2005年 12月 30日
陰主陽従 |
私が大阪支部 十周年記念誌(1997年発行)に投稿した原稿をのせます。
大阪支部も十周年を迎える事ができました。これも、OS先生はじめ会員の皆様方のご協力の賜物と、心よりお礼申し上げます。
平成元年、元の代表者だったO嶋氏が独立され、成り行きからOS先生への連絡係になりまして、大阪同好会がなんとか再出発して約8年。平成7年1月には地震が有り、稽古への出席者も一時期は10人を切る日が続きました。仕事も芦屋市で営業していましたので、やりくりが大変でした。しかし、会費の残金があるうちは先生にお越し頂こうと考え、講習会を続けてきました。
平成7年(1995年)4月には、私が四段を頂きましたので正式に大阪支部として独立を許されました。そして、会員数も増加し運営も楽に出来るようになりました。しかし、その実体は皆さんがご存じの通り、同好会のままです。これからも会員の皆さんが支えて下さらない限り、会の継続は不可能ですので、ご理解の上よろしくご協力の程、お願い致します。
さて、五周年記念誌にも書かせて頂きました通り、初めてOS先生の技に触れた時の感動と、十年で先生の技の何パーセントまで近付けるかが、私のテーマでした。しかし、ここではっきりと宣言させて頂きます。先生の進歩の速度は私の予測を遥に越えていますので、とても近付けません。参りました。そして、先生が一番沢山稽古をされていることにも気づきました。怠惰な私にはとても先生のまねはできません。さらに、素質も感性も体格も違う私が、ただただ現在の先生のされることのまねだけを、いくら一生懸命続けても上達は不可能だと悟りました。先生が数十年に渡って続けてこられた様々なことは、まねることも想像することも不可能です。そこで考えたのですが、先生が何時も記念誌に書かれる言葉「照顧却下」とは、答えは自分の中にしかない、自分の道は自分で切り開いて進み、そして顧みるしか方法はない、これは「とりあえず理論」ではないのかと。
ここまで考えてふと、私の「とりあえず理論」は他の人にとっては有害無益なのだということに気づきました。私は今迄、小さな親切のつもりで、大きな迷惑を皆さんにかけ続けてきたことになります。十周年を迎え、気持を新たにして、これから以後は皆さんにご迷惑をかけないように十分注意するようにしますので、どうかお許し下さい。
ただ、感動に関しては今も少しも薄れていません。先生の技に触れる度に、衝撃と感動が同時に訪れます。そして今も先生の技を探求する意欲は少しも衰えていないつもりです。先生が掛けられる技の原理を、なんとか解明しようとする意欲が、今迄稽古を続けてこられた大きな原動力だったと思います。しかし、最近つくづく思うのですが、口での説明はあくまでも結果へのこじつけでしか有り得ないのではないでしょうか。いい意味での方便だと言ったほうが近いような気がします。
やはり、一人一人が自分のレベルで、自分の身体で納得する以外に、上達の方法はないと思います。OS先生でさえ、昔されていたスキーやスキューバーダイビング、そして、奥様にはないしょのパラグライダー、さらにハワイでご覧になったフラダンスなどから、様々な合気のヒントを得られたと、漏れ伺っております。逆にOS先生ほどの方だから、色々な体験から多くの事を吸収されるのだと思います。私は先生と同じ体験は出来ませんので、自分なりに自分の身体をモニターにして、少しでも合気の精度を高めるべく、日々楽しみたいと思います。
ここで、合気を修得する上で私が注意している事について、少し書かせて頂きます。先生が何時も言われることに、「右に回すときは、左の方から。左に回すときは、右の方から。」というのが有ります。これは、円運動をすることなのですが、私はもう少し広い意味で考えています。
力を入れる為には、力を完全に抜く。
接点を意識する為には、全体を意識する。
速く動く為には、ゆっくり動く。
小さく動く為には、大きく正確に動く。
上体の力を抜く為には、下体をしっかりさせる。
このように、或る目的を達成するためには、その目的とは一見相反すると思われることから始める方が、正確にその目的に達する事が出来るのではないかと考えている訳です。
これを別の表現をすると、よくめだつ陽の事象にばかり目を向けないで、比較的見えにくい陰の事象に目を向けると言うことになると思われます。むしろ、陰を主に注意することで、陰陽の両方が見えて来ると考えてもよいのではないでしょうか。
