2006年 08月 19日
合気道修行 |
昨日、古い本や資料を整理していましたら、確かI川さんがまとめてくださったはずの資料がでてきました。出典は書いていなかったのですが、多分「合気道修行 対すれば和す」 塩田剛三著 1997年5月発行 だったと思います。頂いた資料から、適当に抜粋しましたので、理解しにくい部分もありますが、ご辛抱ください。
無の境地に達したときに、恐怖心が無くなります。あらゆる不安が消えて、自分自身を完全に信じ切れるようになります。明鏡止水の境地に達するのです。
そうなると、相手の心の動きが読めてきます。どう出てくるかということが、頭でなく肌で感じ取れるのです。いわゆる心眼が働くようになるわけです。
「覚えて忘れろ」というのは、前がこうだったから次もそうしようというのではなく、そういうこだわりを一度すべて忘れ、まったく新しい状況に対処するつもりで技に取り組めということなのです。
そして、手順ではなく、“一瞬をつかまえる”感覚を身につけていけというわけです。
こうしてやろう、ああしてやろうという欲を棄てなければなりません。頭で判断して動くのではなく、五感の反応にまかせてしまったとき、初めて自由にさばくことができます。そうなったらもう、相手の攻撃の種類などは問題外になるのです。
私には、力の流れが見えているのです。それも感じではなくて、はっきりと見えるのです。
こういうのはジッと見ていてもダメなのです。すべてを総合的にパッと見取らなければなりません。
先ほどから繰り返し説明している中心線、あくまでもそれは生かしてておかなければなりません。ピシッと体に一本筋を通した上で、なおかつ力を抜く。そして、相手の力を自分のほうに乗せてしまうのです。
このとき少しでも反発する気持ちがあってはダメです。完全に力を抜いて、相手の持ちたいままにさせておく。そうすると、どういうわけか、相手は力を入れても入れても、その力が抜けてしまって、とらえどころを失ってしまうのです。
ただ自分の動きだけがやみくもに早ければいいというのではありません。自分においては、早いとか遅いとかの観念はなくならなければいけない。早くしようとか遅くしようとかの考えはないわけです。
相手の気(機)に合わせるということで、早くもなり、遅くもなります。相手の気と合わなければ意味がないのです。
植芝先生の二ケ条は、やられた我々には痛いという感じはありませんでした。しかし、知らないうちに、カクーンと崩されるのです。手首の痛さではなくて、力が全部、腰と膝にくる感じでした。
合気道の技は、本来、こんなふうに効かさなければなりません。腰と膝に効いて立っていられなくなるのが、本当の効き方なのです。
それは結局、力をそういう方向に流しているからです。人間の体とは不思議なもので、いくら力を入れて反発していても、必ずどこかに弱いところがあるもので、その方向へ力を流してやると、腰が抜けてしまうのです。
植芝先生はよく、片足立ちになって、私たちにかかって来いと言って稽古していました。どこにでも重心を持っていって、常に安泰なる体勢を作れなければいかんということを、示していたのです。
乱暴に言えば、いかに相手を崩してしまうかが問題なのであって、最終的にどんなふうに投げるかというのは、どうでもいいことなのです。
最終的には力の抜き方を覚えなくてはいけないのです。抜いた力に乗るということ、これができれば、もはや技があって技がなくなります。こうなったとき、本当の自信がみずからの内に沸き起こってくるのです。
怖いのは、言葉を知ることによって、あたかもその本質までわかったような気になることなのです。そうすると、本人の主体がどこかに行ってしまって、押しつけられた言葉だけが一人歩きしてしまう。言葉が人間を縛ることになってしまうのです。
その場その場において最善であることが修行です。ですから、合気道の修行に終わりはなく、一生涯、向上心を持ち続けることができるのです。
大切なのは、それぞれの人に、いかに自分自身で本質をつかまえられるような環境を与えてやるか、ということなのです。
#楽隠居です
久しぶりにこの文章を読み直して、やはり養神館には「痛くないのに崩れる技」や「片足立ちで技を掛ける稽古」があるに違いないと思いました。さらに、「自分自身で本質をつかまえる」ようになれる環境を与えて頂けるのですから、最高ですよネ!
塩田先生は「足の親指」を強調しておられますが、私は意識的に取り上げませんでした。何故なのかは、「中心網要」や「舟漕ぎ運動」をお読み頂き、「平起平落」「足首運動」などを参考にして、各自でご推測頂きたいと思います。
ヒントは、こちら
参照1:考えている暇は無い?
