2006年 02月 19日
ひとのふりみて 06/02/18 |
M岡さんからの投稿をご紹介します。
今日はK野さんに対して感謝の思いを込めて書きます。
大切なのは器の中身
これまで色々な資料を集め、様々な事をやって思うのが「昔の人は凄いな」と言う事・・・勿論、最近の方々も凄い人は多く、総じて「良くこんな風に説明出来るものだ」とつくづく感心します。
しかし、自分がグルメなネコになってしまったからか?・・・「どのメソッドもイマイチしっくり来ない」のです。
どうしてかな?と思い、特に最近の方のお写真を見ると、営業的な姿勢もさることながら、総じて「鳩尾から上」の処理に問題があり・・・「あれだけ説明出来てなんでなんだ?」と思っていました。
そして数日原稿を書きながらはっとしたのが「質量保存の法則と発想が無視されている」と言う事でした。「無視」と言うより「気が付いていない」方が正しいかもしれません。
例えば、「スカイフック(頭を吊す)」ですが、どれも「糸で吊された感覚で」と言う既成概念の呪縛が強く、「自分を多段式のシリンダー」とし、足首や膝、股関節と言った下肢の各関節から体幹、上肢、末端へ「内圧連動」させる必要が注視されていません。
他、「大腰筋を使って」・「足首を吊して」と言ってもそれは部分的な結果に過ぎず、「老子」ではありませんが、器の柄や形ばかりに気が行き、その中身である「空間の意味」について思いも寄らない様なのです。
器の中身としてのセンタリング呼吸法
一方で、それに気付いて後、気功やヨガ、西洋のボディーワーク、霊術等を再検証してみると、それをきちんと会得させる様な「練習法や概念」は揃っているのです。
ただ、継承者が「器の中身」に気付いていない事が多く・・・しかしながら、私の拙い経験から推測しても、師がそれを教えるのには「限界」があり、生徒としても師を通じて「技を盗み」、「自ら検証する」意外に方法はない様に思います。
その観点からK野さんは沢山の「ものの見方のシンクタンク(ブログ)や検証の仕方」を提供されているのだと思います。
加えて!私が今更ながら凄いと思った事は、K野さんが色々な意味で「器の中身」を会得する土台を「呼吸」と見抜かれ、それを「自己中心観照」の基礎としてされた事です。
その辺は入門時と現在の中心塾でのセッションの展開や補助・整復の仕方を比較させて頂き良く分かりました。
例えば、以前のK野さんの整復はどちらかと言えば「施術者主体」のものでした。
しかし、この方法では施術する人間の体力的消耗も激しく、整復される人も「受け身」となり、K野さんの理想とされた「潜在意識教育」との兼ね合いが難しい。
しかしながら、センタリング呼吸法の誘導法を用いると「施術者」は「補助者」となって自らを消耗する事なく、多くの人をより良い形で誘導出来、 整復される人も「自らの呼吸」によって様々な気付きや可能性を体感出来、そこを「感覚・体験的取っ掛かり」とし「体の内圧操作」を通じて「自己観照」する事が可能となります。
加えて、他人の変化に立ち会い、その経過を見詰める事で「ひとのふりみて」学ぶ事が出来ます。
この様に、「質量保存」や「ものの見方」の意味だけでなく、色々な意味での「器の中身」を「呼吸」を通じて追求する事がセンタリング呼吸法の真価だと私は思います。
器の中から「来る」ものは何か?
