2006年 03月 15日
私の履歴書 Vol.1 |
大阪支部15周年記念誌(2002年発行)に掲載された私の文章を転載します。
1987年4月に、OS先生の第一回目の講習会が催され、以後、奈良での講習会も含めますと、この15年間で、約90回OS先生にお越し頂いたことになります。
3年目に、O嶋さんが独立したことにより、何故か私が連絡係をさせられることになり、とりあえず、会費が集まった範囲内で、OS先生にお越し願うということで、講習会が再開されたのです。
私としては、会が軌道に乗り、どなたかが中心になってくだされば退会させて頂くつもりでした。まさか、15年も続くとは考えもしませんでした。再開当時、私はやっと初段を頂いたところで、誰も先輩はいませんし、何がなんだかわからない状態でしたから、出来る限り定期的に稽古をして会費を集め、先生にお越し頂くようにして、採算割れになった時点で解散しようと決めていました。
このような状態ですから、大阪支部では、誰も指導できるはずはありませんので、合同自主稽古で、お互いに意見を出し合って、OS先生の技を研究しましょうということになっています。そこで、出来ない技を研究する方法として、技が掛かるようになるための必要条件を、出来るだけ探し出してみることにしました。その過程で、必要条件を満たす為には、自分の身体の使い方を変えていく以外にないと気付いたのです。無意識に今までと同じ身体の使い方をしていても、とりあえず考えついた必要条件を、満たすことが出来なかったからです。
私はもともと一人遊びを楽しむタイプですので、人にものを教えようとは考えていませんし、教えるほどの実力もありません。ただ、私が何かを参考にして思いついた一人遊びの方法を、他の人に「こんなん出ましたけど?」と披露してみたくなるだけなのです。その一人遊びの方法を、他の人がどう捉えるかは、当然、私の問題ではないのです。何故自分がそのような考え方になってしまったのか、私にも分かりません。でもこの機会に、久しぶりに自分の過去を振り返って、見つめ直してみたいと思います。これもある意味では、私の一人遊びなのでしょうね。
私は生まれつき虚弱体質で、母親に聞いたところによりますと、この子は小児喘息もあるし、育たないだろうとお医者さんに宣告されていたようです。今でも扁桃腺肥大ですし、胃腸も丈夫ではありません。小学生の頃は、すぐに風邪をひき、風邪をひくと扁桃腺炎と中耳炎を併発していました。中学時代は、プール前の検診で引っかかり、今でも水泳はできません。野球をすれば、打てば三振、守ればエラーと、遊びの仲間にも入れてもらいにくい状況でした。ですから、どうしても一人遊びが多く、暇な時には、一人で自転車に乗って近所をうろついているだけでした。
思春期になっても、恋は片思いに限ると信じていましたし、当然、自己主張は苦手でした。ただ、偏食で卵と海苔しか食べられませんでしたので、食べたくないものは、はっきり主張していたのかもしれません。これはただの我が儘だということなのでしょう。
高校時代は、帰宅部でした。終業のベルがなると、一目散に帰宅し、テレビを見るのが日課でした。クラブにも入ろうとは思ったのですが、好みのクラブがなかったのと、そもそも学校そのものが嫌いだったのです。もっとも行きたくなかった高校でした。やっぱり、自己主張できないと、中途半端になり、何事もうまくいかないものですね。さらに、大学入試の時、東大安田講堂の事件があり、その年の東大入試はありませんでした。浪人は最高に多く、勉強もしていませんでしたし、成績の優秀な生徒が希望校を少しずつ下げてきましたので、私の入れそうな大学が無くなってきたのです。でも、自分がもし浪人したとしても、まじめに勉強するタイプではないことは、十分に認識していましたので、どこでもいいから潜り込もうと決めました。
何とか潜り込んだ大学が、坊ちゃん大学といわれていましたので、軽い気持ちで少林寺拳法部に入りました。その頃、主役が少林寺拳法の使い手というテレビドラマが、放映されていたからです。
一回生の夏合宿の時には、10日間で7キロ痩せ、早く倒れたら楽なのにと思いながらも、結局は倒れませんでした。でも、そのころに付いたあだ名が「チョンボのK野」ですから、倒れるはずがなかったのかもしれません。どうも手抜きの癖が付いてしまったようです。今でも「しんどい事」は嫌いです。克己・忍耐・努力・辛抱と言う言葉は、私の辞書からは削除されているようなのです。
