2006年 07月 23日
仮想対談2 |
F:骨格・筋肉・重力
骨格構造が引力に抗って働き、筋肉がいつでも動けるように自由になっていればいいのだ。そのように、神経系と筋肉骨格組織が重力の作用のもとでひとつになって働けば、骨格は引力の影響にもかかわらずエネルギーを浪費せずに体を支えられることになるのである。ところが、もしも筋肉が骨格の代わりを努めねばならなくなると、無駄なエネルギーを使うことになるばかりか、体の姿勢を変える、つまり動くという筋肉本来の主要な働きを遂行する妨げとなる。
悪い姿勢では、筋肉が骨の役目の一部を努めている。姿勢をよくするためには、重力に対する神経系の反応をなにが歪めているかを発見することが重要である。生きている限り、全身体機構のあらゆる部分が、重力に対して適合しなくてはならないからである。
S:姿勢が真っ直ぐになっていなければいけない。前屈みになってはいけない。これは大事な事だ。倒そうという気が先に出てしまっているからいけない。正しいやり方を、しっかり学ぶことが先決だ。人間なんてそう簡単に倒れるものじゃないんだから、基本をしっかりやるのだ。その方がずっと近道なのだ。そのうち力を入れるべき所、抜くべき所が分かってくる。
S:倒して喜んでいたってダメだ。それが、理にかなっていることが大切で、そうやって倒れることも倒れないこともあるだろうが、こういう初伝の所は、体作りが目的なのだからね。
F:改善に限界はない
個人が自己開発を進めれば進めるだけ、その行動は楽なものになる。楽な行動とは、感覚と筋肉が調和をもって調整されることである。行動が緊張と無駄な努力から解放されると、楽に行動できるようになるので、感受性と識別力が高まるが、そのことがまた一層行動を楽にしてくれる。そうすると、それまで自分には楽に出来ると思っていた行動の中にさえ、不必要な努力があるのを見抜くことが出来るようになる。行動におけるこのような感受性は、さらに磨き上げると、ますます精妙になり、ついに一定の水準まで高まる。
そしてこの線を越えるためには、全人格構成を改善しなくてはならなくなる。しかしこの段階になると、そこから先への前進は、ゆっくりと少しずつではなくて、突然の飛躍によって達成される。行動ははるかに楽になり、新たなる地平線をもった未知の質を獲得する。
S:稽古だって、ただ繰り返していたって何にもならない。心が目的を持って働くときに変わる。ものを見ても、心が働いていなければ何を見たか覚えていない。
S:いくら教えても、習っただけのものはすぐ忘れてしまうのだ。しかし、自得したものは決して忘れず自分のものとなる。要するに、教えるということはヒントを与えるのにすぎない。自得しなくてはならない。とくに合気は一種の内部感覚で自得しなければならない。
S:合気は仮に教わったとしても、一年やそこらで出来るというものではない。体を鍛えないで色々考えたとしても出来るわけがない。それに合気は本来、口で説明を受けるものではなく、やられた感じをもとに考え、自分のものとしていく種類のものなのだ。
F:きつい仕事には大きい筋肉を使う
効果的な動きをするためには、体を動かすのがつらい仕事は、その目的のためにつくられた筋肉に任せなくてはならない。
注意深く観察すれば、一番強くて大きい筋肉は、骨盤につながっているのが分かるだろう。ほとんどの仕事は、これらの筋肉、とくに臀部、大腿部、下腹部の筋肉が行う。体の中心部から四肢の方へ移るにつれて、筋肉は次第に小さくなる。四肢の筋肉の役目は、四肢の動きを正確に方向づけることであるが、骨盤の筋肉の主要な力は、四肢の骨格を伝わり、作用する地点まで到達する。
体が良く調整されていれば、大きい筋肉の行う仕事は、骨格を伝わり、弱い筋肉の助けをえて、最終目的地点まで到達するが、その途中でほとんど力を失うことがない。
S:足腰を本当に鍛えなければならない。体も柔らかくしなければいけない。そういう体を作っていかなければならない。熱意が根底にあれば、鍛え方は色々と分かってくるのだ。私は二十四通りもの鍛え方をしてきて、どうすればどうなるという事が、段々分かっていったのだ。自分で開拓するつもりでなければだめだ。熱意のない人には、例えやり方を詳しく教えても結局はだめだし、言われた事だけやっていても、なかなかだめなのだ。
F:理想的な動作の通路を開く
ある姿勢から別の姿勢に動く~座っていて立ち上がるとか、寝ていて座るとか~ときに、骨盤にとって理想的な動作の筋道は、筋肉が一切なくて骨が靱帯だけでつながっていると仮定した場合に取るような動きの線である。最短距離の最も効率の良い道を通って床から立ち上がるためには、頭部を引っ張り上げた場合に骨格組織が描く道を、全身の骨が通過できるように体が調整されていなくてはならない。この道を通る限り、筋肉の力は、骨格の中を伝わり、骨盤筋の力はすべて有効な仕事に変化する。
S:体を鍛え続けると、体が変わってきて新しい考えが出てくる。
S:合気は目の付け所が違う。発想がまるで違うのだ。努力すればできるというものではない。くずしは合気の一部だがすべてではない。考え方がまるで違うから頭を使わなければならない。