最後に、これを道歌と呼ぶのはどうかと思いますが、なんとなく詠んだものを書きとめておきます。どうか味わってやって下さい。こんな事を書く私もどうかしてます。ハイ。
カン察し カンじ カンがえ カンさえて 先入カンを 捨てんとあカン
兼ね合いで 釣り合い取れて いいかげん 過不足もなく 保つ中心
中心を 保てた時に なんとなく 見えぬ虚実に 気づくうれしさ
これからも、OS先生を目標にして、皆さんと一緒に、少しでも先生に近づくべく稽古を続け、日本の素晴らしい文化である大東流合気柔術OO会の技を、私達なりに次の世代に伝えて行くお手伝いが出来れば幸いだと思います。
追記
最近読んだ脳に関する本の中に、興味深い記述がありましたので、抜粋して書き出しておきます。相手との接点は勿論、地面との接点や、意識してする呼吸さえも、アクティブ・タッチをするとどうなるかを、イメージして読んでいただくと、体内感覚の重要性も理解しやすいのではないでしょうか。
◎記憶には二種類あることが知られている。頭で覚える記憶と体で覚える記憶である。記述的記憶と手続き的記憶でといってもいいし、認知記憶と運動記憶といってもいい。 要するに、言葉で表現できるような具体的内容をともなった記憶が前者で、ピアノの弾き方、自動車の運転の仕方、食事の仕方など、記憶内容を意識しなくても、体が覚えていて、体が自然に思い出してくれる記憶が後者である。スポーツやゲームのやり方を覚えるとか、通い馴れた道の道順を覚えるのも後者である。
前者と後者とでは、記憶の保持されている場所が違う。脳の中には、ここが破壊されれば、記憶能力が失われて健忘症になるという場所が「海馬」などいくつかある。しかし、そこを破壊されても、失われるのは、頭で覚える記憶だけで、体で覚えた記憶は失われないのである。また、記憶のメカニズムも違う。頭で覚える方は、頭だけで覚えられ、たった一度の経験だけでも覚えることが可能である。しかし、体で覚える方は、何度も何度も練習を積み重ねないと覚えられない。
頭で覚える記憶については、実はまだそのシステムも、それが保持されている場所もよくわかっていない。世界中で多くの研究が積み重ねられ、断片的にはいろいろわかってきているが、まだその全体像をつかむのには程遠い状況にある。
それに対して、体で覚える記憶の方は、その基本的なメカニズムの大要はすでに解明されているといってよい。すなわち、小脳のメカニズムがそれなのである。
◎あらゆる反射に小脳コンピューターが補助的に入って、動きを調節しているわけです。大脳が命令して随意運動が行なわれる場合も同様で、やはり小脳コンピューターが入って動きを正確にかつスムーズにします。大脳が随意運動をするときには、大脳はその結果をフィードバックして、自ら正しく動いたかどうかをチェックしながら慎重にやっていく訳ですが、それを小脳が脇からモニターしていて、片端から学習して記憶していきます。そして小脳が記憶してしまうと、もう大脳の慎重なフィードバックは無用になって、小脳まかせで無意識のうちに行動出来るようになる。これは、自転車に乗るのを初めて覚えた時の事を思いだすと合点がいきます。初めは、頭で自転車を乗りこなそうとして、失敗ばかりする。失敗を繰り返しているうちに、体が覚えてしまって、何も意識しないで自転車を乗りこなせるようになる。
◎考えてみれば、柔らかい、硬いにしても、ザラザラ、スベスベにしても、その他もろもろの特徴にしても、こちらから手を動かして触ったり、いじったりしなければわからないのである。心理学の世界では、かねてから、アクティブ・タッチといって、触覚には、与えられたものを受け取るだけの受け身の感覚以外にこちらから能動的に獲得する感覚があるのだといわれてきた。
◎高次の触覚認識はすべてアクティブ・タッチである。様々な形状、材質のものをサルに与えて、サルにいじらせ、そのとき動くアクティブ・タッチ・ニューロンを探していくのである。そうすると、実に色々のニューロンがあることがわかった。三本指でつまむ動作をするときだけ発火するニューロン、ある指を曲げて他の指を伸ばしたときだけ発火するニューロン、何かをつかもうとして手を伸ばすときだけ発火するニューロンなどなど、複雑な能動的動作で初めて発火するニューロンが出てきた。こういうニューロンは、自分が動かない限りぜんぜん発火しない。だから、従来の研究方法のように、サルの体表をあちこちいろんなふうに刺激しても、まったく反応がないということになる。