二回生の時、同期生と乱取りをしていて、無意識に出したパンチが友人の顔面にヒットし、思わず「ゴメン!」と言ってしまいました。その時、自分が格闘技には向いていないと気付きました。もともと競争は苦手なのですから当たり前のことですね。
三回生の夏合宿8日目、同期生の友人が、夕食直前に突然倒れて死にました。警察が来て、そのころ問題になっていたリンチ殺人ではないかと、素っ裸にして検死しました。乱取りした時に打撲していた箇所が、方々紫色に変色していました。死因は脳内出血でした。徹夜で事情聴取が行われ、検死が済んだ後、ドライアイスで囲まれていた遺体を、同期生のみんなで納棺しました。その時の冷たく堅い、彼の身体の感触は今も忘れられません。遺体が死後硬直を起こしていたのと、彼は身長が187センチもありましたので、既製品のお棺にうまく収まらなかったので、係の人が遺体の足をドンドン叩いて押し込みました。お呼びして、急遽駆けつけて来られていた彼のお母さんが、その時「やめて!」と叫ばれました。彼のお父さんも、脳内出血で早くに亡くなられ、お祖母さんとお母さんで育て、後少しで楽になると思われていた矢先だったのです。
ほんの数時間前まで、一緒に稽古していた友人が、あまりにもあっけなく他界してしまったこの出来事は、その後の私の考え方に、大きな影響を与えた事は間違いありません。
四回生になる頃からは、急に運動を止めると身体に悪いと聞いていましたので、徐々にクラブに顔を出す回数を減らし、6月には北海道を三週間かけて一人旅しました。自分の好きな時に、好きな場所へ行きたかったので、誰かを誘おうとは思いませんでした。また、4回生の時には、「武道館ひびき」の隣にある、豊島体育館の柿落としで、3人掛けの演武をして、記念にメダルを頂きました。今から考えれば不思議なご縁です。まさか毎週前を通ることになるとは‥‥。
#管理人です
下の写真は、35年前の私の姿です。こんなに真面目にやっているのは、きっと珍しかったので、先輩が写してくださったのだと思います。その頃「遅れず・休まず・全部せず」というのが、私の体力温存の秘訣でした。そして、「不得手な事は目立たぬよう、得意な事はちょっとアピール」ということもやっていましたねぇ〜
1987年4月に、OS先生の第一回目の講習会が催され、以後、奈良での講習会も含めますと、この15年間で、約90回OS先生にお越し頂いたことになります。
3年目に、O嶋さんが独立したことにより、何故か私が連絡係をさせられることになり、とりあえず、会費が集まった範囲内で、OS先生にお越し願うということで、講習会が再開されたのです。
私としては、会が軌道に乗り、どなたかが中心になってくだされば退会させて頂くつもりでした。まさか、15年も続くとは考えもしませんでした。再開当時、私はやっと初段を頂いたところで、誰も先輩はいませんし、何がなんだかわからない状態でしたから、出来る限り定期的に稽古をして会費を集め、先生にお越し頂くようにして、採算割れになった時点で解散しようと決めていました。
このような状態ですから、大阪支部では、誰も指導できるはずはありませんので、合同自主稽古で、お互いに意見を出し合って、OS先生の技を研究しましょうということになっています。そこで、出来ない技を研究する方法として、技が掛かるようになるための必要条件を、出来るだけ探し出してみることにしました。その過程で、必要条件を満たす為には、自分の身体の使い方を変えていく以外にないと気付いたのです。無意識に今までと同じ身体の使い方をしていても、とりあえず考えついた必要条件を、満たすことが出来なかったからです。
私はもともと一人遊びを楽しむタイプですので、人にものを教えようとは考えていませんし、教えるほどの実力もありません。ただ、私が何かを参考にして思いついた一人遊びの方法を、他の人に「こんなん出ましたけど?」と披露してみたくなるだけなのです。その一人遊びの方法を、他の人がどう捉えるかは、当然、私の問題ではないのです。何故自分がそのような考え方になってしまったのか、私にも分かりません。でもこの機会に、久しぶりに自分の過去を振り返って、見つめ直してみたいと思います。これもある意味では、私の一人遊びなのでしょうね。
