2006年 03月 13日
経絡指圧の理論と実際 |
N山さんからの投稿に関連して、増永静人著「経絡と指圧」から抜粋してご紹介します。
経絡の虚実というと、共にこれを実体として検出し、客観的に捉えることが大切なように思うが、経絡が最も生命的な力をもつということは、生体の働きでは解剖的実体の陽に対し、陰の性質をもち、生きている間しか見られぬものだということを忘れがちである。生命の本質は、客観化できない、生体の内部に潜むものである。しかしその存在は陽(外見)によって把握できる。実の経絡は客観的に見やすい「外堅充満」の形から判断できるが、虚はあるように見えてない、しかしないようだが存在している。「不足」というのは実体でないが、存在なのである。気の状態がそういうものだということは東洋人ならわかるはずである。
プロの修業というのは、誰でも見えるものを単に沢山みてきたという経験の量のことではない。素人には見えない、それに生命をかけた者だけに見えてくる存在に気付くことである。病気を治すのは患者自身の治癒力であるから、これが働きやすい状態さえ作れゝば誰がやっても治るので、治す技術の優劣がプロとアマを区別するのではない。東洋医学が人間治療であると云われる所以は、患者自身がその生命力に自覚をもつことが必要である。いつまでも医療に頼って病気を治し健康を維持しようという姿勢が患者に残されたなら、いくら病気を治すことが上手でも、その患者の自立性を失わせてしまうことになる。精神療法で最も大切なことが患者に依頼心をもたせないことだというのは、そのまゝ東洋医学の本質でもあろう。病人が最も自覚しにくいのは病気の原因であり、陰にかくれている虚である。フロイトの精神分析は抑圧されたその体験を患者に自覚させるだけで治癒させたのである。虚は隠された本心であるから、これを暴きたてたり虚を衝くことは治療ではない。したがって虚は以温之であり、気満つれば適して自ら護るということになる。補とは、かばい、陰し覆うことで、そのほころびを置き縫う方法である。
虚が患者に自覚されるということは、症状や病変部が病気だと思っていたのが、実はそれが見せかけであり、気付かなかった虚に気の不足があったからだとわかることである。すなわち病気は全身の気が偏りを戻して円満になれば治るということを知るわけである。こうした偏見は、生命が陽の発展方向に於て、見える世界、分けて物事を明らかに見ようとする知識に捉われて、肉体を解剖的器官の集合と考え、人間を個々の分裂した個体の集りとみた「我」に由来している。これに対し、これまで気付かれにくかった陰の見えにくい交流・調和・融合こそ生命存在に不可欠な傾向であり、全体として成立つことを強調する東洋の考え方の大切なことが、外人に説明してみて私自身にも理解されてきた。東洋が我を捨てる文化を育てゝきたのに、東洋医学にその本質が見られないわけはない。
経絡治療の根本は、気血の流れをととのえて、全身の歪みをなくすことである。そのためには局所にとらわれ、個人にこだわる我を捨てなければならない。気は本来、天地から与えられたもので自然こそ生命の根元である。外界との交流なくして生命の存続はなく、陰陽調和こそ生成発展の原則である。見えるものにとらわれ、実体にこだわるときは、生命は偏って正しい姿を阻害される。病人は自我にとらわれて、心を開こうとしない、と十年以上も前に拙著「臨床心理学序説」に書きながら、その気の働きを正常にするのが「経絡治療」であることが、この頃ようやくわかってきた。気という身近かなものが、気の動きである姿勢の中に、経絡走向として表現されているという単純なことに思い及ばなかったからである。私の経絡指圧は、古典・鍼灸の概念をヒントとしながらも、直接の文献がないために、あくまで臨床を手がかりとして組織づけられてきた。「切診の手引」(経絡指圧診断治療要図・解説)に示された症状・作用は、すべて患者の生(ナマ)の訴え、現実の表現の記録から構成されている。
#管理人です
増永先生の「指圧事始め」と「移精変気の法」は、以前に抜粋してご紹介させて頂きました。「増永」を検索して頂くと出てきます。さらに、配布資料133〜138に増永先生関連の資料は纏めて頂きました。興味の有る方は、そちらもご一読ください。
I川さんからのメールもご紹介します。
「経絡と指圧」の資料、本の内容を思い出しながら読ませていただきました。
増永先生はすごいなあってあらためて感じました。
個人的に面白かったのは「指圧事始め」です。
前に読んだときは、適当に読み流してたのか、あまり記憶に残ってませんでした。
やっぱり、問題意識の持ち方で、読み方も変わってくるものなんですね。
