2005年 12月 17日
道歌してる? Vol.2 |
◎脱力
むりにただ 力を頼む 人こそは
勝身にうとき 心なりけり (制剛流柔術)
忘れても 力いだすな いたずらに
敵の力ぞ 我が力なる (制剛流柔術)
脱力の事を、ただ全身の力を抜くだけだと捉えている人もいるようですが、いくら何でも、ぐにゃぐにゃでは、ただの酔っぱらいでしかありません。もっとも、中国では、酔拳という「お酒を飲んで、ぐでんぐでんになればなるほど強くなる」という、幻の拳法もあるとか。この場合も、虚実ははっきりしているようですし、ある意味では、相手を欺き、自分はリラックスする事が目的であるような気もします。
寧ろ、中心がないと脱力はできないのではないかと考えています。昔、学校の理科教材室にあったような骸骨も、頭のてっぺんからぶら下げていないと、ただの骨の寄せ集めにしかすぎなくなります。マリオネットや、文楽人形をイメージしたほうが分かりやすいかもしれません。どちらかというと、筋肉がない状態です。しかし、中心軸ははっきりと存在しないとだめなのです。
ウェイト・トレーニングなどをして、筋肉が強化されても、柔軟性がなく、伝達力が低下してしまっては、相手からの力や意識の情報も、受け取れなくなる恐れがあります。もちろん、体格が大きく、力の強い人が強いことも確かです。
道歌にあるように、自分の力だけに頼ることが、問題であり、いたずらに力を出さず、敵の力を利用するという事を、考えなければならないのです。
野口晴哉先生は、著書の中で、次のように述べておられます。「力を抜くということと、力が入らないということは区分すべきです。自分の体を自分の力で活かしているように思い込んでいるうちは、体の力をすっかり抜くことはできません。従って自分の中心の充実も得られません。余分に気張らないで生活するには、自然に生きている自分を信ずることが大切です。それが自分の中心を充たす唯一の道です。」
ここでは、自分の中心の充実という表現をしておられますが、道歌にも、次のように詠まれています。
捕られては 水に浮木の 身を持てよ
風にまかせつ 浪にまかせつ (楊心流)
これは、自分の中心を充実させつつ、様々な状況の変化に、身を任せることも大切だということなのでしょう。翻弄されるのではなく、任せているという認識が、余裕になり、臨機応変な対応ができる状況をつくる事を、可能にするのだと考えられます。
関東の人は、関西人は何をするか分からないので、不安がっているというような話を聞いた記憶があります。
一説によりますと、江戸時代以来、関東は武家社会で、「長いものには巻かれろ」ということが常識化している。一方、関西では、「一応、長いものには巻かれといたるけど、そのうち、どないかしたる。」という精神が浸透している。だからこそ、関東人からみると、関西人は不気味だという事になるのかもしれません。
やはらかに 敵のなす手に 任せつつ
後に勝こそ 陰中の陽 (制剛流柔術)
◎非切り
ひぎりとは けいこ修行を 能つとめ
非を知るときぞ 非切りなりけり(直心影流)
己が非を 知らでは人の 非は見えじ
人より先に 己が非を知れ (一刀流兵法 溝口派)
何かを習得する為には、よく稽古を積み重ね、その過程で、まず自分の欠点や、苦手なところを認識しなければなりません。逆に考えると、認識できていないところや、無意識にやってしまっているところを、探すのが稽古であると、言えないこともないのです。
武術やビジネスなどで考えると、敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。ということなのでしょうが、相手を攻略する為には、相手の弱点を攻めるのが鉄則です。
我身をば 水と思ひて 敵に非の
ある所にて もれ入れて勝て(定善流)
ここにも詠まれているように、我が身を水と思い、敵の弱点に漏れ入れる事が大切なのですが、実際には、自分の身体や思考方法を、水のような柔軟性のある状態にしておくことこそが至難の業なのではないでしょうか。その方法として、先に述べたところの、自分の中心を充実させつつ脱力する必要が出てくるのだと考えられます。
