2006年 05月 21日
ネコのひとり遊び 06/05/20 |
こうなったらもう一押しマイムで行きます。カンジヤマ・マイム著「おしゃべりなパントマイム」から抜粋・掲載致します。
ゼロのポジション
ゼロとはどういうことでしょう。
何もしない状態のこと?いいえ、あなたがもし女性ならば、お化粧をする前のことを考えてみてください。さて、どうしますか。まずは、汗ばんでよごれた顔を水で洗うことからはじめるでしょう。もし、そのままメークしたらどうなるでしょう。お化粧のノリもよくないし、第一お肌によろしくないですね。そうです、全ては汚れ、かたよりのない白紙の状態ではじめねばなりませんね、かたよりのないニュートラル(中立、白紙)の状態。それがゼロのポジションです。人
間は年月の流れのなかで、それぞれの生き方、経験、環境などによって、その人の顔や身体が何もしないうちに既に何かを表現してしまっていんです。かんたんにいえばクセが身についているのです。ただ歩くだけでも、無意識のうちにあるみたいに左右に揺れながら歩く人、うつむいてもうしわけなさそうに歩く人もいます。またある人は、とくにクラシックバレエ経験者は、足先が外へ向いています。
これはおとなだけにかぎりません。子どもでも、もうすでにこういうクセが身についている場合があります。電車のなかや街角であらためて、立ったり歩いている人々をよく見て下さい。ただし、あまりジロジロ見ちゃいけませんよ。無表情、無表現であるはず(と本人が思っていても)顔や身体はいかに多くのことを物語って、主張していることか。平常でもそんな状態ですから、緊張が高まるととうぜん、その人のクセは総出演しはじめます。うそだと思うなら結婚式のスピーチや、慣れないカラオケを歌っている人などをビデオに撮り、早送りで再生してみれば、その人のクセのしぐさが何度もくり返して行われていることが分かりますよ。
では、どのようにしたらゼロの状態に近づけるのか。
まずは、鏡の前に立ってみて下さい。さあ、あなたは今何かを表現していませんか?つまらなそうな顔をしていませんか。にやけていませんか。旨をはりすぎていませんか。おしりがつきでてはいませんか。なにも表現していない白紙、中立の状態になれますか。
これが、ゼロのポジションです。
身体の中心を知ろう
まずは自分の身体の中心をととのえることから始まります。
これはたやすいことではありません。でも不可能でもありません。大切なことは、自分を絶えずチェックする習慣をつけることです。
街を歩いているとき店のウィンドウに映った自分の姿をチェックするのもよいし、ビデオの中の自分を見てみるのもいいでしょう。
そのほか日常生活のなかでできることは、いつもの生活の中で行っている行為や動作を、かならず身体の反対の部分でもやってみるという習慣をつけることです、右利き、左利きというように、利き腕、利き足がある以上、気付かないうちに身体のどちらかばかり使って生活しているものなのです。たとえば電車に乗ってつり革につかまったとき、どちらかの足に体重がかかる人、いすに座ったとき、どちらかの足をうえに組む人、正座をくずしたとき、右か左に決まって身体をずらす人、などなどです。これらを日常のなかで認識し、意識的に反対側の部分を使ってやってください。
さらに、右利きの人は左手ではしが使えるようにし、歯も左手でみがけるようにしてみましょう。ただし、なれないうちは歯ぐきを傷つけない程度にしてくださいね。ただ、姿勢自体(たとえば脊柱など)にかなりのゆがみがある場合には是非「ハタ・ヨーガ」のポーズを習うことをお勧めします。実際、私達が主催しているマイムの講習会ではかなりの時間をヨーガを利用して身体のクセを除いています。
心の中心を知ろう
なにかを表現するのが「身体」であれば、その表現を創りだすのが「こころ」です、人は何かを表現するまえに、「こころ」でものごとを観察し、なにかを感じます。
この「こころ」とは不思議で、しかもやっかいないものです。なぜならば、「こころ」がいったん、これはこうだと思いこんでしまうと、そうではないものまでそう見えてしまうからです。たとえば、ただの縄ですら、ヘビだと思いこめばそう見えてしまうことがあります。みなさんも経験があるでしょう。この「こころ」しだいで人間は悪魔にも天使にもなります。
