2006年 06月 23日
一歩々々 |
出口日出麿著「生きがいの探求」から抜粋してご紹介します。
気を凝らし、気を錬る稽古を充分せねばならぬ。
外見上、ちょっとしたことにも、これに魂の籠めようひとつで、ひじょうな重大な意義を含めることができる。
心がけひとつで、甲の一時間が乙の十年にもあたり、外見上、同一のことでも甲には一の価値となり、乙には百の価値となっているのである。
一足飛びの向上は望むべきでない。
まず人間は、現界における基礎的我たる肉体が健康でなくてはならぬ。つぎに、理性的、道徳的でなくてはならぬ。この階段をもう一歩のぼったとき、はじめて人間理知を超越して霊性的となり得る。最初から霊性的となろうと望んでもダメ、順序を追うてこの段階に達しなくてはならなぬ。
何ごとでも急激に改めてしまおうとしてはいけない。徐々に、つぎつぎに直してゆくようにせねばならぬ。でないと、ちょうど嬰児に無理に大人のまねを強いるのと同じ結果になってしまう。
一歩々々、理想へと近づいてゆくように、その都度に省み悟って、少しずつでよいから、以前よりは、よりよくなってゆくというふうにあるのがいちばんよろしい。
最初は、何かを手本としてその真似をし、こんどは、それから抜け出して、独特の創造をするようにせねばならぬ。最初からむずかしいことを独りでやろうとしたところで、とうていできることではない。といって、いつまでも真似ばかりしていてはいけない。
経るべき階段は経ねばならぬ。これを、人間理知から無理をして一足飛びにゆこうとあせってはならぬ。。しかし、それに要する時間は、本人の発奮精進しだいで、ひじょうに早くにでも、またひじょうに遅くにでもなる。
たえず、自己を凝視するくせをつけねばならぬ。そして、ものの真性を見出すのは、他のものと比較した結果である。
自己を知ろうとするならば、また他人をよく知らねばならぬ。
他をみるは自己であり、自己をみるは他である。
よく自己の短所をかえりみて、これを直すようにしじゅう気をつけることがもっとも肝要である。
自分が変わらなくては他人は変わらぬ、周囲も変わらぬ。何度生まれ変わっても同じ運命をたどることになる。
自分の周囲におし迫ってくる事象というものは、大局からみればことごとく自分の魂相応のものである。
そして、世間的外的の幸、不幸は、かならずしも真の幸、不幸ではない。
境遇を楽しみながら突破せよ。 (以下省略)
#楽隠居です
同書には「ベストをつくす」という題で、以下のようにも書かれています。
何ごとをするにも、師匠や書物をのみ頼りにしてはならぬ。自分以外のものは、すべて参考だという考えでこれに対さねばならぬ。
みずから興味をもち、自分で工夫したことでなくては、けっして真の自分のものにはならぬ。日常些末なことに対しても、この考えをはなれてはならぬ。
生きていることのおもしろさは、自分が絶えず何かを発明、発見、創造するうれしさである。それは、境遇のいかんによるものではない。 (引用終わり)
健康法をよく取り上げるテレビ番組でも、気をつけてよくみていると、以前に放送された番組中に言っていたことと矛盾することがあります。どれが正しいのですか?と質問されても困ってしまいます。テレビ番組では、常に目新しい話題を取り上げなければなりませんし、対象年齢や性別、どのような検査をしてその結果をみせるかという手法が問題になってきます。ビジュアル化や数値化をする必要があるのです。こんな気がするということでは、非科学的なのでしょうし、番組が成立しないのだと思います。
同じ体操をしても、その目的や厳密さが違っていると、同じような結果がでるはずがありません。身体や感覚が変われば、やり方も結果も微妙に変わってくると思います。正しいか間違っているかにこだわらず、いろいろな方法を気軽に試してみながら、その途中経過を楽しんで頂きたいと思います。
気を凝らし、気を錬る稽古を充分せねばならぬ。
外見上、ちょっとしたことにも、これに魂の籠めようひとつで、ひじょうな重大な意義を含めることができる。
心がけひとつで、甲の一時間が乙の十年にもあたり、外見上、同一のことでも甲には一の価値となり、乙には百の価値となっているのである。
一足飛びの向上は望むべきでない。
まず人間は、現界における基礎的我たる肉体が健康でなくてはならぬ。つぎに、理性的、道徳的でなくてはならぬ。この階段をもう一歩のぼったとき、はじめて人間理知を超越して霊性的となり得る。最初から霊性的となろうと望んでもダメ、順序を追うてこの段階に達しなくてはならなぬ。
何ごとでも急激に改めてしまおうとしてはいけない。徐々に、つぎつぎに直してゆくようにせねばならぬ。でないと、ちょうど嬰児に無理に大人のまねを強いるのと同じ結果になってしまう。
一歩々々、理想へと近づいてゆくように、その都度に省み悟って、少しずつでよいから、以前よりは、よりよくなってゆくというふうにあるのがいちばんよろしい。
最初は、何かを手本としてその真似をし、こんどは、それから抜け出して、独特の創造をするようにせねばならぬ。最初からむずかしいことを独りでやろうとしたところで、とうていできることではない。といって、いつまでも真似ばかりしていてはいけない。
経るべき階段は経ねばならぬ。これを、人間理知から無理をして一足飛びにゆこうとあせってはならぬ。。しかし、それに要する時間は、本人の発奮精進しだいで、ひじょうに早くにでも、またひじょうに遅くにでもなる。
たえず、自己を凝視するくせをつけねばならぬ。そして、ものの真性を見出すのは、他のものと比較した結果である。
自己を知ろうとするならば、また他人をよく知らねばならぬ。
他をみるは自己であり、自己をみるは他である。
よく自己の短所をかえりみて、これを直すようにしじゅう気をつけることがもっとも肝要である。
自分が変わらなくては他人は変わらぬ、周囲も変わらぬ。何度生まれ変わっても同じ運命をたどることになる。
自分の周囲におし迫ってくる事象というものは、大局からみればことごとく自分の魂相応のものである。
そして、世間的外的の幸、不幸は、かならずしも真の幸、不幸ではない。
境遇を楽しみながら突破せよ。 (以下省略)
#楽隠居です
同書には「ベストをつくす」という題で、以下のようにも書かれています。
何ごとをするにも、師匠や書物をのみ頼りにしてはならぬ。自分以外のものは、すべて参考だという考えでこれに対さねばならぬ。
みずから興味をもち、自分で工夫したことでなくては、けっして真の自分のものにはならぬ。日常些末なことに対しても、この考えをはなれてはならぬ。
生きていることのおもしろさは、自分が絶えず何かを発明、発見、創造するうれしさである。それは、境遇のいかんによるものではない。 (引用終わり)
健康法をよく取り上げるテレビ番組でも、気をつけてよくみていると、以前に放送された番組中に言っていたことと矛盾することがあります。どれが正しいのですか?と質問されても困ってしまいます。テレビ番組では、常に目新しい話題を取り上げなければなりませんし、対象年齢や性別、どのような検査をしてその結果をみせるかという手法が問題になってきます。ビジュアル化や数値化をする必要があるのです。こんな気がするということでは、非科学的なのでしょうし、番組が成立しないのだと思います。
同じ体操をしても、その目的や厳密さが違っていると、同じような結果がでるはずがありません。身体や感覚が変われば、やり方も結果も微妙に変わってくると思います。正しいか間違っているかにこだわらず、いろいろな方法を気軽に試してみながら、その途中経過を楽しんで頂きたいと思います。
by centeringkokyu
| 2006-06-23 00:01
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