参照2:合気修得への道
参照3:仮想対談1
参照4:仮想対談2
無の境地に達したときに、恐怖心が無くなります。あらゆる不安が消えて、自分自身を完全に信じ切れるようになります。明鏡止水の境地に達するのです。
そうなると、相手の心の動きが読めてきます。どう出てくるかということが、頭でなく肌で感じ取れるのです。いわゆる心眼が働くようになるわけです。
「覚えて忘れろ」というのは、前がこうだったから次もそうしようというのではなく、そういうこだわりを一度すべて忘れ、まったく新しい状況に対処するつもりで技に取り組めということなのです。
そして、手順ではなく、“一瞬をつかまえる”感覚を身につけていけというわけです。
こうしてやろう、ああしてやろうという欲を棄てなければなりません。頭で判断して動くのではなく、五感の反応にまかせてしまったとき、初めて自由にさばくことができます。そうなったらもう、相手の攻撃の種類などは問題外になるのです。
私には、力の流れが見えているのです。それも感じではなくて、はっきりと見えるのです。
こういうのはジッと見ていてもダメなのです。すべてを総合的にパッと見取らなければなりません。
先ほどから繰り返し説明している中心線、あくまでもそれは生かしてておかなければなりません。ピシッと体に一本筋を通した上で、なおかつ力を抜く。そして、相手の力を自分のほうに乗せてしまうのです。
このとき少しでも反発する気持ちがあってはダメです。完全に力を抜いて、相手の持ちたいままにさせておく。そうすると、どういうわけか、相手は力を入れても入れても、その力が抜けてしまって、とらえどころを失ってしまうのです。
ただ自分の動きだけがやみくもに早ければいいというのではありません。自分においては、早いとか遅いとかの観念はなくならなければいけない。早くしようとか遅くしようとかの考えはないわけです。
相手の気(機)に合わせるということで、早くもなり、遅くもなります。相手の気と合わなければ意味がないのです。
植芝先生の二ケ条は、やられた我々には痛いという感じはありませんでした。しかし、知らないうちに、カクーンと崩されるのです。手首の痛さではなくて、力が全部、腰と膝にくる感じでした。
合気道の技は、本来、こんなふうに効かさなければなりません。腰と膝に効いて立っていられなくなるのが、本当の効き方なのです。
それは結局、力をそういう方向に流しているからです。人間の体とは不思議なもので、いくら力を入れて反発していても、必ずどこかに弱いところがあるもので、その方向へ力を流してやると、腰が抜けてしまうのです。
植芝先生はよく、片足立ちになって、私たちにかかって来いと言って稽古していました。どこにでも重心を持っていって、常に安泰なる体勢を作れなければいかんということを、示していたのです。
乱暴に言えば、いかに相手を崩してしまうかが問題なのであって、最終的にどんなふうに投げるかというのは、どうでもいいことなのです。
最終的には力の抜き方を覚えなくてはいけないのです。抜いた力に乗るということ、これができれば、もはや技があって技がなくなります。こうなったとき、本当の自信がみずからの内に沸き起こってくるのです。
怖いのは、言葉を知ることによって、あたかもその本質までわかったような気になることなのです。そうすると、本人の主体がどこかに行ってしまって、押しつけられた言葉だけが一人歩きしてしまう。言葉が人間を縛ることになってしまうのです。
その場その場において最善であることが修行です。ですから、合気道の修行に終わりはなく、一生涯、向上心を持ち続けることができるのです。
大切なのは、それぞれの人に、いかに自分自身で本質をつかまえられるような環境を与えてやるか、ということなのです。
#楽隠居です
久しぶりにこの文章を読み直して、やはり養神館には「痛くないのに崩れる技」や「片足立ちで技を掛ける稽古」があるに違いないと思いました。さらに、「自分自身で本質をつかまえる」ようになれる環境を与えて頂けるのですから、最高ですよネ!
塩田先生は「足の親指」を強調しておられますが、私は意識的に取り上げませんでした。何故なのかは、「中心網要」や「舟漕ぎ運動」をお読み頂き、「平起平落」「足首運動」などを参考にして、各自でご推測頂きたいと思います。
ヒントは、こちら
参照1:考えている暇は無い?
参照2:合気修得への道
参照3:仮想対談1
参照4:仮想対談2
by centeringkokyu
| 2006-08-19 00:00
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