2006年 05月 24日
ネコのひとりあそび 06/05/22 |
M岡さんからの投稿をご紹介します。
先日、K野さんから「パントマイムと意拳で原稿を書いてみては」と言う提案を頂きました。
私としては、既に、「ルコック師や甲野氏、カンジヤマ・マイムさんの原稿で十分では?」と言う気持ちであったのですが、自分の今までの歩みを再確認する意味で筆を取りました。
詳しく書くと意味不明で果てしないお話になりますので、簡潔に要点だけ述べさせて頂きます。
「物真似」と「マイム」
先ず、「物真似」と「マイム」の違いについてお話したいと思います。この2つの芸能は、非常によく似ている分野の様に思われるのですが、その前提や基礎が全く違うものでそこを取っ掛かりとしてお話を進めさせて頂きます。
「物真似」は、「イメージ」や「象徴」を前面に用い、極論、その表現内容は「本物」である必要はありません。「真似る」対象となる人や物事から「象徴的な物事」をピックアップ、「誇張」し、「らしい世界」を作り出す「バーチャル(仮想)」です。
そう言うと「マイムだってバーチャルでは?」との反論を頂きます。その問いに対し、私は、「現実」が下地になっているか否か?が大きな違いです」とお答えしています(ちなみに、物真似は時間軸に広がりが無くて、「過去」と「現在」はありますが「未来」がありません)。
イリュージョン
とは言うものの多分、未だ皆さんにはしっくり来られていないと思いますので、ここで、私なりに概念化して捉えている「イリュージョン」についてお話致します。
例えば、パントマイムと深い関わりのある「クラウン」や「スタンダップコメディ」等、身体を使う喜劇では大きく3つの原則があるのですが、これらの概念を一括りにすると、「現実のバランスを変換する」と言う所にミソがあります。
具体的には、着ている服が異様に大きかったり小さかったり、本来、とても重いものが軽かったり、空に海の生き物が居たり、コミュニケーションや感情のやりとりがちぐはぐだったり、時間やタイミングをズラしたり・・・目の前で展開される現実と実際のバランスがとても妙な部分に面白味や驚きがある訳で、これを私は「バーチャル(仮想)」に対して「イリュージョン(幻覚)」と名付け、ダンスや色々な表現だけでなく、武道でも学び、多用して来ました。
そして、この「イリュージョン」の成立要件は、「現実」がより正確に表現されている事が大前提で、そのバランスと意識を思い切り変換したり、落差を付け、空間に再生、配置し直す所にあり、決して、「バーチャル(仮想)」や「フェイク(偽物)」ではあり得ないのです。
例えば、「プロファイルウォーク」(その場歩き)ですが、「歩く」と言う「重心移動」を正確に表現出来た上で、その運動の起点と終点を同じ場所で循環・バランスさせる事で、「歩く」と「止まる」と言う相対性がバランスして表現される訳です。
更に、この起点に対しての終点が本来の位置と反対方向に変換される事で運動の方向と目に見える方向が正反対に見える「プレッシャーウォーク(ムーンウォーク」になります。
リアリティー・・・自分を取り巻く世界を再形成する
故に、表現者は、表現したいものを「今ここにある自分」を通し、「自分を取り巻く世界を再形成する」所を基本に、そこから全てを始めます。
ここで、クロード・キプニス師の言葉を引用致します。
どのようにマイムが世界を再形成して見せるのか考えてみましょう。昨日、私はリンゴを1つ食べ、今日もまた1つ食べました。明日もまた1つ食べるでしょう。私がその行為を繰り返しても、それは、私がその事を再形成した事にはなりません。しかし、もし、私がこれらリンゴを食べる瞬間瞬間を同じ瞬間として捉えて、それらのリンゴを同一の物と見たならば、リンゴを食べるという行為の再形成に近づく事になります。マイムの世界とは様々な行為が再形成され得る世界ですからその世界の中ではマイムは一般的行為を繰り返し、果てしなく、しかも反復なしで演じるのです。
そう言った意味で、そのリンゴはいつも初めて食べられている物であり、また一番最後に食べられたものでもあるのです。
「センタリング呼吸法」や何処かで聞いた様な言葉に繋がりませんか?
