2006年 07月 13日
小笠原流 |
「小笠原流」小笠原清信著 昭和42年8月10日発行 から抜粋してご紹介します。配布資料014もご一読ください。
礼法ということは、あたりまえのことがあたりまえにできること、それがいわば極意である。今日、「小笠原流」ということばは不当に誤解され、封建時代の遺物といった眼でみられがちである。しかしこれは、すべて小笠原流を知らない人の誤解である。したがって難しい教えは何もない。それなのに成人にたいして作法を教えなければならないということは問題である。行動(言語動作)の教育は幼少の時に体得されることこそ大切なことで、その後は知的教養にともない応用されていくものである。
世間にエチケット集が多く出版されているが、色々な問題を含んでいる。ことに、何故こうするのか、何故そうしなければならないか、の裏付けの理論の解明が不備である。小笠原家に伝承される事々は、この裏付けの理論が中心となっている。読者は真の小笠原流礼法がいかに形式主義を排し、理論に裏付けされ、無用の動きをいましめるかを知り、長年つちかってきた日本人の動作の美を、再発見するであろう。(第30世宗家自身が、小笠原流弓馬礼法が成立してきた歴史とエピソードを語り、さらに今日まで一子相伝されてきた小笠原礼法の基本「立つ・座る・歩く・ものを持つ・回転する・おじぎする」について説明する。)
「体用論」
この書も小笠原貞宗・常興両名により編述されたものである。その序文に「是書、本体之源探知するものとし師弟伝授の心法」としている。しかし、反面「その深理は言語文字の問にあらず。その味きわまりなし。しかれば初学之士、あるいはとるあらば遠く行い高く望むの一助とすべし」と注している。前にも記した行動の教養の基本はどこにあるかの根源を解いたものと解釈される。「内に感ずるは体と云い、外に応ずるを用と云う。論は邪正を論ずる儀。己を省みて放心を求め、虚実を弁知するの兼意」兼意とはその時に望まずしてかねがね意に工夫することと注記している。
物を視るにも、聴くにも、言うにも、手足を使うにも、身の起居振舞しっかり自分の心に銘じて行動することが実体であり生気の体である(正気体)。心に覚えず、軽率に視たり聴いたり手足を使うことが虚体となり、これを死気の体(死気体)という。したがって、虚実は心にはっきり銘じて行なうか、あるいは軽々と心を離れて行うかによって定まる。したがって、どんな稽古をしても思い入れうすく虚体であれば、いくら稽古を積んでも無益であり、常に気をしずめて実体であることが大切である。そしてこの体は心を主体とし、四肢は胴体を主体とする。
「五体其の本をただせば末自ら直しの意味」
意味とはこの教えを意に味わい喰い知るべきことで、それがいたった場は無味なるものであると注記している。さて体の中心は腰である。「腰は本也中也。腰よりして胴、胴よりして肩、肩よりして頭、肩につきたる肘、肘につきたる手、又腰よりして股、股につきたるすね、すねにつきたる足と、此の一身の内、本末をわきまえ、其の本から直す心得有るべし。自ら末の筋骨規(ろく)になるものなり」
たしかに腰とか腹とか、臍そとかいうが、現在あまりに形式的であり、また観念的、あるいは自己の狭い体験にたよりすぎての言葉が多い。「腰は中也本也不動の地なり」と注記しているが、昔の生活と違って現在の我々の生活は日常生活で腰を鍛える機会が少なくなっている。椅子の生活であり、車の生活である。したがって、現在ではこの腰の本当の在り方から研究し、示さなければならない。
私どもに稽古に来る方、その中でもスポーツで鍛えた人に腰がきまっていない人が多い。昔は骨の少ないところを鍛えることが日常生活における稽古だと示してきた。首、そして腰骨と胸骨の間の二カ所がもっとも大切である。
首を胴体の上にゆったりすえ、襟のすかないように、あごのすかないように、耳が肩に垂れるようにおく。全身の中でもっとも重量の重い頭部を正しく胴体にすえることが姿勢を正しくする基になる。
つぎに先ほどの腰部である。背面で尾底骨より前部でみぞおちのあたりを結ぶ箇所で欠点を示す人が多く見られる。この首と腰との二カ所の欠点が目を引くのである。姿勢が悪い時、多くの場合気が散る。ヴァイオリニスト・ピアニスト・碁・将棋など真剣の場合、姿勢を正しくして行っている。「腰陶(す)わらざれば放心する也」とある。
また、「中身規矩方円之意味」
起居進退どんな場合でも中の身にそむかないようにしろと注記している。「遠中近間積之事」間ということは大切なことである。人間社会生活すべて間が正しく行われておれば、これほど平和なことはない。 作法は社会の潤滑油というが、作法は社会の間であるともいえよう。言葉にも動作にも間がある。しかしこの間ということは広狭長短すべて、その態は同じことである。お互いを考えての一体感こそ正しい間であろう。小笠原流は、座り方がこんなに変わってしまいました。 何故なんでしょうかねぇ〜? ひょっとすると『あたりまえ』があたりまえでは無くなったのかも・・・ 伝統的なことも、風俗と習慣の変化には抗えないのでしょうねぇ〜
参照1:流儀の本質が~ 変質するぅ~・・・?