昔、K野さんが施術される時「来た来た」と仰る事が全く分かりませんでした。言葉尻だけ掴み、何年も何百回も「何が来るんだろう」と思ったものです(笑)。
しかし、自分の体内の密度が高まり、心身を固める事なく、自分の芯から内圧を高め、それが体の外に向かって「弾力性」として現れた始めた今、自分の内からの確かに「来た」ものを掴みました。
それを用い、先ず、20数年前に出来なかった「硬気功」を試しました。かつての師曰く「硬気功は石を砕き、槍を折る為のものでなく、自らの内なる力の発現を試すもの。その力が発現した時、石は割れる」・・・その意味をようやく理解し体現出来ました。
人やもの、重力の圧が体に加わる時、内圧を用い「自らの芯」でそれを受け容れると、なんら「押す事も引く事もなく」自分の芯から圧力が発現し「バランス」を取ろうとする働きが人間にはあるのです。
次に「整復」を試しました。人の虚実を見、重力や螺旋を用い、内圧が湧き出て来る様に誘導すると、上手くいけば勝手にその方の中から「自分の平衡を保つバランス」が来てくれます。
それを「推手」として試すと、これも相手を「押す事も引く事もなく」、自分の体から発現する弾力が相手を弾き、相手を追いかけます。
現実を肯定し受け容れる姿勢
この「器の中から来る」ものを会得するには、物理的には腹を中心に「土踏まず」・「膝裏」・「骨盤膜」、「横隔膜」、「声帯」、「口腔」、「硬膜」をメインとして「引き込む・吊す」力の発現を会得する事が大切です。
しかし、体とは誠に正直なもので、これを「技術」と割り切っても会得する事は出来ません。これも断言出来ます。「見ても見えず」気付かないからです。
例えば、心が捻れ、頑張り、逃げていた頃の私の体は「こわばって外へ拒否し捻れ、固まる」とか「萎縮して崩れる」事しか出来ず、これまで書いた内容を意識も気付きも発想も体現も出来ない心身でした。
結局、自分の歪み・固まる心身を観照し、それをセンタリングする作業の中で「心や体が物事を肯定的に受け容れ、それにバランスを保つ姿勢や意義」を自得し、少しずつ腑に落として行った結果、心身が変化してくれたのでした。
結論として、器としての自分の中身を高める事の他に自他共の状況を改善する有効な方法はなく、このメソッドは我々の社会生活すべてに応用されるものと思います。
春と言えば
「肝」に出やすい私としてはこの季節が心身共に大変な季節なのですが、今年はそんな「春の働き」が「物事が芽吹く勢い」として良い形で感じられます。ありがたい事です。
今日はK野さんに対して感謝の思いを込めて書きます。
大切なのは器の中身
これまで色々な資料を集め、様々な事をやって思うのが「昔の人は凄いな」と言う事・・・勿論、最近の方々も凄い人は多く、総じて「良くこんな風に説明出来るものだ」とつくづく感心します。
しかし、自分がグルメなネコになってしまったからか?・・・「どのメソッドもイマイチしっくり来ない」のです。
どうしてかな?と思い、特に最近の方のお写真を見ると、営業的な姿勢もさることながら、総じて「鳩尾から上」の処理に問題があり・・・「あれだけ説明出来てなんでなんだ?」と思っていました。
そして数日原稿を書きながらはっとしたのが「質量保存の法則と発想が無視されている」と言う事でした。「無視」と言うより「気が付いていない」方が正しいかもしれません。
例えば、「スカイフック(頭を吊す)」ですが、どれも「糸で吊された感覚で」と言う既成概念の呪縛が強く、「自分を多段式のシリンダー」とし、足首や膝、股関節と言った下肢の各関節から体幹、上肢、末端へ「内圧連動」させる必要が注視されていません。
他、「大腰筋を使って」・「足首を吊して」と言ってもそれは部分的な結果に過ぎず、「老子」ではありませんが、器の柄や形ばかりに気が行き、その中身である「空間の意味」について思いも寄らない様なのです。
器の中身としてのセンタリング呼吸法
一方で、それに気付いて後、気功やヨガ、西洋のボディーワーク、霊術等を再検証してみると、それをきちんと会得させる様な「練習法や概念」は揃っているのです。