日常にある「リアリティー」と「イリュージョン」
この「リアリティー」と「イリュージョン」の関係を健康や武道他に置き換えると意外にしっくり来ると思うのは私だけでしょうか?
太極拳が呼吸に合わせてゆっくり練る様に動き、意拳が重力と兼ね合い静かにバランスし、センタリング呼吸法が1つ1つの動きの中で自分の現状認識し・・・まあ、風水でも治療でも何でも・・・「自分と自分を取り巻く世界を再形成」する所から、それら世界との「バランス」と言うお話に尽きますよね。
一度、皆さんも太気拳の島田道男先生曰く、「押せない木を押し、引けない木を引き、抜けない木を抜き、沈められない木を沈め、裂けない木を裂き、合わせられない木を合わせる」と言う要訣にチャレンジしてみて下さい。
ちなみに、「リアリティー(等身大)」と「イリュージョン(倍率)」はある意味、1つの延長線上のもので、その「バランスの振れ」の大きさや度合いの違いに過ぎないと言えます(健康体も病気の身体も1つの状況下のバランスですね)。
また、「イリュージョン」を上手く用いる事で、「固定概念」や「習慣」等に縛られ気味な現実においての時間や空間軸、ものの見方の概念が広がる様にも思います。
例えば、物理的に言うと「立体視」や「速聴」なんてその最たるものではないでしょうか?
「現実」を捉える事に変わり有りませんが、「現実を捉えるチャンネル数が広がっている」きがします。
加えて、自分の表現が周囲に与える影響ですが「バーチャル(仮想)」や「フェイク(偽物)」があくまで「想像」の範囲を出ない事に対し、「リアリティー」と「イリュージョン」は相手の中の「現実」に働き掛け「共感・追体験」をもたらします。
と言うのも、「お互いの居る世界」の再構築とバランス問題ですからね。
追伸
スタンダップコメディーについては「Mr ビーン」のローアン・アトキンソンがその歴史から分類、実在した人物(ロイド、キートン、チャップリン、モンティーパイソン他)までを楽しく紹介・分析したビデオがあります(ははは、これでまた変なキーワードでのリンクが増えます)。
先日、K野さんから「パントマイムと意拳で原稿を書いてみては」と言う提案を頂きました。
私としては、既に、「ルコック師や甲野氏、カンジヤマ・マイムさんの原稿で十分では?」と言う気持ちであったのですが、自分の今までの歩みを再確認する意味で筆を取りました。
詳しく書くと意味不明で果てしないお話になりますので、簡潔に要点だけ述べさせて頂きます。
「物真似」と「マイム」
先ず、「物真似」と「マイム」の違いについてお話したいと思います。この2つの芸能は、非常によく似ている分野の様に思われるのですが、その前提や基礎が全く違うものでそこを取っ掛かりとしてお話を進めさせて頂きます。
「物真似」は、「イメージ」や「象徴」を前面に用い、極論、その表現内容は「本物」である必要はありません。「真似る」対象となる人や物事から「象徴的な物事」をピックアップ、「誇張」し、「らしい世界」を作り出す「バーチャル(仮想)」です。
そう言うと「マイムだってバーチャルでは?」との反論を頂きます。その問いに対し、私は、「現実」が下地になっているか否か?が大きな違いです」とお答えしています(ちなみに、物真似は時間軸に広がりが無くて、「過去」と「現在」はありますが「未来」がありません)。
イリュージョン
とは言うものの多分、未だ皆さんにはしっくり来られていないと思いますので、ここで、私なりに概念化して捉えている「イリュージョン」についてお話致します。
例えば、パントマイムと深い関わりのある「クラウン」や「スタンダップコメディ」等、身体を使う喜劇では大きく3つの原則があるのですが、これらの概念を一括りにすると、「現実のバランスを変換する」と言う所にミソがあります。
具体的には、着ている服が異様に大きかったり小さかったり、本来、とても重いものが軽かったり、空に海の生き物が居たり、コミュニケーションや感情のやりとりがちぐはぐだったり、時間やタイミングをズラしたり・・・目の前で展開される現実と実際のバランスがとても妙な部分に面白味や驚きがある訳で、これを私は「バーチャル(仮想)」に対して「イリュージョン(幻覚)」と名付け、ダンスや色々な表現だけでなく、武道でも学び、多用して来ました。