◎実際に手の指を動かした時と、実際には動かさずに、動かしている時と同じように、筋肉を動かすところを正確にイメージするだけでも、同じように脳の中の運動野が活性化する。頭の中で言葉を発すると、言語野が活性化するのと同じような現象である。アメリカの研究では、何かを見ていると想像させると、視覚野が活性化したという報告がある。
#管理人です
この時期には、『「とりあえず理論」は他の人にとっては有害無益なのだということに気づきました。』と書いています。自分ではこれからも「とりあえず理論」でやっていきますが、皆さんはお好きな方法を、どうぞご自分で編み出してくださいという気持ちでした。ですから、これからは見えない動きに移行していきます。「陰主陽従」や「アクティブ・タッチ」という考え方を取り入れますという事です。さらに、「ボディ・ワークとしての合気を探究します。」と年賀状に書いたような記憶があります。
少しだけ「フェルデンクライス身体訓練法」が分かったような気がしてきたので、この頃には、たまに稽古に取り入れたのですが、ほとんど理解されなかったようです。
その頃の印象的な出来事を書いておきます。1996年11月の奈良支部での講習会までOS先生は、正座をして技を掛けておられました。ところが、1997年1月の大阪での講習会の時には、片膝を立てた状態で座り技をされました。その事で私は、会陰を締める重要性に気づいたのです。
私のHPのコラム「吹奏楽部」(2004年2月)から引用します。
片膝を地面に着き、片膝を立てて座った状態で両踵を上げ、両脚を擦るようにして立ったり座ったりすることで、身体の中心軸が養成されます。そして、同じようにして座った状態で、少し仰向き加減で楽器を持ったままでストップモーションをするのも、軸を細くして不要な力を抜き、意識を大きく使うということの重要性を認識するのに効果的だと考えられます。さらに、その状態を保ったままで複式呼吸が出来るということは、すでにリラックス出来ているということでもあります。 下半身の体勢をしっかり決めて、複式呼吸をすることで、逆に骨盤や背骨そして首までもが、自然に調整されるのではないでしょうか。当然、楽器を吹く時に複式呼吸が大切であることは言うまでもありません。(引用終わり)詳しくは、こちらをご一読ください。
大阪支部も十周年を迎える事ができました。これも、OS先生はじめ会員の皆様方のご協力の賜物と、心よりお礼申し上げます。
平成元年、元の代表者だったO嶋氏が独立され、成り行きからOS先生への連絡係になりまして、大阪同好会がなんとか再出発して約8年。平成7年1月には地震が有り、稽古への出席者も一時期は10人を切る日が続きました。仕事も芦屋市で営業していましたので、やりくりが大変でした。しかし、会費の残金があるうちは先生にお越し頂こうと考え、講習会を続けてきました。
平成7年(1995年)4月には、私が四段を頂きましたので正式に大阪支部として独立を許されました。そして、会員数も増加し運営も楽に出来るようになりました。しかし、その実体は皆さんがご存じの通り、同好会のままです。これからも会員の皆さんが支えて下さらない限り、会の継続は不可能ですので、ご理解の上よろしくご協力の程、お願い致します。
さて、五周年記念誌にも書かせて頂きました通り、初めてOS先生の技に触れた時の感動と、十年で先生の技の何パーセントまで近付けるかが、私のテーマでした。しかし、ここではっきりと宣言させて頂きます。先生の進歩の速度は私の予測を遥に越えていますので、とても近付けません。参りました。そして、先生が一番沢山稽古をされていることにも気づきました。怠惰な私にはとても先生のまねはできません。さらに、素質も感性も体格も違う私が、ただただ現在の先生のされることのまねだけを、いくら一生懸命続けても上達は不可能だと悟りました。先生が数十年に渡って続けてこられた様々なことは、まねることも想像することも不可能です。そこで考えたのですが、先生が何時も記念誌に書かれる言葉「照顧却下」とは、答えは自分の中にしかない、自分の道は自分で切り開いて進み、そして顧みるしか方法はない、これは「とりあえず理論」ではないのかと。
ここまで考えてふと、私の「とりあえず理論」は他の人にとっては有害無益なのだということに気づきました。私は今迄、小さな親切のつもりで、大きな迷惑を皆さんにかけ続けてきたことになります。十周年を迎え、気持を新たにして、これから以後は皆さんにご迷惑をかけないように十分注意するようにしますので、どうかお許し下さい。