ですから「こころ」もまずはゼロ(白紙)の状態にできるようにしなければなりません。ゼロと言っても「何も考えるな」ということではありません(もっとも、なにも考えないでいるというのは至難のわざですが)。さきほどの身体の場合と同様に、私たちのこころも毎日の生活のなかで相当にクセがついてしまっているのです。そのクセを別の言葉でいうと、「先入観」とか「固定概念」あるいは「損得勘定」とかいうもので知らぬまにものごとを見ているということです。これがあると、パントマイムでもっとも重要な、「ものごとのエッセンス、本質をとらえること」ができなくなります。
ところで、インド人のヒンズー教徒の額(眉間)には「ティッカー」と呼ばれるほくろのようなものがついています。みなさんも写真などで見たことがあるでしょう。これは第三の目を象徴していて、仏教の開祖のお釈迦様の額についているものと同じです。この第三の目とは、ものごとを奥深く見通す、自分の内側に向けられた「こころの目」で、すべての人々が持っているといわれています。つまり先入観や固定概念にとらわれずに、あるがままにものを見られる力のことです。
さあ、みなさんもこの第三の目を見開いてものごとの神髄を見すえてください。今までの日常生活のなかで、あたりまえと思いこんでみすごしてしまっていることをもう一度よーく見つめなおして確かめてください。かならずや、みなさんの世界がまたひとつ広がって、深まっていくことと信じています。
インドの話題がでたついでにもうひとつお話します。さきほどの「身体の中心」の項で私たちはみなさんにヨーガをおすすめしました。このヨーガもパントマイムと無縁のものではないのです。 ヨーガという名前はもともとサンスクリット語で「YUJI」(結びつける)という意味からきています。つまり、ヨーガの目的とは、たんに身体の健康増進だけでなく、「こころをしっかり自分につなぎとめておく」ことなのです。ですから、ヨーガもこころの中心を知るためにはとてもよい訓練となると思います
ゼロのポジション
ゼロとはどういうことでしょう。
何もしない状態のこと?いいえ、あなたがもし女性ならば、お化粧をする前のことを考えてみてください。さて、どうしますか。まずは、汗ばんでよごれた顔を水で洗うことからはじめるでしょう。もし、そのままメークしたらどうなるでしょう。お化粧のノリもよくないし、第一お肌によろしくないですね。そうです、全ては汚れ、かたよりのない白紙の状態ではじめねばなりませんね、かたよりのないニュートラル(中立、白紙)の状態。それがゼロのポジションです。人
間は年月の流れのなかで、それぞれの生き方、経験、環境などによって、その人の顔や身体が何もしないうちに既に何かを表現してしまっていんです。かんたんにいえばクセが身についているのです。ただ歩くだけでも、無意識のうちにあるみたいに左右に揺れながら歩く人、うつむいてもうしわけなさそうに歩く人もいます。またある人は、とくにクラシックバレエ経験者は、足先が外へ向いています。
これはおとなだけにかぎりません。子どもでも、もうすでにこういうクセが身についている場合があります。電車のなかや街角であらためて、立ったり歩いている人々をよく見て下さい。ただし、あまりジロジロ見ちゃいけませんよ。無表情、無表現であるはず(と本人が思っていても)顔や身体はいかに多くのことを物語って、主張していることか。平常でもそんな状態ですから、緊張が高まるととうぜん、その人のクセは総出演しはじめます。うそだと思うなら結婚式のスピーチや、慣れないカラオケを歌っている人などをビデオに撮り、早送りで再生してみれば、その人のクセのしぐさが何度もくり返して行われていることが分かりますよ。
では、どのようにしたらゼロの状態に近づけるのか。
まずは、鏡の前に立ってみて下さい。さあ、あなたは今何かを表現していませんか?つまらなそうな顔をしていませんか。にやけていませんか。旨をはりすぎていませんか。おしりがつきでてはいませんか。なにも表現していない白紙、中立の状態になれますか。