さらに、自分の身体を、常に勢いのある状態に保つ稽古を重ねていれば、ごく自然に対応しているだけで、相手の力や意識が、自分に影響を与える前に止まってしまう事もあり得るのです。
身のかねの 位をふかく 習ふべし
とめねどとまる 事のふしぎぞ (一刀流兵法 忠也派)
位よく 道を正しく つとむれば
とめねどとまる これ常の道 (楊心流)
結局は、自分の欠点を見直し、姿勢を正し、常に臨機応変に対応できるような日常生活を送るための稽古をしなければならないという事なのだと思います。
そして、自分の姿勢をチェックするためには、まず中心軸を真っ直ぐにして、ゆっくりお腹と命門を、同時にふくらませるように息を吸い込み、次に、お腹を凹ませながらさらに胸に吸い込みます。限界まで吸い込んだ状態を保ちながら、中心軸を再チェックし、現状では正しいと感じられる中心軸を保ちながら、腹筋をゆるめてから、息を吐き始め、吐ききった時に、息を止めたままで腹筋をゆるめ、それから再び中心軸をチェックして、息を吸い始めるというような、呼吸によるセンタリングが有効ではないかと考えています。試しに、前後左右に中心軸をずらした状態で、同じように呼吸してみると、違いがよく分かるかもしれません。
さらに、周りに大きく意識を広げるためには、動作と呼吸と意識と視線の一致を稽古する必要があるのではないでしょうか。すべてが一致してこそ、大きな力にもなりますし、次の段階として、すべてをバラバラに使う事も可能になると思われます。
目と心 足手のわざの そろいなば
敵に勝たずと 云うことぞなき (竹内流)
左右 後も前も 一致して
天地同根 万物一空 (直心正統一流)
#管理人です
「道歌してる? Vol.3」は2005年6月5日に掲載しました。Vol.1&2は、配付資料にもありますが、少し古いものです。少々変わったところは有りますが、基本的な考え方は変わっていませんので、ご紹介した次第です。
むりにただ 力を頼む 人こそは
勝身にうとき 心なりけり (制剛流柔術)
忘れても 力いだすな いたずらに
敵の力ぞ 我が力なる (制剛流柔術)
脱力の事を、ただ全身の力を抜くだけだと捉えている人もいるようですが、いくら何でも、ぐにゃぐにゃでは、ただの酔っぱらいでしかありません。もっとも、中国では、酔拳という「お酒を飲んで、ぐでんぐでんになればなるほど強くなる」という、幻の拳法もあるとか。この場合も、虚実ははっきりしているようですし、ある意味では、相手を欺き、自分はリラックスする事が目的であるような気もします。
寧ろ、中心がないと脱力はできないのではないかと考えています。昔、学校の理科教材室にあったような骸骨も、頭のてっぺんからぶら下げていないと、ただの骨の寄せ集めにしかすぎなくなります。マリオネットや、文楽人形をイメージしたほうが分かりやすいかもしれません。どちらかというと、筋肉がない状態です。しかし、中心軸ははっきりと存在しないとだめなのです。
ウェイト・トレーニングなどをして、筋肉が強化されても、柔軟性がなく、伝達力が低下してしまっては、相手からの力や意識の情報も、受け取れなくなる恐れがあります。もちろん、体格が大きく、力の強い人が強いことも確かです。
道歌にあるように、自分の力だけに頼ることが、問題であり、いたずらに力を出さず、敵の力を利用するという事を、考えなければならないのです。
野口晴哉先生は、著書の中で、次のように述べておられます。「力を抜くということと、力が入らないということは区分すべきです。自分の体を自分の力で活かしているように思い込んでいるうちは、体の力をすっかり抜くことはできません。従って自分の中心の充実も得られません。余分に気張らないで生活するには、自然に生きている自分を信ずることが大切です。それが自分の中心を充たす唯一の道です。」
ここでは、自分の中心の充実という表現をしておられますが、道歌にも、次のように詠まれています。
捕られては 水に浮木の 身を持てよ
風にまかせつ 浪にまかせつ (楊心流)
