2006年 05月 20日
甲野理論のパントマイム的解釈 |
パントマイムの話が出たついでに、古い資料(006)ですが、合気ニュースNO.102に掲載された文章から、抜粋してご紹介します。
パントマイムは全般的に胸を使います。特に素人にもよくわかる技術に「波」を体で表現するものがあります。
学生時代、同級生に頼まれて、「波」を教えようとしたとき、いくら教えても肩から胸に波を通す動きができませんでした。
私は「体力を使うわけでもない、こんな簡単な動きがなぜできないのか?」と不思議に思っていました。やはり昔の武術の達人も自分の技術に対して同じことを考えていたのでしょうか?
「体を割って別々に使う」という技術については、パントマイムでは「体の分解」というよく似た理論からなる技術を基本として教えています。これは体をいくつにも区分けしてひとつひとつを独立して動かしていく技術です。これもやはり「見て解るのに、実際に動こうとするとできない」技術です。一般に生活する動きとは質の違うものであると言うことができます。
パントマイムの波の技術について、面白い話があります。昔、中国武術をやっていた知り合いに波の動きを見せて、やらせてみると、彼は一回でできてしまったのです。「波の技術」が何か武術の動きと関係があると思い、聞いてみると「勁を通す動きに似ている」と言われました。その後、合気と発勁が似ていることなどから、合気関係のビデオを購入して調べてみると、六方会の岡本師範や、堀川幸道師範の動きがパントマイムの波の動きに非常に似ていることに気がつきました。小さく動かれると解りませんが、岡本師範は「教えようとして動いて」大きな動きで行なっていたので確認できた技がありました。それがきっかけになり、かなりの技がパントマイムの動きに通じていることが解りました。
また、甲野先生や黒田先生が説明している武術としての円は、身体の外に中心点をおいて、身体をその円の外周にそって動かすというロータリーエンジンのような動きということですが、パントマイムの波の技術も同じものだと言えます。私は波を教えようとしてバレーボールを用いていました。体外に中心を取り、球体の外周にそって身体を動かし、しかも中心が常に動いている…甲野先生の言うような「中心を消す」ことになるのではないかと思います。また、太極拳などの中国武術においても、手の角度・出し方など波の動きに非常によく似た特徴を見い出すことができます。合気や発勁について書かれた文章を読むと、私が「パントマイムの波」の技術に対して持っている理解や感覚的実感にとてもよく一致します。例えば、波を足から発生させて指先まで通すと合気上げそっくりの形になります。塩田剛三先生は技を掛ける時の膝と腰の関係、重要さを説いています。「波」では膝を使って波を発生させて、腰を使って波を上体に通していくのですが、それが私の感覚と似ていると思います。
私はパントマイムの波の技術で、波をどうやって発生させ、どう変化していくかという理解を元に、合気道や大東流の技法を見て、よく言われる「合気の気の流れを制する技とは?」「どこが剣の動きなのか?」「合気は神代の時代からあったか?」「大東流の各派で伝承された技法内容がそれぞれ違っているのはなぜ?」などの疑問に対しいくつかの意見を出すことができます。例えば合気道で伝えている技法、大東流の各派で伝えられる技法、柔術と合気の術、当て身、投げ技などすべての合気に関係した技は、剣を振るという動きのみから発生、発展していったようにみえます。パントマイム的な目で見ると、技法の歴史的な変化に、一定の法則があるように思います。法則に則った展開をした技法なら、技法自体オリジナルでも大東流と認められるのではないでしょうか。中国武術の逸話にこのような話があります。八卦拳と呼ばれる拳法の門弟の行う技が一人一人まったく違うので、不審に思った者がその指導者に尋ねると「全員同じことをやっている。見て解らないのか?」と言ったそうです。いま、武田惣角翁に尋ねたなら、同じ答えが返ってくるのではないでしょうか?
話は前後しますが、気功法で気の球を手でころがすイメージを作ったり、発勁の使い方で両手で気の球を持ち相手に叩き付けるというのは、中国武術でも武術としての円に気付いていたのではないでしょうか。特に、後者の発勁の使い方は、最近よく漫画等で「気のエネルギーをためて云々…」という感じで出ていますが、私は岡本先生の「手のひらの間に、ボールを転がすように技をかけることが合気の原理となる」と言う理論によく似ていると思います。
私はパントマイムを練習して、身体の使い方を体得するには、いくつかの段階とパターンがあると思っています。
1)なんとなく解ってしまい、なおかつ一回目で使えてしまう場合。
2)解っていても身体がその通りに動いてくれず、何段階かの順を追って可能になるもの。
3)まったく解らず不思議に見える。身体では理解できず試行錯誤をくりかえすもの。
特に昔の達人等は、1)にあるような体得のしかたが多かったのではないでしょうか。この場合、私の体験から言って、説明に非常に苦労するものです。他の人に「不思議だ、どうやってやるのか?」と聞かれても私自身「いや、見たままに動いただけですが…」と答えざるをえなかった技術がいくつかありました。2)や3)のパターンで習得したものであれば、相手が理解できるか否かは別として、説明ができるのですが…。特に、甲野先生がきちんとした術理で井桁崩しを説明できたのは、やはり長期間の試行錯誤があった故であり、もしなんとなく出来たとしたら、この術理は世に理解しようとする動きすら出ず、甲野先生一人のものになってしまったかも知れないと思います。
パントマイムは全般的に胸を使います。特に素人にもよくわかる技術に「波」を体で表現するものがあります。
学生時代、同級生に頼まれて、「波」を教えようとしたとき、いくら教えても肩から胸に波を通す動きができませんでした。
私は「体力を使うわけでもない、こんな簡単な動きがなぜできないのか?」と不思議に思っていました。やはり昔の武術の達人も自分の技術に対して同じことを考えていたのでしょうか?
