2006年 07月 22日
仮想対談1 |
F:「フェルデンクライス身体訓練法」 S:「透明な力」から抜粋して、フェルデンクライス先生と大東流の佐川先生に仮想対談をして頂きました。さて、どのような感じになりますか・・・
F:能力と意思力
効果的に体を働かすすべを心得ている人は、大した準備も大騒ぎもせずに事をやってのける。意志力の強い人は、適度の力を効率よく使う代わりに、大きな力を込めすぎるきらいがある。
もっぱら意志力に頼ると、緊張する能力ばかりを高める結果になり、エネルギーを適当に配分して方向付ければはるかに少ないエネルギーで実現できる行動に、とてつもない力を込めるのが習慣になってしまう。
この二つのやり方は、どちらもたいてい目的を達成できるけれども、後の方法は、重大な傷害の原因になることがある。動きに転化されない力は、簡単に消滅しないばかりか、分散して努力を生み出すのに使用した体の各所に傷害を引き起こす。動きに転化されないエネルギーは、体の機構の中で熱に変わり、その機構が 再び効果的に活動するためには、修理を要するような変化を生み出す。どんなことでもうまくやれた場合には、難しくは見えない。難しく見える動きは、正しく 行われていないからだと言ってもさしつかえないだろう。
S:若いときは、ダンベルやバーベルなどで鍛え、逆三角形のすごい筋肉質の体を 作ったが、その割に技の効果が少なく、「これではいけない」と考え方を変え、鍛錬の仕方も、ありとあらゆる方法を研究し、ついに独自の方法を、次々に開発していったのである。そして何十年と今でも休みなく鍛錬を続けているのである。
F:不必要な努力は体を短縮させる
ほとんどあらゆる場合に、筋肉に残る余分の緊張は、背骨を短縮させる原因となる。動作につきまとう不必要な努力は、体を縮小させることになりやすい。ある程度の困難 が予想されるような動作に取りかかる際には常に、その困難に対する防衛手段として体が縮こまる。まさに体のこの硬化反応こそ、不必要な努力が生ずる原因で あり、体を動作のために正しく組織するのを妨げるものである。能力の限界を拡げるためには、執拗な努力を重ねたり、体をかばおうとしたりすべきではなく。 探求と理解の力によらなくてはならない。
F:選択することがないと緊張は習慣に変わる
どのような行動であっても、不必要な努力を注いでいる限り、人は身を守ることを忘れ、快くも楽しくもなく、気の進まない大きな困難に立ち向かわなくてはならない。努力することが必要か否かを選択する力がないと、行動が習慣に変わってしまい、ついには、自分の慣れ親しんだ行動がたとえ理性や必然性に背くものだとしても、それだけが自然なものに思 えるようになってしまう。
習慣は一つの行動に固執しやすいものであり、したがって一般にきわめて貴重なものでもある。しかしながら、我々は習慣に溺れすぎるきらいがあり、そのため自己批判の声はおさえられ、識別能力は弱められてしまい、我々は次第に考えずに動く機械と化してしまうのである。
S:稽古は繰り返すことによって正しい事を習慣づけ、体にしみこませようというわけだから、倒すことばかりに夢中になっていると、力む習慣や悪い癖が体にしみ込んでしまう。だから今できるできないに余りとらわれずに、正しくやっていくようにしなければいけないのだ。どこをどうもたれてもどう攻撃されても対応して自由にスッと動ける体を作ってしまわなければいけない。
S:ふつうみんな、形を教わればできると思うんだね、何か極意があって、それを教われば出きると思っているが、鍛錬なしでは絶対に出来ない。
F:動きを理解するには緊張せずに感じ取らねばならない
学ぶには、時間、注意力、識別力が必要である。識別するには、感じ取らねばならない。要するに、学ぶためには、感覚の力を研ぎ澄まさなくてはならないのだ。ただ力だけに頼ってほとんどのことを行おうとするならば、求めているのとは全く正反対のことを実現する破目になるだろう。
行動を学ぶときには、自分の内部に生じていることに対して、自由自在に注意を向けられなくてはならない。なぜなら、そのような状態でこそ、我々の精神は明晰なもの となり、生き生きとしてコントロールしやすいものとなるのだ。そこにはもはや、力みからくる緊張というものがない。ところが、最大限の緊張という状態で学習が行われる場合、能力はすでにその限界まで使われているので、まだ不充分だと思っても、もはや行動を速めたり、強めたり、改善したりする余地はない。そうなると、息は詰まってしまい、あるのはただ過剰な努力だけ、観察する力は皆無に近くなり、改善の期待は一切なくなってしまう。