これが、ゼロのポジションです。
身体の中心を知ろう
まずは自分の身体の中心をととのえることから始まります。
これはたやすいことではありません。でも不可能でもありません。大切なことは、自分を絶えずチェックする習慣をつけることです。
街を歩いているとき店のウィンドウに映った自分の姿をチェックするのもよいし、ビデオの中の自分を見てみるのもいいでしょう。
そのほか日常生活のなかでできることは、いつもの生活の中で行っている行為や動作を、かならず身体の反対の部分でもやってみるという習慣をつけることです、右利き、左利きというように、利き腕、利き足がある以上、気付かないうちに身体のどちらかばかり使って生活しているものなのです。たとえば電車に乗ってつり革につかまったとき、どちらかの足に体重がかかる人、いすに座ったとき、どちらかの足をうえに組む人、正座をくずしたとき、右か左に決まって身体をずらす人、などなどです。これらを日常のなかで認識し、意識的に反対側の部分を使ってやってください。
さらに、右利きの人は左手ではしが使えるようにし、歯も左手でみがけるようにしてみましょう。ただし、なれないうちは歯ぐきを傷つけない程度にしてくださいね。ただ、姿勢自体(たとえば脊柱など)にかなりのゆがみがある場合には是非「ハタ・ヨーガ」のポーズを習うことをお勧めします。実際、私達が主催しているマイムの講習会ではかなりの時間をヨーガを利用して身体のクセを除いています。
心の中心を知ろう
なにかを表現するのが「身体」であれば、その表現を創りだすのが「こころ」です、人は何かを表現するまえに、「こころ」でものごとを観察し、なにかを感じます。
この「こころ」とは不思議で、しかもやっかいないものです。なぜならば、「こころ」がいったん、これはこうだと思いこんでしまうと、そうではないものまでそう見えてしまうからです。たとえば、ただの縄ですら、ヘビだと思いこめばそう見えてしまうことがあります。みなさんも経験があるでしょう。この「こころ」しだいで人間は悪魔にも天使にもなります。
ですから「こころ」もまずはゼロ(白紙)の状態にできるようにしなければなりません。ゼロと言っても「何も考えるな」ということではありません(もっとも、なにも考えないでいるというのは至難のわざですが)。さきほどの身体の場合と同様に、私たちのこころも毎日の生活のなかで相当にクセがついてしまっているのです。そのクセを別の言葉でいうと、「先入観」とか「固定概念」あるいは「損得勘定」とかいうもので知らぬまにものごとを見ているということです。これがあると、パントマイムでもっとも重要な、「ものごとのエッセンス、本質をとらえること」ができなくなります。
ところで、インド人のヒンズー教徒の額(眉間)には「ティッカー」と呼ばれるほくろのようなものがついています。みなさんも写真などで見たことがあるでしょう。これは第三の目を象徴していて、仏教の開祖のお釈迦様の額についているものと同じです。この第三の目とは、ものごとを奥深く見通す、自分の内側に向けられた「こころの目」で、すべての人々が持っているといわれています。つまり先入観や固定概念にとらわれずに、あるがままにものを見られる力のことです。
さあ、みなさんもこの第三の目を見開いてものごとの神髄を見すえてください。今までの日常生活のなかで、あたりまえと思いこんでみすごしてしまっていることをもう一度よーく見つめなおして確かめてください。かならずや、みなさんの世界がまたひとつ広がって、深まっていくことと信じています。
インドの話題がでたついでにもうひとつお話します。さきほどの「身体の中心」の項で私たちはみなさんにヨーガをおすすめしました。このヨーガもパントマイムと無縁のものではないのです。 ヨーガという名前はもともとサンスクリット語で「YUJI」(結びつける)という意味からきています。つまり、ヨーガの目的とは、たんに身体の健康増進だけでなく、「こころをしっかり自分につなぎとめておく」ことなのです。ですから、ヨーガもこころの中心を知るためにはとてもよい訓練となると思います
by centeringkokyu
| 2006-05-21 00:06
| ネコ殿