これは、自分の中心を充実させつつ、様々な状況の変化に、身を任せることも大切だということなのでしょう。翻弄されるのではなく、任せているという認識が、余裕になり、臨機応変な対応ができる状況をつくる事を、可能にするのだと考えられます。
関東の人は、関西人は何をするか分からないので、不安がっているというような話を聞いた記憶があります。
一説によりますと、江戸時代以来、関東は武家社会で、「長いものには巻かれろ」ということが常識化している。一方、関西では、「一応、長いものには巻かれといたるけど、そのうち、どないかしたる。」という精神が浸透している。だからこそ、関東人からみると、関西人は不気味だという事になるのかもしれません。
やはらかに 敵のなす手に 任せつつ
後に勝こそ 陰中の陽 (制剛流柔術)
◎非切り
ひぎりとは けいこ修行を 能つとめ
非を知るときぞ 非切りなりけり(直心影流)
己が非を 知らでは人の 非は見えじ
人より先に 己が非を知れ (一刀流兵法 溝口派)
何かを習得する為には、よく稽古を積み重ね、その過程で、まず自分の欠点や、苦手なところを認識しなければなりません。逆に考えると、認識できていないところや、無意識にやってしまっているところを、探すのが稽古であると、言えないこともないのです。
武術やビジネスなどで考えると、敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。ということなのでしょうが、相手を攻略する為には、相手の弱点を攻めるのが鉄則です。
我身をば 水と思ひて 敵に非の
ある所にて もれ入れて勝て(定善流)
ここにも詠まれているように、我が身を水と思い、敵の弱点に漏れ入れる事が大切なのですが、実際には、自分の身体や思考方法を、水のような柔軟性のある状態にしておくことこそが至難の業なのではないでしょうか。その方法として、先に述べたところの、自分の中心を充実させつつ脱力する必要が出てくるのだと考えられます。
さらに、自分の身体を、常に勢いのある状態に保つ稽古を重ねていれば、ごく自然に対応しているだけで、相手の力や意識が、自分に影響を与える前に止まってしまう事もあり得るのです。
身のかねの 位をふかく 習ふべし
とめねどとまる 事のふしぎぞ (一刀流兵法 忠也派)
位よく 道を正しく つとむれば
とめねどとまる これ常の道 (楊心流)
結局は、自分の欠点を見直し、姿勢を正し、常に臨機応変に対応できるような日常生活を送るための稽古をしなければならないという事なのだと思います。
そして、自分の姿勢をチェックするためには、まず中心軸を真っ直ぐにして、ゆっくりお腹と命門を、同時にふくらませるように息を吸い込み、次に、お腹を凹ませながらさらに胸に吸い込みます。限界まで吸い込んだ状態を保ちながら、中心軸を再チェックし、現状では正しいと感じられる中心軸を保ちながら、腹筋をゆるめてから、息を吐き始め、吐ききった時に、息を止めたままで腹筋をゆるめ、それから再び中心軸をチェックして、息を吸い始めるというような、呼吸によるセンタリングが有効ではないかと考えています。試しに、前後左右に中心軸をずらした状態で、同じように呼吸してみると、違いがよく分かるかもしれません。
さらに、周りに大きく意識を広げるためには、動作と呼吸と意識と視線の一致を稽古する必要があるのではないでしょうか。すべてが一致してこそ、大きな力にもなりますし、次の段階として、すべてをバラバラに使う事も可能になると思われます。
目と心 足手のわざの そろいなば
敵に勝たずと 云うことぞなき (竹内流)
左右 後も前も 一致して
天地同根 万物一空 (直心正統一流)
#管理人です
「道歌してる? Vol.3」は2005年6月5日に掲載しました。Vol.1&2は、配付資料にもありますが、少し古いものです。少々変わったところは有りますが、基本的な考え方は変わっていませんので、ご紹介した次第です。
by centeringkokyu
| 2005-12-17 00:02
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