S:いくら道場に沢山来たって、出来ない事をただ繰り返していて旨くなる筈がないでしょう、家へ帰って反省しなければならない。なぜ出来ないのか、それができるようにするにはどうしたらいいか、次にはどうやってみようかという反省が絶対必要だ、反省しないでただ稽古に来ても何にもならない。
S:人のまねをすることが大事だ。教えるというのはまねさせる事だ。自分で発見しようと思ってもなかなか大変だから、まずまねをする事からはじまる。人のをみて良い所はどんどんとっていかなければならない。
F:識別力をみがくこと
細かい力の変化をつかむためには、力そのものがまず小さくなくてはならない。動きのコントロールを改善して、より繊細なものにすることは、感受性を強め、差異を感じ取る能力を高めることによってしか実現できない。
S:私のやり方は合気で浮かせて、必ず倒れる角度へ軽く押すからスパーンと倒れてしまうのだ。力でやっているようではだめなのだ。正しい角度でも力でやれば相手は頑張る事が出来るのだ。私は全く力を入れずにやるから相手は頑張り所がないのだ。力で倒してもそれで良い事にはならない。
S:本当の合気はゆっくり静かに倒すのだ。だからそのまま極めてしまう事もできる。バンと派手にやるのは人にみせる時なのだ。
S:合気は相手の力を吸い取ってしまう研究だから年をとっても可能なのだ。合気は技術であり、そこに何があるのかという立場で研究を続けて、初めて、少しずつその理が分かってくるものであって、合気は気の流れなどと言った考えからは、いくら何をやっても出てこない。
S:合気はある程度の段階に達しないと、本当のすばらしさが分からない。下の段階では、同じようにひねり倒されていると思うだろう。自分がある程度出来るようになってきて、少しずつ分かってくるものだ。合気は難しい。
S:心と体が一致するのが大事だ。
F:習慣の力
姿勢や動きの間違った習慣は、たとえはっきり気づいていても、改めるのは極めて難しい。欠陥そのものと、行動するときのそれの現れ方の両方を改めなくては ならないからである。根気よく何度も繰り返し、認識を充分に深めないことには、習慣を捨て去り、自分で理解したとおりに動けるようになることはできない。
いつも腹部と骨盤を前へ突き出しすぎていて、その結果、頭が後ろへ傾いている人は、背骨のそりがきつくなりすぎているので、良い姿勢をしているとはいえない。そこで頭を前に起こし、骨盤を後ろへ引くとすると、今度は頭を前へ傾けすぎ、骨盤を後ろへ引きすぎているような感じをもつだろう。その結果、すぐさま いつもの姿勢に舞い戻ってしまうことになるだろう。
だから、感覚だけに頼って習慣を変えることは不可能である。意識的な内的努力を重ね、調整された姿勢が不自然な感じでなくなり、それが新しい習慣になるようにしなければならない。習慣を変えるのは、思ったよりも遙かに難しく、その努力 を試みた人ならば、だれでも身に覚えがあるはずだ。
S:本来うまくいかなかったときにいろいろ考え工夫するというのが、一般的に上達する仕方でしょう。それをやらなければ、いくらやったってダメだ。私だって、もし武田先生に教わったことだけをやってきたら、全然大したことないでしょう。 そのあと、いろいろ工夫研究して、発展に発展を重ねてここまで来たのだ。
S:人間はつくづく一生修行だと思う。この年(九十歳)に なっても、合気で「ああ、こういうことか」とふっと気づくことがある。そして、どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろうと思う。だから合気にし ても、私の気づいていないことはいくらでもある。やはり、人間だから不完全だし、むしろ分からないことの方が合気に限っても多いのだろう。とても完全なんていうことは有り得ないのだ。人間である以上、いくらやったって知らないことが必ずあるのだから、何とかしてそれを見つけていかなければならないでしょ う。これでよいと思ったらその人はそこで止まってしまう。
#楽隠居です
私がいろいろな事に気づかせていただいた2冊の本を、勝手に対談風にまとめてみました。それぞれの関係者の方には、ご容赦願いたいと思います。このブログ内検索で「フェルデンクライス」を探していただくと、私の基本的な考え方のすべてをご理解いただけるかもしれません。続きは上のページにあります。(このページ最下部に「前のページ」があれば、それをクリックして下さい。「次のページ」は、頭蓋仙骨療法です。)
