2006年 03月 15日
私の履歴書 Vol.2 |
大学卒業後五年間は、再び運動とは無縁でした。五キロも太ってしまいましたし、一日60本吸っていた煙草も、のどが痛くなっても惰性で吸っている自分がいやになりましたので、止めました。そこで、体調を整える為に、太極拳を習おうと思ったのですが、時間帯と場所が希望通りにはありませんでしたので、何となく大阪合気会に入会しました。1978年の入会当初は体力不足で、一時間の稽古ができませんでした。人間の体力なんて、すぐに落ちてしまうものだと実感しました。
合気会では、約4年間稽古させて頂きました。二段を頂くまではずっと白帯をして稽古していました。二段を頂いた時に、田中万川先生から、袴はいいけれど、黒帯くらいは買いなさいと注意されましたので、黒帯を買いました。合気会では、気に入った先輩には、密着して教えてもらいました。誰に習うときでも、白帯をしている方が、気楽に教えてもらいやすかったのです。自分では、合気道が何を目標にしているのかさっぱり理解できませんでしたし、体の転換なんかしている間に、さっさと殴るか蹴るかが出来るのに、何故しないのかと疑問でした。でも、体力回復の為のリハビリだと思って稽古していました。実際、殴られるのも蹴られるのももう沢山でしたから、それでよかったのですが。そんな状態でしたから、稽古の時以外は、誰ともつき合いはありませんでした。
合気会で稽古しながら、週一回は太極拳も習いだしました。大阪に上海武術団がやってきて演武し、徐々に、中国の先生の特別講習会も催されるようになってきた時期でした。
1982年11月に気の研究会に移りました。気の研究会に、入会したのは、合気道よりもむしろ、統一道に興味があったからです。合気道のクラスにも参加しましたが、技を覚えるつもりはなく、投げられるのが目的のような感じでした。統一道と気圧療法はすごく気に入り、楽しくて仕方がありませんでした。入会後2年たった頃に、O嶋さんが東京本部から帰って来て、教えて下さるようになりました。O嶋さんには、本当に多くのことを教えて頂きました。その二年後、O嶋さんは、突然気の研究会を退職してしまったのです。そして、1987年春から、O嶋さんが中心になって、OO会の同好会がスタートしたわけです。
1989年にO嶋さんは、浮石流合気平法とかいう自分の流派を作って独立してしまいました。現在はOOO協会関西本部長として活躍されています。
OO会の稽古をしながら、新陰流の稽古も約8年させて頂きました。もともと不器用なので、剣を持って稽古をするなんて、自分でも信じられませんでした。W先生の「違う違う」と「そのまま上げて」という言葉の意味を、それなりに理解するのに5年以上かかりました。その上、型を全く覚えられませんでしたので、後輩の人たちに迷惑がかかると思い、退会させて頂きました。しかし、剣は合気の探求には、非常に参考になりましたし、合気は小野派一刀流が元になっているということが、自分なりにではありますが、納得できました。それに、W先生に教えて頂いた、制剛流抜刀術の新陰流バージョンは、一人で稽古ができますので、大変気に入っています。
#管理人です
下の写真に写っている資料は、次の通りです。
合気道神髄 創元之巻
昭和54年8月1日発行 月刊武道 8月号(集合写真には、私も写っています)
昭和55年11月30日 合気道講演会 神髄を語る
昭和47年6月 合気道神髄 巻一 昭和47年9月 合気道神髄 巻二
昭和48年4月 合気道神髄 導之巻 昭和49年12月7日 合気道
技法要点は発行日不明です 昭和57年10月10日 大阪合気道新聞
万川道言 合気道研鑽 写真の右側から下部にかけて並べてあります
合気会では、約4年間稽古させて頂きました。二段を頂くまではずっと白帯をして稽古していました。二段を頂いた時に、田中万川先生から、袴はいいけれど、黒帯くらいは買いなさいと注意されましたので、黒帯を買いました。合気会では、気に入った先輩には、密着して教えてもらいました。誰に習うときでも、白帯をしている方が、気楽に教えてもらいやすかったのです。自分では、合気道が何を目標にしているのかさっぱり理解できませんでしたし、体の転換なんかしている間に、さっさと殴るか蹴るかが出来るのに、何故しないのかと疑問でした。でも、体力回復の為のリハビリだと思って稽古していました。実際、殴られるのも蹴られるのももう沢山でしたから、それでよかったのですが。そんな状態でしたから、稽古の時以外は、誰ともつき合いはありませんでした。
合気会で稽古しながら、週一回は太極拳も習いだしました。大阪に上海武術団がやってきて演武し、徐々に、中国の先生の特別講習会も催されるようになってきた時期でした。
1982年11月に気の研究会に移りました。気の研究会に、入会したのは、合気道よりもむしろ、統一道に興味があったからです。合気道のクラスにも参加しましたが、技を覚えるつもりはなく、投げられるのが目的のような感じでした。統一道と気圧療法はすごく気に入り、楽しくて仕方がありませんでした。入会後2年たった頃に、O嶋さんが東京本部から帰って来て、教えて下さるようになりました。O嶋さんには、本当に多くのことを教えて頂きました。その二年後、O嶋さんは、突然気の研究会を退職してしまったのです。そして、1987年春から、O嶋さんが中心になって、OO会の同好会がスタートしたわけです。
1989年にO嶋さんは、浮石流合気平法とかいう自分の流派を作って独立してしまいました。現在はOOO協会関西本部長として活躍されています。
OO会の稽古をしながら、新陰流の稽古も約8年させて頂きました。もともと不器用なので、剣を持って稽古をするなんて、自分でも信じられませんでした。W先生の「違う違う」と「そのまま上げて」という言葉の意味を、それなりに理解するのに5年以上かかりました。その上、型を全く覚えられませんでしたので、後輩の人たちに迷惑がかかると思い、退会させて頂きました。しかし、剣は合気の探求には、非常に参考になりましたし、合気は小野派一刀流が元になっているということが、自分なりにではありますが、納得できました。それに、W先生に教えて頂いた、制剛流抜刀術の新陰流バージョンは、一人で稽古ができますので、大変気に入っています。
#管理人です
下の写真に写っている資料は、次の通りです。
合気道神髄 創元之巻
昭和54年8月1日発行 月刊武道 8月号(集合写真には、私も写っています)
昭和55年11月30日 合気道講演会 神髄を語る
昭和47年6月 合気道神髄 巻一 昭和47年9月 合気道神髄 巻二
昭和48年4月 合気道神髄 導之巻 昭和49年12月7日 合気道
技法要点は発行日不明です 昭和57年10月10日 大阪合気道新聞
万川道言 合気道研鑽 写真の右側から下部にかけて並べてあります
by centeringkokyu
| 2006-03-15 00:07
| 合気観照塾