S:合気は集中力とか、透明な力というような、いわゆる力とは違うものである。合気は敵の力を抜いてしまう技術だからである。そのうえくっつけて離れないようにもしてしまうのだから大変なことである。
S:私の合気は外からいくら見ても分からない。内部の働きで相手の力を抜いてしまい、形にはあらわれないからね、今では体中のどこをもたれても敵の力を抜いてしまう。もとは簡単な原理から出発しているのだが誰も気づかない。それに気づいたかどうかは合気あげをみれば分かる。
S:合気が分かってから本当の修行が始まるのだ。長い間の持続した鍛錬と研究の結果、少しずつできるようになってくるものだ。
ここからは、佐川先生の独白という感じです。
S:形にとらわれてはいけない。形を作ってはいけない。他から見たら格好良いかもしれないが作った形は死物である。
S:柔術を形としてやるのが一番悪い。実際に全然使い物にならなくなってしまう。変化が大事なのだ。私の所のやり方はそうだ。一つの代表として形を教えても臨機応変に変化する。
S:どうも、皆形をまねようとして、形さえまねできれば良いと思っているようだがそうではない。形ではなく、形にあらわれないところに本当に大事なものがあるのだ。
S:二・三年しかやっていない人が、十年も二十年もやった先輩を倒せるわけがないのだから、正しい足運びとかを練習しなさい。十年以上はかかるのだから、焦っている人はやめた方がよい。
#楽隠居です
最後に、私がもっとも気に入っている佐川先生の言葉をご紹介します。
S:動いているから強いんですよ。止まっていたら弱い。体の力を全く抜いているから敵の弱点がすぐ分かるのです。敵の力に逆らわない。本当に必要な瞬間に集中力を使うだけで、あとは全く力を入れていない。腕力がいくらあったって、このようにポンポン投げ飛ばすことはできない。合気があるからだ。力じゃないということです。(引用終了)
動いているというのは当然、外から見えない動きが大切なのだと思います。また、体の力を全く抜いているから、相手からの力は受けないし、敵の力に逆らわないのですが、先に自分の方の弱点を敵に知られてしまっては、必要な瞬間に集中力を発揮することはできません。ですから、虚実転換の一瞬の体内操作が大切なのだと考えています。
参照1:練功法の意味2006-01-29
参照2:道歌してる? Vol.12005-12-06
参照3:脳の迷路の冒険2005-06-12
骨格構造が引力に抗って働き、筋肉がいつでも動けるように自由になっていればいいのだ。そのように、神経系と筋肉骨格組織が重力の作用のもとでひとつになって働けば、骨格は引力の影響にもかかわらずエネルギーを浪費せずに体を支えられることになるのである。ところが、もしも筋肉が骨格の代わりを努めねばならなくなると、無駄なエネルギーを使うことになるばかりか、体の姿勢を変える、つまり動くという筋肉本来の主要な働きを遂行する妨げとなる。
悪い姿勢では、筋肉が骨の役目の一部を努めている。姿勢をよくするためには、重力に対する神経系の反応をなにが歪めているかを発見することが重要である。生きている限り、全身体機構のあらゆる部分が、重力に対して適合しなくてはならないからである。
S:姿勢が真っ直ぐになっていなければいけない。前屈みになってはいけない。これは大事な事だ。倒そうという気が先に出てしまっているからいけない。正しいやり方を、しっかり学ぶことが先決だ。人間なんてそう簡単に倒れるものじゃないんだから、基本をしっかりやるのだ。その方がずっと近道なのだ。そのうち力を入れるべき所、抜くべき所が分かってくる。
S:倒して喜んでいたってダメだ。それが、理にかなっていることが大切で、そうやって倒れることも倒れないこともあるだろうが、こういう初伝の所は、体作りが目的なのだからね。
F:改善に限界はない
個人が自己開発を進めれば進めるだけ、その行動は楽なものになる。楽な行動とは、感覚と筋肉が調和をもって調整されることである。行動が緊張と無駄な努力から解放されると、楽に行動できるようになるので、感受性と識別力が高まるが、そのことがまた一層行動を楽にしてくれる。そうすると、それまで自分には楽に出来ると思っていた行動の中にさえ、不必要な努力があるのを見抜くことが出来るようになる。行動におけるこのような感受性は、さらに磨き上げると、ますます精妙になり、ついに一定の水準まで高まる。
そしてこの線を越えるためには、全人格構成を改善しなくてはならなくなる。しかしこの段階になると、そこから先への前進は、ゆっくりと少しずつではなくて、突然の飛躍によって達成される。行動ははるかに楽になり、新たなる地平線をもった未知の質を獲得する。
S:稽古だって、ただ繰り返していたって何にもならない。心が目的を持って働くときに変わる。ものを見ても、心が働いていなければ何を見たか覚えていない。