ただ、感動に関しては今も少しも薄れていません。先生の技に触れる度に、衝撃と感動が同時に訪れます。そして今も先生の技を探求する意欲は少しも衰えていないつもりです。先生が掛けられる技の原理を、なんとか解明しようとする意欲が、今迄稽古を続けてこられた大きな原動力だったと思います。しかし、最近つくづく思うのですが、口での説明はあくまでも結果へのこじつけでしか有り得ないのではないでしょうか。いい意味での方便だと言ったほうが近いような気がします。
やはり、一人一人が自分のレベルで、自分の身体で納得する以外に、上達の方法はないと思います。OS先生でさえ、昔されていたスキーやスキューバーダイビング、そして、奥様にはないしょのパラグライダー、さらにハワイでご覧になったフラダンスなどから、様々な合気のヒントを得られたと、漏れ伺っております。逆にOS先生ほどの方だから、色々な体験から多くの事を吸収されるのだと思います。私は先生と同じ体験は出来ませんので、自分なりに自分の身体をモニターにして、少しでも合気の精度を高めるべく、日々楽しみたいと思います。
ここで、合気を修得する上で私が注意している事について、少し書かせて頂きます。先生が何時も言われることに、「右に回すときは、左の方から。左に回すときは、右の方から。」というのが有ります。これは、円運動をすることなのですが、私はもう少し広い意味で考えています。
力を入れる為には、力を完全に抜く。
接点を意識する為には、全体を意識する。
速く動く為には、ゆっくり動く。
小さく動く為には、大きく正確に動く。
上体の力を抜く為には、下体をしっかりさせる。
このように、或る目的を達成するためには、その目的とは一見相反すると思われることから始める方が、正確にその目的に達する事が出来るのではないかと考えている訳です。
これを別の表現をすると、よくめだつ陽の事象にばかり目を向けないで、比較的見えにくい陰の事象に目を向けると言うことになると思われます。むしろ、陰を主に注意することで、陰陽の両方が見えて来ると考えてもよいのではないでしょうか。
最後に、これを道歌と呼ぶのはどうかと思いますが、なんとなく詠んだものを書きとめておきます。どうか味わってやって下さい。こんな事を書く私もどうかしてます。ハイ。
カン察し カンじ カンがえ カンさえて 先入カンを 捨てんとあカン
兼ね合いで 釣り合い取れて いいかげん 過不足もなく 保つ中心
中心を 保てた時に なんとなく 見えぬ虚実に 気づくうれしさ
これからも、OS先生を目標にして、皆さんと一緒に、少しでも先生に近づくべく稽古を続け、日本の素晴らしい文化である大東流合気柔術OO会の技を、私達なりに次の世代に伝えて行くお手伝いが出来れば幸いだと思います。
追記
最近読んだ脳に関する本の中に、興味深い記述がありましたので、抜粋して書き出しておきます。相手との接点は勿論、地面との接点や、意識してする呼吸さえも、アクティブ・タッチをするとどうなるかを、イメージして読んでいただくと、体内感覚の重要性も理解しやすいのではないでしょうか。
◎記憶には二種類あることが知られている。頭で覚える記憶と体で覚える記憶である。記述的記憶と手続き的記憶でといってもいいし、認知記憶と運動記憶といってもいい。 要するに、言葉で表現できるような具体的内容をともなった記憶が前者で、ピアノの弾き方、自動車の運転の仕方、食事の仕方など、記憶内容を意識しなくても、体が覚えていて、体が自然に思い出してくれる記憶が後者である。スポーツやゲームのやり方を覚えるとか、通い馴れた道の道順を覚えるのも後者である。
前者と後者とでは、記憶の保持されている場所が違う。脳の中には、ここが破壊されれば、記憶能力が失われて健忘症になるという場所が「海馬」などいくつかある。しかし、そこを破壊されても、失われるのは、頭で覚える記憶だけで、体で覚えた記憶は失われないのである。また、記憶のメカニズムも違う。頭で覚える方は、頭だけで覚えられ、たった一度の経験だけでも覚えることが可能である。しかし、体で覚える方は、何度も何度も練習を積み重ねないと覚えられない。
頭で覚える記憶については、実はまだそのシステムも、それが保持されている場所もよくわかっていない。世界中で多くの研究が積み重ねられ、断片的にはいろいろわかってきているが、まだその全体像をつかむのには程遠い状況にある。
それに対して、体で覚える記憶の方は、その基本的なメカニズムの大要はすでに解明されているといってよい。すなわち、小脳のメカニズムがそれなのである。