ただ、継承者が「器の中身」に気付いていない事が多く・・・しかしながら、私の拙い経験から推測しても、師がそれを教えるのには「限界」があり、生徒としても師を通じて「技を盗み」、「自ら検証する」意外に方法はない様に思います。
その観点からK野さんは沢山の「ものの見方のシンクタンク(ブログ)や検証の仕方」を提供されているのだと思います。
加えて!私が今更ながら凄いと思った事は、K野さんが色々な意味で「器の中身」を会得する土台を「呼吸」と見抜かれ、それを「自己中心観照」の基礎としてされた事です。
その辺は入門時と現在の中心塾でのセッションの展開や補助・整復の仕方を比較させて頂き良く分かりました。
例えば、以前のK野さんの整復はどちらかと言えば「施術者主体」のものでした。
しかし、この方法では施術する人間の体力的消耗も激しく、整復される人も「受け身」となり、K野さんの理想とされた「潜在意識教育」との兼ね合いが難しい。
しかしながら、センタリング呼吸法の誘導法を用いると「施術者」は「補助者」となって自らを消耗する事なく、多くの人をより良い形で誘導出来、 整復される人も「自らの呼吸」によって様々な気付きや可能性を体感出来、そこを「感覚・体験的取っ掛かり」とし「体の内圧操作」を通じて「自己観照」する事が可能となります。
加えて、他人の変化に立ち会い、その経過を見詰める事で「ひとのふりみて」学ぶ事が出来ます。
この様に、「質量保存」や「ものの見方」の意味だけでなく、色々な意味での「器の中身」を「呼吸」を通じて追求する事がセンタリング呼吸法の真価だと私は思います。
器の中から「来る」ものは何か?
昔、K野さんが施術される時「来た来た」と仰る事が全く分かりませんでした。言葉尻だけ掴み、何年も何百回も「何が来るんだろう」と思ったものです(笑)。
しかし、自分の体内の密度が高まり、心身を固める事なく、自分の芯から内圧を高め、それが体の外に向かって「弾力性」として現れた始めた今、自分の内からの確かに「来た」ものを掴みました。
それを用い、先ず、20数年前に出来なかった「硬気功」を試しました。かつての師曰く「硬気功は石を砕き、槍を折る為のものでなく、自らの内なる力の発現を試すもの。その力が発現した時、石は割れる」・・・その意味をようやく理解し体現出来ました。
人やもの、重力の圧が体に加わる時、内圧を用い「自らの芯」でそれを受け容れると、なんら「押す事も引く事もなく」自分の芯から圧力が発現し「バランス」を取ろうとする働きが人間にはあるのです。
次に「整復」を試しました。人の虚実を見、重力や螺旋を用い、内圧が湧き出て来る様に誘導すると、上手くいけば勝手にその方の中から「自分の平衡を保つバランス」が来てくれます。
それを「推手」として試すと、これも相手を「押す事も引く事もなく」、自分の体から発現する弾力が相手を弾き、相手を追いかけます。
現実を肯定し受け容れる姿勢
この「器の中から来る」ものを会得するには、物理的には腹を中心に「土踏まず」・「膝裏」・「骨盤膜」、「横隔膜」、「声帯」、「口腔」、「硬膜」をメインとして「引き込む・吊す」力の発現を会得する事が大切です。
しかし、体とは誠に正直なもので、これを「技術」と割り切っても会得する事は出来ません。これも断言出来ます。「見ても見えず」気付かないからです。
例えば、心が捻れ、頑張り、逃げていた頃の私の体は「こわばって外へ拒否し捻れ、固まる」とか「萎縮して崩れる」事しか出来ず、これまで書いた内容を意識も気付きも発想も体現も出来ない心身でした。
結局、自分の歪み・固まる心身を観照し、それをセンタリングする作業の中で「心や体が物事を肯定的に受け容れ、それにバランスを保つ姿勢や意義」を自得し、少しずつ腑に落として行った結果、心身が変化してくれたのでした。
結論として、器としての自分の中身を高める事の他に自他共の状況を改善する有効な方法はなく、このメソッドは我々の社会生活すべてに応用されるものと思います。
春と言えば
「肝」に出やすい私としてはこの季節が心身共に大変な季節なのですが、今年はそんな「春の働き」が「物事が芽吹く勢い」として良い形で感じられます。ありがたい事です。
by centeringkokyu
| 2006-02-19 00:04
| ネコ殿