そして、この「イリュージョン」の成立要件は、「現実」がより正確に表現されている事が大前提で、そのバランスと意識を思い切り変換したり、落差を付け、空間に再生、配置し直す所にあり、決して、「バーチャル(仮想)」や「フェイク(偽物)」ではあり得ないのです。
例えば、「プロファイルウォーク」(その場歩き)ですが、「歩く」と言う「重心移動」を正確に表現出来た上で、その運動の起点と終点を同じ場所で循環・バランスさせる事で、「歩く」と「止まる」と言う相対性がバランスして表現される訳です。
更に、この起点に対しての終点が本来の位置と反対方向に変換される事で運動の方向と目に見える方向が正反対に見える「プレッシャーウォーク(ムーンウォーク」になります。
リアリティー・・・自分を取り巻く世界を再形成する
故に、表現者は、表現したいものを「今ここにある自分」を通し、「自分を取り巻く世界を再形成する」所を基本に、そこから全てを始めます。
ここで、クロード・キプニス師の言葉を引用致します。
どのようにマイムが世界を再形成して見せるのか考えてみましょう。昨日、私はリンゴを1つ食べ、今日もまた1つ食べました。明日もまた1つ食べるでしょう。私がその行為を繰り返しても、それは、私がその事を再形成した事にはなりません。しかし、もし、私がこれらリンゴを食べる瞬間瞬間を同じ瞬間として捉えて、それらのリンゴを同一の物と見たならば、リンゴを食べるという行為の再形成に近づく事になります。マイムの世界とは様々な行為が再形成され得る世界ですからその世界の中ではマイムは一般的行為を繰り返し、果てしなく、しかも反復なしで演じるのです。
そう言った意味で、そのリンゴはいつも初めて食べられている物であり、また一番最後に食べられたものでもあるのです。
「センタリング呼吸法」や何処かで聞いた様な言葉に繋がりませんか?
日常にある「リアリティー」と「イリュージョン」
この「リアリティー」と「イリュージョン」の関係を健康や武道他に置き換えると意外にしっくり来ると思うのは私だけでしょうか?
太極拳が呼吸に合わせてゆっくり練る様に動き、意拳が重力と兼ね合い静かにバランスし、センタリング呼吸法が1つ1つの動きの中で自分の現状認識し・・・まあ、風水でも治療でも何でも・・・「自分と自分を取り巻く世界を再形成」する所から、それら世界との「バランス」と言うお話に尽きますよね。
一度、皆さんも太気拳の島田道男先生曰く、「押せない木を押し、引けない木を引き、抜けない木を抜き、沈められない木を沈め、裂けない木を裂き、合わせられない木を合わせる」と言う要訣にチャレンジしてみて下さい。
ちなみに、「リアリティー(等身大)」と「イリュージョン(倍率)」はある意味、1つの延長線上のもので、その「バランスの振れ」の大きさや度合いの違いに過ぎないと言えます(健康体も病気の身体も1つの状況下のバランスですね)。
また、「イリュージョン」を上手く用いる事で、「固定概念」や「習慣」等に縛られ気味な現実においての時間や空間軸、ものの見方の概念が広がる様にも思います。
例えば、物理的に言うと「立体視」や「速聴」なんてその最たるものではないでしょうか?
「現実」を捉える事に変わり有りませんが、「現実を捉えるチャンネル数が広がっている」きがします。
加えて、自分の表現が周囲に与える影響ですが「バーチャル(仮想)」や「フェイク(偽物)」があくまで「想像」の範囲を出ない事に対し、「リアリティー」と「イリュージョン」は相手の中の「現実」に働き掛け「共感・追体験」をもたらします。
と言うのも、「お互いの居る世界」の再構築とバランス問題ですからね。
追伸
スタンダップコメディーについては「Mr ビーン」のローアン・アトキンソンがその歴史から分類、実在した人物(ロイド、キートン、チャップリン、モンティーパイソン他)までを楽しく紹介・分析したビデオがあります(ははは、これでまた変なキーワードでのリンクが増えます)。
by centeringkokyu
| 2006-05-24 00:06
| ネコ殿