り足をつま先を上げて歩く歩き方と信じている人が多いが、それは間違いで、前足に重心がないから、つま先から空中へ向かって上がろうとするから、つま先がもち上がるので、それでつま先を上げて歩いているように見えるだけのことなのである。この道歩でむつかしいのは、後足の重心を前足のところまで運ぶときの力動感的な生産性エネルギーである。重心のある場所は動かないのが普通であるから、それを無理に動かすためには、肉体労働的な筋肉の作用が必要となってくる。これはおそらく農民が泥の深い水田を稲を踏みつぶさないように足を摺って歩いた、その生産労働性の芸術的昇華であると思える。
この運歩は、運歩を真行草と分けて考えた場合の「真の運び」に相当するもので、腰の力が充分でないとこの運びは不可能である。日本の舞踊で腰を入れるということがいかにも大切な原則のようにいわれるが、それはこの「真の運び」の腰の力に原因している。
いったい農民の歩き方は、農耕労働がナンバであるから、したがって歩き方もナンバになる。しかしナンバで歩くとき、右足が前へ出ると右肩も前へ出るわけであるから、歩くたびに、一歩ごとに、身体全体が右左右左にゆれて歩行の目的を達することができないことになる。そこで農民は腰を入れて、腰から上は正面を向いたままで固定させ、腰から下の足の動きは上体とは関係がないように切り放して動かす術を身につけたのであった。
この歩行の形式が芸術的に昇華されて能の運歩を生みだすのであるが、「真の運び」では特に腰の力が重要になってくる。今でもきびしい舞踊の師匠は歩くときに後のかかとを上げないでということをよく注意するが、これは「真の運び」の伝承の名残りなのである。
しかし、能楽師にとっても「真の運び」は大変な苦行であるので、ある程度後足のかかとを浮かすことが許される場合があるし、むしろ今ではそのほうが一般的になっている。これは「行の運び」であって重心がつま先へ転がるように移行するのであるから運歩のエネルギーは格段に減少する。したがって前方の足も形式的につま先を上げて下ろす、という形式的運歩が生まれてくる。
しかし、「真の運び」の無限に大空へ向かって弧を描いて上がっていくという考え方は、非常に抽象的、かつ形而上学的で、幽玄第一の芸術としての能に非常にふさわしいように感じられる。ただ単に歩くということをそのような形而上学的な、あるいは抽象的なところにまで高めたところに、日本の農民層が生んだ生産性の線に沿った深い思念が息吹いているように感じられる。
また、日本の舞踊が異風の芸術である踊の要素を多く取り入れるようになっても、なお摺り足を歩行の基本芸として、捨て去ることができないでいる点にも深い感興を覚える。
なお、「草の運び」は狂言によく用いられ、これは運歩の際に前足に重心が掛かるもので、移動に関しては実際的な効果がある。
#楽隠居です
確か、金春流の歩法と柳生新陰流の西江水を、秘伝交換されたというような話を読んだような記憶があります。以前ご紹介した武蔵の剣には、次のように書かれていました。
至極の振り
太刀から生きた重さを引き出す振りは、「ゆび二つ」で柄を握る手の内から生まれ、そのような手の内は、下筋(かきん)から胴体、腹に繋がる腕の振りから生まれ、そのような振りは、足の親指を浮かせた吊り腰の「身なり」から生まれます。
探偵ナイトスクープでは、輪ゴムを足の親指に引っかけて、一度捻ってから踵に引っかけて走ると、タイムが早くなったという実験をしていました。
鍬でも肩に担いで、左右に揺れないように歩く工夫をしてみてもよいかもしれませんね!