F:能力と意思力
効果的に体を働かすすべを心得ている人は、大した準備も大騒ぎもせずに事をやってのける。意志力の強い人は、適度の力を効率よく使う代わりに、大きな力を込めすぎるきらいがある。
もっぱら意志力に頼ると、緊張する能力ばかりを高める結果になり、エネルギーを適当に配分して方向付ければはるかに少ないエネルギーで実現できる行動に、とてつもない力を込めるのが習慣になってしまう。
この二つのやり方は、どちらもたいてい目的を達成できるけれども、後の方法は、重大な傷害の原因になることがある。動きに転化されない力は、簡単に消滅しないばかりか、分散して努力を生み出すのに使用した体の各所に傷害を引き起こす。動きに転化されないエネルギーは、体の機構の中で熱に変わり、その機構が 再び効果的に活動するためには、修理を要するような変化を生み出す。どんなことでもうまくやれた場合には、難しくは見えない。難しく見える動きは、正しく 行われていないからだと言ってもさしつかえないだろう。
S:若いときは、ダンベルやバーベルなどで鍛え、逆三角形のすごい筋肉質の体を 作ったが、その割に技の効果が少なく、「これではいけない」と考え方を変え、鍛錬の仕方も、ありとあらゆる方法を研究し、ついに独自の方法を、次々に開発していったのである。そして何十年と今でも休みなく鍛錬を続けているのである。
F:不必要な努力は体を短縮させる
ほとんどあらゆる場合に、筋肉に残る余分の緊張は、背骨を短縮させる原因となる。動作につきまとう不必要な努力は、体を縮小させることになりやすい。ある程度の困難 が予想されるような動作に取りかかる際には常に、その困難に対する防衛手段として体が縮こまる。まさに体のこの硬化反応こそ、不必要な努力が生ずる原因で あり、体を動作のために正しく組織するのを妨げるものである。能力の限界を拡げるためには、執拗な努力を重ねたり、体をかばおうとしたりすべきではなく。 探求と理解の力によらなくてはならない。
F:選択することがないと緊張は習慣に変わる
どのような行動であっても、不必要な努力を注いでいる限り、人は身を守ることを忘れ、快くも楽しくもなく、気の進まない大きな困難に立ち向かわなくてはならない。努力することが必要か否かを選択する力がないと、行動が習慣に変わってしまい、ついには、自分の慣れ親しんだ行動がたとえ理性や必然性に背くものだとしても、それだけが自然なものに思 えるようになってしまう。
習慣は一つの行動に固執しやすいものであり、したがって一般にきわめて貴重なものでもある。しかしながら、我々は習慣に溺れすぎるきらいがあり、そのため自己批判の声はおさえられ、識別能力は弱められてしまい、我々は次第に考えずに動く機械と化してしまうのである。
S:稽古は繰り返すことによって正しい事を習慣づけ、体にしみこませようというわけだから、倒すことばかりに夢中になっていると、力む習慣や悪い癖が体にしみ込んでしまう。だから今できるできないに余りとらわれずに、正しくやっていくようにしなければいけないのだ。どこをどうもたれてもどう攻撃されても対応して自由にスッと動ける体を作ってしまわなければいけない。
S:ふつうみんな、形を教わればできると思うんだね、何か極意があって、それを教われば出きると思っているが、鍛錬なしでは絶対に出来ない。
F:動きを理解するには緊張せずに感じ取らねばならない
学ぶには、時間、注意力、識別力が必要である。識別するには、感じ取らねばならない。要するに、学ぶためには、感覚の力を研ぎ澄まさなくてはならないのだ。ただ力だけに頼ってほとんどのことを行おうとするならば、求めているのとは全く正反対のことを実現する破目になるだろう。
行動を学ぶときには、自分の内部に生じていることに対して、自由自在に注意を向けられなくてはならない。なぜなら、そのような状態でこそ、我々の精神は明晰なもの となり、生き生きとしてコントロールしやすいものとなるのだ。そこにはもはや、力みからくる緊張というものがない。ところが、最大限の緊張という状態で学習が行われる場合、能力はすでにその限界まで使われているので、まだ不充分だと思っても、もはや行動を速めたり、強めたり、改善したりする余地はない。そうなると、息は詰まってしまい、あるのはただ過剰な努力だけ、観察する力は皆無に近くなり、改善の期待は一切なくなってしまう。