◎あらゆる反射に小脳コンピューターが補助的に入って、動きを調節しているわけです。大脳が命令して随意運動が行なわれる場合も同様で、やはり小脳コンピューターが入って動きを正確にかつスムーズにします。大脳が随意運動をするときには、大脳はその結果をフィードバックして、自ら正しく動いたかどうかをチェックしながら慎重にやっていく訳ですが、それを小脳が脇からモニターしていて、片端から学習して記憶していきます。そして小脳が記憶してしまうと、もう大脳の慎重なフィードバックは無用になって、小脳まかせで無意識のうちに行動出来るようになる。これは、自転車に乗るのを初めて覚えた時の事を思いだすと合点がいきます。初めは、頭で自転車を乗りこなそうとして、失敗ばかりする。失敗を繰り返しているうちに、体が覚えてしまって、何も意識しないで自転車を乗りこなせるようになる。
◎考えてみれば、柔らかい、硬いにしても、ザラザラ、スベスベにしても、その他もろもろの特徴にしても、こちらから手を動かして触ったり、いじったりしなければわからないのである。心理学の世界では、かねてから、アクティブ・タッチといって、触覚には、与えられたものを受け取るだけの受け身の感覚以外にこちらから能動的に獲得する感覚があるのだといわれてきた。
◎高次の触覚認識はすべてアクティブ・タッチである。様々な形状、材質のものをサルに与えて、サルにいじらせ、そのとき動くアクティブ・タッチ・ニューロンを探していくのである。そうすると、実に色々のニューロンがあることがわかった。三本指でつまむ動作をするときだけ発火するニューロン、ある指を曲げて他の指を伸ばしたときだけ発火するニューロン、何かをつかもうとして手を伸ばすときだけ発火するニューロンなどなど、複雑な能動的動作で初めて発火するニューロンが出てきた。こういうニューロンは、自分が動かない限りぜんぜん発火しない。だから、従来の研究方法のように、サルの体表をあちこちいろんなふうに刺激しても、まったく反応がないということになる。
◎実際に手の指を動かした時と、実際には動かさずに、動かしている時と同じように、筋肉を動かすところを正確にイメージするだけでも、同じように脳の中の運動野が活性化する。頭の中で言葉を発すると、言語野が活性化するのと同じような現象である。アメリカの研究では、何かを見ていると想像させると、視覚野が活性化したという報告がある。
#管理人です
この時期には、『「とりあえず理論」は他の人にとっては有害無益なのだということに気づきました。』と書いています。自分ではこれからも「とりあえず理論」でやっていきますが、皆さんはお好きな方法を、どうぞご自分で編み出してくださいという気持ちでした。ですから、これからは見えない動きに移行していきます。「陰主陽従」や「アクティブ・タッチ」という考え方を取り入れますという事です。さらに、「ボディ・ワークとしての合気を探究します。」と年賀状に書いたような記憶があります。
少しだけ「フェルデンクライス身体訓練法」が分かったような気がしてきたので、この頃には、たまに稽古に取り入れたのですが、ほとんど理解されなかったようです。
その頃の印象的な出来事を書いておきます。1996年11月の奈良支部での講習会までOS先生は、正座をして技を掛けておられました。ところが、1997年1月の大阪での講習会の時には、片膝を立てた状態で座り技をされました。その事で私は、会陰を締める重要性に気づいたのです。
私のHPのコラム「吹奏楽部」(2004年2月)から引用します。
片膝を地面に着き、片膝を立てて座った状態で両踵を上げ、両脚を擦るようにして立ったり座ったりすることで、身体の中心軸が養成されます。そして、同じようにして座った状態で、少し仰向き加減で楽器を持ったままでストップモーションをするのも、軸を細くして不要な力を抜き、意識を大きく使うということの重要性を認識するのに効果的だと考えられます。さらに、その状態を保ったままで複式呼吸が出来るということは、すでにリラックス出来ているということでもあります。 下半身の体勢をしっかり決めて、複式呼吸をすることで、逆に骨盤や背骨そして首までもが、自然に調整されるのではないでしょうか。当然、楽器を吹く時に複式呼吸が大切であることは言うまでもありません。(引用終わり)詳しくは、こちらをご一読ください。
by centeringkokyu
| 2005-12-30 00:07
| 合気観照塾