靴の中敷きメーカーが、次のような理論を展開していました。
人間の足は、つま先を持ち上げたウインドラスポジションをとることで、自然にアーチも持ち上がり、ヒザや腰、背筋や肩など身体全体の骨格が整い、正しい姿勢へ導かれます。
足裏のアーチは身体全体にも連動しています。アーチの機能低下がもたらす身体のアンバランスが、身体のいろいろな所にストレスを集中させてしまい、足に限らず腰痛や肩こりなど様々なトラブルや障害を引き起こす結果となります。詳しくはこちらをご覧下さい。
以前この本からは、ナンバを取り上げさせていただきました。
以上のように.舞がナンバの身体の動かし方と、精神的な深みの表現とを民族芸術的特色として持っていることをほぼ明らかにしたが、もう一つ重要な点は舞が踊と違って、飛んだりはねたり(リズムを持たないことはすでに述べた)することをしないために、土の上を歩くということが重要な身体表現の要素になってくるということである。その意味で舞は、歩行の芸術ということができる。
この歩く芸術の要素は、日本の舞踊にきわめて大きい影響を与えている点で、舞が踊の影響を受けるようになってから成立した歌舞伎舞踊や、いわゆる現代の邦舞にも大きい影響を与えているが、本来舞を歩行の芸術として完成したのは、能であった。そもそも日本人が両足を平行に歩行することは、すでに弥生中期の足跡遺跡から現代の狂言の伝承にまで及んでいることはすでに述べたが、能においては歩行が重要な所作にまで高められている。
すなわち、それは「運歩」と呼ばれるのであるが、足を平行に前へ出す時、地を摺るように前に移行させていく。いわゆる「摺り足」である。能の直立の姿勢では、身体の重心が土踏まずの一番外側のほとんど一点をなす部分に置かれるのであるが、それを歩行に移す場合、地を摺って左足が一歩分前進し、そのとき重心は後足(右足)に残る。左足が一歩出終わったとき、右足は重心と共に前方へ移行し、左右の足がすれ違うとき、右足の重心は左足の土踏まずの一番外側の部分へ移される。すなわち、前へ出る足には重心がないのである。重心を喪失した前方の足は、弧を描いて無限の宙空へ上がっていく。しかし、前足を宙空へ解き放っては歩行にならないので、まさに前足が空へ上がろうとする瞬間をとらえて、後足が重心を前足へ移すために前進するのである。
能の摺り足をつま先を上げて歩く歩き方と信じている人が多いが、それは間違いで、前足に重心がないから、つま先から空中へ向かって上がろうとするから、つま先がもち上がるので、それでつま先を上げて歩いているように見えるだけのことなのである。この道歩でむつかしいのは、後足の重心を前足のところまで運ぶときの力動感的な生産性エネルギーである。重心のある場所は動かないのが普通であるから、それを無理に動かすためには、肉体労働的な筋肉の作用が必要となってくる。これはおそらく農民が泥の深い水田を稲を踏みつぶさないように足を摺って歩いた、その生産労働性の芸術的昇華であると思える。
この運歩は、運歩を真行草と分けて考えた場合の「真の運び」に相当するもので、腰の力が充分でないとこの運びは不可能である。日本の舞踊で腰を入れるということがいかにも大切な原則のようにいわれるが、それはこの「真の運び」の腰の力に原因している。
いったい農民の歩き方は、農耕労働がナンバであるから、したがって歩き方もナンバになる。しかしナンバで歩くとき、右足が前へ出ると右肩も前へ出るわけであるから、歩くたびに、一歩ごとに、身体全体が右左右左にゆれて歩行の目的を達することができないことになる。そこで農民は腰を入れて、腰から上は正面を向いたままで固定させ、腰から下の足の動きは上体とは関係がないように切り放して動かす術を身につけたのであった。
この歩行の形式が芸術的に昇華されて能の運歩を生みだすのであるが、「真の運び」では特に腰の力が重要になってくる。今でもきびしい舞踊の師匠は歩くときに後のかかとを上げないでということをよく注意するが、これは「真の運び」の伝承の名残りなのである。
しかし、能楽師にとっても「真の運び」は大変な苦行であるので、ある程度後足のかかとを浮かすことが許される場合があるし、むしろ今ではそのほうが一般的になっている。これは「行の運び」であって重心がつま先へ転がるように移行するのであるから運歩のエネルギーは格段に減少する。したがって前方の足も形式的につま先を上げて下ろす、という形式的運歩が生まれてくる。
しかし、「真の運び」の無限に大空へ向かって弧を描いて上がっていくという考え方は、非常に抽象的、かつ形而上学的で、幽玄第一の芸術としての能に非常にふさわしいように感じられる。ただ単に歩くということをそのような形而上学的な、あるいは抽象的なところにまで高めたところに、日本の農民層が生んだ生産性の線に沿った深い思念が息吹いているように感じられる。
また、日本の舞踊が異風の芸術である踊の要素を多く取り入れるようになっても、なお摺り足を歩行の基本芸として、捨て去ることができないでいる点にも深い感興を覚える。
なお、「草の運び」は狂言によく用いられ、これは運歩の際に前足に重心が掛かるもので、移動に関しては実際的な効果がある。
#楽隠居です
確か、金春流の歩法と柳生新陰流の西江水を、秘伝交換されたというような話を読んだような記憶があります。以前ご紹介した武蔵の剣には、次のように書かれていました。
至極の振り
太刀から生きた重さを引き出す振りは、「ゆび二つ」で柄を握る手の内から生まれ、そのような手の内は、下筋(かきん)から胴体、腹に繋がる腕の振りから生まれ、そのような振りは、足の親指を浮かせた吊り腰の「身なり」から生まれます。
探偵ナイトスクープでは、輪ゴムを足の親指に引っかけて、一度捻ってから踵に引っかけて走ると、タイムが早くなったという実験をしていました。
鍬でも肩に担いで、左右に揺れないように歩く工夫をしてみてもよいかもしれませんね!
靴の中敷きメーカーが、次のような理論を展開していました。
人間の足は、つま先を持ち上げたウインドラスポジションをとることで、自然にアーチも持ち上がり、ヒザや腰、背筋や肩など身体全体の骨格が整い、正しい姿勢へ導かれます。
足裏のアーチは身体全体にも連動しています。アーチの機能低下がもたらす身体のアンバランスが、身体のいろいろな所にストレスを集中させてしまい、足に限らず腰痛や肩こりなど様々なトラブルや障害を引き起こす結果となります。詳しくはこちらをご覧下さい。
by centeringkokyu
| 2006-09-11 23:16
| 本などの紹介