礼法ということは、あたりまえのことがあたりまえにできること、それがいわば極意である。今日、「小笠原流」ということばは不当に誤解され、封建時代の遺物といった眼でみられがちである。しかしこれは、すべて小笠原流を知らない人の誤解である。したがって難しい教えは何もない。それなのに成人にたいして作法を教えなければならないということは問題である。行動(言語動作)の教育は幼少の時に体得されることこそ大切なことで、その後は知的教養にともない応用されていくものである。
世間にエチケット集が多く出版されているが、色々な問題を含んでいる。ことに、何故こうするのか、何故そうしなければならないか、の裏付けの理論の解明が不備である。小笠原家に伝承される事々は、この裏付けの理論が中心となっている。読者は真の小笠原流礼法がいかに形式主義を排し、理論に裏付けされ、無用の動きをいましめるかを知り、長年つちかってきた日本人の動作の美を、再発見するであろう。(第30世宗家自身が、小笠原流弓馬礼法が成立してきた歴史とエピソードを語り、さらに今日まで一子相伝されてきた小笠原礼法の基本「立つ・座る・歩く・ものを持つ・回転する・おじぎする」について説明する。)
「体用論」
この書も小笠原貞宗・常興両名により編述されたものである。その序文に「是書、本体之源探知するものとし師弟伝授の心法」としている。しかし、反面「その深理は言語文字の問にあらず。その味きわまりなし。しかれば初学之士、あるいはとるあらば遠く行い高く望むの一助とすべし」と注している。前にも記した行動の教養の基本はどこにあるかの根源を解いたものと解釈される。「内に感ずるは体と云い、外に応ずるを用と云う。論は邪正を論ずる儀。己を省みて放心を求め、虚実を弁知するの兼意」兼意とはその時に望まずしてかねがね意に工夫することと注記している。
物を視るにも、聴くにも、言うにも、手足を使うにも、身の起居振舞しっかり自分の心に銘じて行動することが実体であり生気の体である(正気体)。心に覚えず、軽率に視たり聴いたり手足を使うことが虚体となり、これを死気の体(死気体)という。したがって、虚実は心にはっきり銘じて行なうか、あるいは軽々と心を離れて行うかによって定まる。したがって、どんな稽古をしても思い入れうすく虚体であれば、いくら稽古を積んでも無益であり、常に気をしずめて実体であることが大切である。そしてこの体は心を主体とし、四肢は胴体を主体とする。
「五体其の本をただせば末自ら直しの意味」
意味とはこの教えを意に味わい喰い知るべきことで、それがいたった場は無味なるものであると注記している。さて体の中心は腰である。「腰は本也中也。腰よりして胴、胴よりして肩、肩よりして頭、肩につきたる肘、肘につきたる手、又腰よりして股、股につきたるすね、すねにつきたる足と、此の一身の内、本末をわきまえ、其の本から直す心得有るべし。自ら末の筋骨規(ろく)になるものなり」
たしかに腰とか腹とか、臍そとかいうが、現在あまりに形式的であり、また観念的、あるいは自己の狭い体験にたよりすぎての言葉が多い。「腰は中也本也不動の地なり」と注記しているが、昔の生活と違って現在の我々の生活は日常生活で腰を鍛える機会が少なくなっている。椅子の生活であり、車の生活である。したがって、現在ではこの腰の本当の在り方から研究し、示さなければならない。
私どもに稽古に来る方、その中でもスポーツで鍛えた人に腰がきまっていない人が多い。昔は骨の少ないところを鍛えることが日常生活における稽古だと示してきた。首、そして腰骨と胸骨の間の二カ所がもっとも大切である。
首を胴体の上にゆったりすえ、襟のすかないように、あごのすかないように、耳が肩に垂れるようにおく。全身の中でもっとも重量の重い頭部を正しく胴体にすえることが姿勢を正しくする基になる。
つぎに先ほどの腰部である。背面で尾底骨より前部でみぞおちのあたりを結ぶ箇所で欠点を示す人が多く見られる。この首と腰との二カ所の欠点が目を引くのである。姿勢が悪い時、多くの場合気が散る。ヴァイオリニスト・ピアニスト・碁・将棋など真剣の場合、姿勢を正しくして行っている。「腰陶(す)わらざれば放心する也」とある。
また、「中身規矩方円之意味」
起居進退どんな場合でも中の身にそむかないようにしろと注記している。「遠中近間積之事」間ということは大切なことである。人間社会生活すべて間が正しく行われておれば、これほど平和なことはない。 作法は社会の潤滑油というが、作法は社会の間であるともいえよう。言葉にも動作にも間がある。しかしこの間ということは広狭長短すべて、その態は同じことである。お互いを考えての一体感こそ正しい間であろう。
参照2:骨盤の締まり具合と頭の据え方
by centeringkokyu
| 2006-07-13 00:00
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