私は生まれつき虚弱体質で、母親に聞いたところによりますと、この子は小児喘息もあるし、育たないだろうとお医者さんに宣告されていたようです。今でも扁桃腺肥大ですし、胃腸も丈夫ではありません。小学生の頃は、すぐに風邪をひき、風邪をひくと扁桃腺炎と中耳炎を併発していました。中学時代は、プール前の検診で引っかかり、今でも水泳はできません。野球をすれば、打てば三振、守ればエラーと、遊びの仲間にも入れてもらいにくい状況でした。ですから、どうしても一人遊びが多く、暇な時には、一人で自転車に乗って近所をうろついているだけでした。
思春期になっても、恋は片思いに限ると信じていましたし、当然、自己主張は苦手でした。ただ、偏食で卵と海苔しか食べられませんでしたので、食べたくないものは、はっきり主張していたのかもしれません。これはただの我が儘だということなのでしょう。
高校時代は、帰宅部でした。終業のベルがなると、一目散に帰宅し、テレビを見るのが日課でした。クラブにも入ろうとは思ったのですが、好みのクラブがなかったのと、そもそも学校そのものが嫌いだったのです。もっとも行きたくなかった高校でした。やっぱり、自己主張できないと、中途半端になり、何事もうまくいかないものですね。さらに、大学入試の時、東大安田講堂の事件があり、その年の東大入試はありませんでした。浪人は最高に多く、勉強もしていませんでしたし、成績の優秀な生徒が希望校を少しずつ下げてきましたので、私の入れそうな大学が無くなってきたのです。でも、自分がもし浪人したとしても、まじめに勉強するタイプではないことは、十分に認識していましたので、どこでもいいから潜り込もうと決めました。
何とか潜り込んだ大学が、坊ちゃん大学といわれていましたので、軽い気持ちで少林寺拳法部に入りました。その頃、主役が少林寺拳法の使い手というテレビドラマが、放映されていたからです。
一回生の夏合宿の時には、10日間で7キロ痩せ、早く倒れたら楽なのにと思いながらも、結局は倒れませんでした。でも、そのころに付いたあだ名が「チョンボのK野」ですから、倒れるはずがなかったのかもしれません。どうも手抜きの癖が付いてしまったようです。今でも「しんどい事」は嫌いです。克己・忍耐・努力・辛抱と言う言葉は、私の辞書からは削除されているようなのです。
二回生の時、同期生と乱取りをしていて、無意識に出したパンチが友人の顔面にヒットし、思わず「ゴメン!」と言ってしまいました。その時、自分が格闘技には向いていないと気付きました。もともと競争は苦手なのですから当たり前のことですね。
三回生の夏合宿8日目、同期生の友人が、夕食直前に突然倒れて死にました。警察が来て、そのころ問題になっていたリンチ殺人ではないかと、素っ裸にして検死しました。乱取りした時に打撲していた箇所が、方々紫色に変色していました。死因は脳内出血でした。徹夜で事情聴取が行われ、検死が済んだ後、ドライアイスで囲まれていた遺体を、同期生のみんなで納棺しました。その時の冷たく堅い、彼の身体の感触は今も忘れられません。遺体が死後硬直を起こしていたのと、彼は身長が187センチもありましたので、既製品のお棺にうまく収まらなかったので、係の人が遺体の足をドンドン叩いて押し込みました。お呼びして、急遽駆けつけて来られていた彼のお母さんが、その時「やめて!」と叫ばれました。彼のお父さんも、脳内出血で早くに亡くなられ、お祖母さんとお母さんで育て、後少しで楽になると思われていた矢先だったのです。
ほんの数時間前まで、一緒に稽古していた友人が、あまりにもあっけなく他界してしまったこの出来事は、その後の私の考え方に、大きな影響を与えた事は間違いありません。
四回生になる頃からは、急に運動を止めると身体に悪いと聞いていましたので、徐々にクラブに顔を出す回数を減らし、6月には北海道を三週間かけて一人旅しました。自分の好きな時に、好きな場所へ行きたかったので、誰かを誘おうとは思いませんでした。また、4回生の時には、「武道館ひびき」の隣にある、豊島体育館の柿落としで、3人掛けの演武をして、記念にメダルを頂きました。今から考えれば不思議なご縁です。まさか毎週前を通ることになるとは‥‥。
#管理人です
下の写真は、35年前の私の姿です。こんなに真面目にやっているのは、きっと珍しかったので、先輩が写してくださったのだと思います。その頃「遅れず・休まず・全部せず」というのが、私の体力温存の秘訣でした。そして、「不得手な事は目立たぬよう、得意な事はちょっとアピール」ということもやっていましたねぇ〜
by centeringkokyu
| 2006-03-15 00:10
| 合気観照塾