S:いくら道場に沢山来たって、出来ない事をただ繰り返していて旨くなる筈がないでしょう、家へ帰って反省しなければならない。なぜ出来ないのか、それができるようにするにはどうしたらいいか、次にはどうやってみようかという反省が絶対必要だ、反省しないでただ稽古に来ても何にもならない。
S:人のまねをすることが大事だ。教えるというのはまねさせる事だ。自分で発見しようと思ってもなかなか大変だから、まずまねをする事からはじまる。人のをみて良い所はどんどんとっていかなければならない。
F:識別力をみがくこと
細かい力の変化をつかむためには、力そのものがまず小さくなくてはならない。動きのコントロールを改善して、より繊細なものにすることは、感受性を強め、差異を感じ取る能力を高めることによってしか実現できない。
S:私のやり方は合気で浮かせて、必ず倒れる角度へ軽く押すからスパーンと倒れてしまうのだ。力でやっているようではだめなのだ。正しい角度でも力でやれば相手は頑張る事が出来るのだ。私は全く力を入れずにやるから相手は頑張り所がないのだ。力で倒してもそれで良い事にはならない。
S:本当の合気はゆっくり静かに倒すのだ。だからそのまま極めてしまう事もできる。バンと派手にやるのは人にみせる時なのだ。
S:合気は相手の力を吸い取ってしまう研究だから年をとっても可能なのだ。合気は技術であり、そこに何があるのかという立場で研究を続けて、初めて、少しずつその理が分かってくるものであって、合気は気の流れなどと言った考えからは、いくら何をやっても出てこない。
S:合気はある程度の段階に達しないと、本当のすばらしさが分からない。下の段階では、同じようにひねり倒されていると思うだろう。自分がある程度出来るようになってきて、少しずつ分かってくるものだ。合気は難しい。
S:心と体が一致するのが大事だ。
F:習慣の力
姿勢や動きの間違った習慣は、たとえはっきり気づいていても、改めるのは極めて難しい。欠陥そのものと、行動するときのそれの現れ方の両方を改めなくては ならないからである。根気よく何度も繰り返し、認識を充分に深めないことには、習慣を捨て去り、自分で理解したとおりに動けるようになることはできない。
いつも腹部と骨盤を前へ突き出しすぎていて、その結果、頭が後ろへ傾いている人は、背骨のそりがきつくなりすぎているので、良い姿勢をしているとはいえない。そこで頭を前に起こし、骨盤を後ろへ引くとすると、今度は頭を前へ傾けすぎ、骨盤を後ろへ引きすぎているような感じをもつだろう。その結果、すぐさま いつもの姿勢に舞い戻ってしまうことになるだろう。
だから、感覚だけに頼って習慣を変えることは不可能である。意識的な内的努力を重ね、調整された姿勢が不自然な感じでなくなり、それが新しい習慣になるようにしなければならない。習慣を変えるのは、思ったよりも遙かに難しく、その努力 を試みた人ならば、だれでも身に覚えがあるはずだ。
S:本来うまくいかなかったときにいろいろ考え工夫するというのが、一般的に上達する仕方でしょう。それをやらなければ、いくらやったってダメだ。私だって、もし武田先生に教わったことだけをやってきたら、全然大したことないでしょう。 そのあと、いろいろ工夫研究して、発展に発展を重ねてここまで来たのだ。
S:人間はつくづく一生修行だと思う。この年(九十歳)に なっても、合気で「ああ、こういうことか」とふっと気づくことがある。そして、どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろうと思う。だから合気にし ても、私の気づいていないことはいくらでもある。やはり、人間だから不完全だし、むしろ分からないことの方が合気に限っても多いのだろう。とても完全なんていうことは有り得ないのだ。人間である以上、いくらやったって知らないことが必ずあるのだから、何とかしてそれを見つけていかなければならないでしょ う。これでよいと思ったらその人はそこで止まってしまう。
#楽隠居です
私がいろいろな事に気づかせていただいた2冊の本を、勝手に対談風にまとめてみました。それぞれの関係者の方には、ご容赦願いたいと思います。このブログ内検索で「フェルデンクライス」を探していただくと、私の基本的な考え方のすべてをご理解いただけるかもしれません。続きは上のページにあります。(このページ最下部に「前のページ」があれば、それをクリックして下さい。「次のページ」は、頭蓋仙骨療法です。)
by centeringkokyu
| 2006-07-22 00:00
| フェルデンクライス関連