S:いくら教えても、習っただけのものはすぐ忘れてしまうのだ。しかし、自得したものは決して忘れず自分のものとなる。要するに、教えるということはヒントを与えるのにすぎない。自得しなくてはならない。とくに合気は一種の内部感覚で自得しなければならない。
S:合気は仮に教わったとしても、一年やそこらで出来るというものではない。体を鍛えないで色々考えたとしても出来るわけがない。それに合気は本来、口で説明を受けるものではなく、やられた感じをもとに考え、自分のものとしていく種類のものなのだ。
F:きつい仕事には大きい筋肉を使う
効果的な動きをするためには、体を動かすのがつらい仕事は、その目的のためにつくられた筋肉に任せなくてはならない。
注意深く観察すれば、一番強くて大きい筋肉は、骨盤につながっているのが分かるだろう。ほとんどの仕事は、これらの筋肉、とくに臀部、大腿部、下腹部の筋肉が行う。体の中心部から四肢の方へ移るにつれて、筋肉は次第に小さくなる。四肢の筋肉の役目は、四肢の動きを正確に方向づけることであるが、骨盤の筋肉の主要な力は、四肢の骨格を伝わり、作用する地点まで到達する。
体が良く調整されていれば、大きい筋肉の行う仕事は、骨格を伝わり、弱い筋肉の助けをえて、最終目的地点まで到達するが、その途中でほとんど力を失うことがない。
S:足腰を本当に鍛えなければならない。体も柔らかくしなければいけない。そういう体を作っていかなければならない。熱意が根底にあれば、鍛え方は色々と分かってくるのだ。私は二十四通りもの鍛え方をしてきて、どうすればどうなるという事が、段々分かっていったのだ。自分で開拓するつもりでなければだめだ。熱意のない人には、例えやり方を詳しく教えても結局はだめだし、言われた事だけやっていても、なかなかだめなのだ。
F:理想的な動作の通路を開く
ある姿勢から別の姿勢に動く~座っていて立ち上がるとか、寝ていて座るとか~ときに、骨盤にとって理想的な動作の筋道は、筋肉が一切なくて骨が靱帯だけでつながっていると仮定した場合に取るような動きの線である。最短距離の最も効率の良い道を通って床から立ち上がるためには、頭部を引っ張り上げた場合に骨格組織が描く道を、全身の骨が通過できるように体が調整されていなくてはならない。この道を通る限り、筋肉の力は、骨格の中を伝わり、骨盤筋の力はすべて有効な仕事に変化する。
S:体を鍛え続けると、体が変わってきて新しい考えが出てくる。
S:合気は目の付け所が違う。発想がまるで違うのだ。努力すればできるというものではない。くずしは合気の一部だがすべてではない。考え方がまるで違うから頭を使わなければならない。
S:合気は集中力とか、透明な力というような、いわゆる力とは違うものである。合気は敵の力を抜いてしまう技術だからである。そのうえくっつけて離れないようにもしてしまうのだから大変なことである。
S:私の合気は外からいくら見ても分からない。内部の働きで相手の力を抜いてしまい、形にはあらわれないからね、今では体中のどこをもたれても敵の力を抜いてしまう。もとは簡単な原理から出発しているのだが誰も気づかない。それに気づいたかどうかは合気あげをみれば分かる。
S:合気が分かってから本当の修行が始まるのだ。長い間の持続した鍛錬と研究の結果、少しずつできるようになってくるものだ。
ここからは、佐川先生の独白という感じです。
S:形にとらわれてはいけない。形を作ってはいけない。他から見たら格好良いかもしれないが作った形は死物である。
S:柔術を形としてやるのが一番悪い。実際に全然使い物にならなくなってしまう。変化が大事なのだ。私の所のやり方はそうだ。一つの代表として形を教えても臨機応変に変化する。
S:どうも、皆形をまねようとして、形さえまねできれば良いと思っているようだがそうではない。形ではなく、形にあらわれないところに本当に大事なものがあるのだ。
S:二・三年しかやっていない人が、十年も二十年もやった先輩を倒せるわけがないのだから、正しい足運びとかを練習しなさい。十年以上はかかるのだから、焦っている人はやめた方がよい。
#楽隠居です
最後に、私がもっとも気に入っている佐川先生の言葉をご紹介します。
S:動いているから強いんですよ。止まっていたら弱い。体の力を全く抜いているから敵の弱点がすぐ分かるのです。敵の力に逆らわない。本当に必要な瞬間に集中力を使うだけで、あとは全く力を入れていない。腕力がいくらあったって、このようにポンポン投げ飛ばすことはできない。合気があるからだ。力じゃないということです。(引用終了)
動いているというのは当然、外から見えない動きが大切なのだと思います。また、体の力を全く抜いているから、相手からの力は受けないし、敵の力に逆らわないのですが、先に自分の方の弱点を敵に知られてしまっては、必要な瞬間に集中力を発揮することはできません。ですから、虚実転換の一瞬の体内操作が大切なのだと考えています。
参照1:練功法の意味2006-01-29
参照2:道歌してる? Vol.12005-12-06
参照3:脳の迷路の冒険2005-06-12
by centeringkokyu
| 2006-07-23 00:02
| フェルデンクライス関連