経絡の虚実というと、共にこれを実体として検出し、客観的に捉えることが大切なように思うが、経絡が最も生命的な力をもつということは、生体の働きでは解剖的実体の陽に対し、陰の性質をもち、生きている間しか見られぬものだということを忘れがちである。生命の本質は、客観化できない、生体の内部に潜むものである。しかしその存在は陽(外見)によって把握できる。実の経絡は客観的に見やすい「外堅充満」の形から判断できるが、虚はあるように見えてない、しかしないようだが存在している。「不足」というのは実体でないが、存在なのである。気の状態がそういうものだということは東洋人ならわかるはずである。
プロの修業というのは、誰でも見えるものを単に沢山みてきたという経験の量のことではない。素人には見えない、それに生命をかけた者だけに見えてくる存在に気付くことである。病気を治すのは患者自身の治癒力であるから、これが働きやすい状態さえ作れゝば誰がやっても治るので、治す技術の優劣がプロとアマを区別するのではない。東洋医学が人間治療であると云われる所以は、患者自身がその生命力に自覚をもつことが必要である。いつまでも医療に頼って病気を治し健康を維持しようという姿勢が患者に残されたなら、いくら病気を治すことが上手でも、その患者の自立性を失わせてしまうことになる。精神療法で最も大切なことが患者に依頼心をもたせないことだというのは、そのまゝ東洋医学の本質でもあろう。病人が最も自覚しにくいのは病気の原因であり、陰にかくれている虚である。フロイトの精神分析は抑圧されたその体験を患者に自覚させるだけで治癒させたのである。虚は隠された本心であるから、これを暴きたてたり虚を衝くことは治療ではない。したがって虚は以温之であり、気満つれば適して自ら護るということになる。補とは、かばい、陰し覆うことで、そのほころびを置き縫う方法である。
虚が患者に自覚されるということは、症状や病変部が病気だと思っていたのが、実はそれが見せかけであり、気付かなかった虚に気の不足があったからだとわかることである。すなわち病気は全身の気が偏りを戻して円満になれば治るということを知るわけである。こうした偏見は、生命が陽の発展方向に於て、見える世界、分けて物事を明らかに見ようとする知識に捉われて、肉体を解剖的器官の集合と考え、人間を個々の分裂した個体の集りとみた「我」に由来している。これに対し、これまで気付かれにくかった陰の見えにくい交流・調和・融合こそ生命存在に不可欠な傾向であり、全体として成立つことを強調する東洋の考え方の大切なことが、外人に説明してみて私自身にも理解されてきた。東洋が我を捨てる文化を育てゝきたのに、東洋医学にその本質が見られないわけはない。
経絡治療の根本は、気血の流れをととのえて、全身の歪みをなくすことである。そのためには局所にとらわれ、個人にこだわる我を捨てなければならない。気は本来、天地から与えられたもので自然こそ生命の根元である。外界との交流なくして生命の存続はなく、陰陽調和こそ生成発展の原則である。見えるものにとらわれ、実体にこだわるときは、生命は偏って正しい姿を阻害される。病人は自我にとらわれて、心を開こうとしない、と十年以上も前に拙著「臨床心理学序説」に書きながら、その気の働きを正常にするのが「経絡治療」であることが、この頃ようやくわかってきた。気という身近かなものが、気の動きである姿勢の中に、経絡走向として表現されているという単純なことに思い及ばなかったからである。私の経絡指圧は、古典・鍼灸の概念をヒントとしながらも、直接の文献がないために、あくまで臨床を手がかりとして組織づけられてきた。「切診の手引」(経絡指圧診断治療要図・解説)に示された症状・作用は、すべて患者の生(ナマ)の訴え、現実の表現の記録から構成されている。
#管理人です
増永先生の「指圧事始め」と「移精変気の法」は、以前に抜粋してご紹介させて頂きました。「増永」を検索して頂くと出てきます。さらに、配布資料133〜138に増永先生関連の資料は纏めて頂きました。興味の有る方は、そちらもご一読ください。
I川さんからのメールもご紹介します。
「経絡と指圧」の資料、本の内容を思い出しながら読ませていただきました。
増永先生はすごいなあってあらためて感じました。
個人的に面白かったのは「指圧事始め」です。
前に読んだときは、適当に読み流してたのか、あまり記憶に残ってませんでした。
やっぱり、問題意識の持ち方で、読み方も変わってくるものなんですね。
by centeringkokyu
| 2006-03-13 00:12
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