「体を割って別々に使う」という技術については、パントマイムでは「体の分解」というよく似た理論からなる技術を基本として教えています。これは体をいくつにも区分けしてひとつひとつを独立して動かしていく技術です。これもやはり「見て解るのに、実際に動こうとするとできない」技術です。一般に生活する動きとは質の違うものであると言うことができます。
パントマイムの波の技術について、面白い話があります。昔、中国武術をやっていた知り合いに波の動きを見せて、やらせてみると、彼は一回でできてしまったのです。「波の技術」が何か武術の動きと関係があると思い、聞いてみると「勁を通す動きに似ている」と言われました。その後、合気と発勁が似ていることなどから、合気関係のビデオを購入して調べてみると、六方会の岡本師範や、堀川幸道師範の動きがパントマイムの波の動きに非常に似ていることに気がつきました。小さく動かれると解りませんが、岡本師範は「教えようとして動いて」大きな動きで行なっていたので確認できた技がありました。それがきっかけになり、かなりの技がパントマイムの動きに通じていることが解りました。
また、甲野先生や黒田先生が説明している武術としての円は、身体の外に中心点をおいて、身体をその円の外周にそって動かすというロータリーエンジンのような動きということですが、パントマイムの波の技術も同じものだと言えます。私は波を教えようとしてバレーボールを用いていました。体外に中心を取り、球体の外周にそって身体を動かし、しかも中心が常に動いている…甲野先生の言うような「中心を消す」ことになるのではないかと思います。また、太極拳などの中国武術においても、手の角度・出し方など波の動きに非常によく似た特徴を見い出すことができます。合気や発勁について書かれた文章を読むと、私が「パントマイムの波」の技術に対して持っている理解や感覚的実感にとてもよく一致します。例えば、波を足から発生させて指先まで通すと合気上げそっくりの形になります。塩田剛三先生は技を掛ける時の膝と腰の関係、重要さを説いています。「波」では膝を使って波を発生させて、腰を使って波を上体に通していくのですが、それが私の感覚と似ていると思います。
私はパントマイムの波の技術で、波をどうやって発生させ、どう変化していくかという理解を元に、合気道や大東流の技法を見て、よく言われる「合気の気の流れを制する技とは?」「どこが剣の動きなのか?」「合気は神代の時代からあったか?」「大東流の各派で伝承された技法内容がそれぞれ違っているのはなぜ?」などの疑問に対しいくつかの意見を出すことができます。例えば合気道で伝えている技法、大東流の各派で伝えられる技法、柔術と合気の術、当て身、投げ技などすべての合気に関係した技は、剣を振るという動きのみから発生、発展していったようにみえます。パントマイム的な目で見ると、技法の歴史的な変化に、一定の法則があるように思います。法則に則った展開をした技法なら、技法自体オリジナルでも大東流と認められるのではないでしょうか。中国武術の逸話にこのような話があります。八卦拳と呼ばれる拳法の門弟の行う技が一人一人まったく違うので、不審に思った者がその指導者に尋ねると「全員同じことをやっている。見て解らないのか?」と言ったそうです。いま、武田惣角翁に尋ねたなら、同じ答えが返ってくるのではないでしょうか?
話は前後しますが、気功法で気の球を手でころがすイメージを作ったり、発勁の使い方で両手で気の球を持ち相手に叩き付けるというのは、中国武術でも武術としての円に気付いていたのではないでしょうか。特に、後者の発勁の使い方は、最近よく漫画等で「気のエネルギーをためて云々…」という感じで出ていますが、私は岡本先生の「手のひらの間に、ボールを転がすように技をかけることが合気の原理となる」と言う理論によく似ていると思います。
私はパントマイムを練習して、身体の使い方を体得するには、いくつかの段階とパターンがあると思っています。
1)なんとなく解ってしまい、なおかつ一回目で使えてしまう場合。
2)解っていても身体がその通りに動いてくれず、何段階かの順を追って可能になるもの。
3)まったく解らず不思議に見える。身体では理解できず試行錯誤をくりかえすもの。
特に昔の達人等は、1)にあるような体得のしかたが多かったのではないでしょうか。この場合、私の体験から言って、説明に非常に苦労するものです。他の人に「不思議だ、どうやってやるのか?」と聞かれても私自身「いや、見たままに動いただけですが…」と答えざるをえなかった技術がいくつかありました。2)や3)のパターンで習得したものであれば、相手が理解できるか否かは別として、説明ができるのですが…。特に、甲野先生がきちんとした術理で井桁崩しを説明できたのは、やはり長期間の試行錯誤があった故であり、もしなんとなく出来たとしたら、この術理は世に理解しようとする動きすら出ず、甲野先生一人のものになってしまったかも知れないと思います。
by centeringkokyu
| 2006-05-20 09:01
| 合気観照塾