2005年 12月 16日
道歌してる? Vol.1 |
古武道の伝書には、数多くの道歌が残されています。しかし、その流派の武道を習っていない者が、その道歌の深い意味を理解することは不可能です。さらに、もしも習っていたとしても、その理解の仕方が正しいかどうか、なかなか判断は難しいものです。にもかかわらず、これから厚かましくも、道歌に関して思いついたままを書き綴ってみます。こんな事を思いついたのも「どうかしてる!」としか言いようがありませんが、どうかお付き合い下さい。
◎基本
ふしぎなる 極意ばかりを 尋ねつつ
表にあるを 知らぬはかなさ (制剛流)
まず最初に、この道歌を選んでみました。この道歌の中の、表というのは、表の型のことだと思います。極意は、初伝の表の型の中に全て含まれていると教えられます。しかし、型を必死で覚え始めたころの初心者は、何が極意で、何が極意でないのか分かるはずがないのです。ですから、基本の技だけを何年か続けて教えられても、大抵は飽きてしまうか、その型の中に含まれている意味を、身体で理解しようとしなくなるようです。それを意味飽和(身体にそれ以上染み込まない状態のことでしょうか)というような表現をしていた人がいました。
同じ動作を、何も考えずに、ただただ機械的に続けても、伝達系の新しい回路は開かれません。一回一回の動作を、吟味しながら、今までとは違うやり方を探してみることが必要です。身体全体を統合して、力を生み出すやり方と、その力を出来る限り途中での消耗を少なくして伝えられる状態を、自分の中に探し、創り出さなければならないのです。
その回路がある程度できてくれば、相手から見ればきっと不思議な現象に見えるのでしょう。少なくとも、相手と同じ程度の身体や意識の使い方をしていても、相手はちっとも不思議だとは、思ってくれないのです。少しは自分より鍛えているようだとしか思えないはずです。
勿論、出来るのを見せないようにする段階と、出来ないのは似て非なるものです。
ということは、自分が不思議にしか見えない状態では、まだまだ初心者でしかないと言えます。ですから、不思議なる極意を尋ね続けているうちは、何時までたっても、どこに行っても初心者のままなのです。ある程度にはできる先輩の使った技が、不思議ではなくなったところからが、本当の意味での入門を果たした状態といえるのではないでしょうか。ただし、それを体現出来るかどうかは、まだ別の問題です。
現代人の学習方法は、一つの問いに一つの答え、それを沢山早く覚えた方が、試験に勝てる。答えがいっぱいあったり、答えようのない問題を、試験には出しようがないのだから、そんなことを勉強する必要はない。そのような考え方が、合理的だと考えられているのではないでしょうか。
また、武道をさも科学的であるかのような説明をする人があります。しかし、科学的真理はどこまで行っても、概ね正しい状態でしかないのではないでしょうか。人体だけを考えてみても、液体なのか、固体なのか。自由に動くのか、動かない部位もあるのか。左右対称なのか、左右の重さも同じなのか違うのか。さらに、個体差もあります。その前提条件が異なると、その仮説は正確には成り立たないと思います。当然、自然現象と共通の現象も数多くあります。しかし、自然現象がすべて科学的に証明されているのでしょうか。
上達するためには、先生やできると思われる先輩から懸けられた技を、自分自身で再現する方法を見つけだす以外にはないのです。他人がする説明は、その一部分でしか有りませんし、全く見当外れかもしれません。もっとも、少し上達した時点からみると、少々問題のある理論であっても、未熟な現時点ではとりあえず取り入れておくべき理論であることもあります。
極意ということばが、ある意味で妄想であることに気づくまでは、動作の意味を吟味できなくなる状態にならないように、自分自信の稽古を積み重ねることが大切です。
いったい何時になったら、「基本の中に、全てが含まれています」とごく自然に後輩に言えるように成るのでしょうかね。
極意とて 別にはなきぞ 常によく
所作をからして 理を吟味せよ (和新心流居合)
◎極意
極意とは 書物の外に あるものを
心に問ふて 業に知らせよ (関口流柔術)
われとわが 心に伝ふ 鍛錬に
妙も不思議も あるとしるべし (制剛流)
これらの道歌によりますと、どうも極意のようなものは存在するもののようです。しかし、書物には書かれていない、即ち不立文字のようですし、妙も不思議もあるのだとも詠まれています。辞書によりますと、極意とは、「学問や技芸で、核心となる事柄。奥義。」、妙については、「なみはずれてすばらしいこと。また、そのさま。」あるいは、「不思議なこと。また、そのさま。」と説明されています。不思議については、「どう考えても原因や理由がわからないこと。」ということです。
極意や妙を探求するのは、どうも筍や玉葱の皮をむくような作業が必要なようです。そして、自分が無意識に重ねてきた癖を、一枚一枚剥ぎ取っていくしかないようです。その過程としては、自分自身のセルフ(本来の自己、エゴではない)に尋ねて、業でチェックしていく他はないのでしょう。そのモニター役を稽古相手が務めてくれる訳です。
五ツある くせをばひとつ 直しつつ
あとの四ツをば しだいしだいに (竹内流)
しかし、実際は自分の癖を自覚できていないところから稽古を始めるのですから、自分の癖にどうすれば気づけるのかが、大きな問題になってきます。その事にすら、なかなか気づけないので、次にあげる道歌が生まれたのだと思います。
師につきて 年久しくと 言うとても
まへの稽古の 仕様にぞよる (竹内流)
私の場合は、自分の動きの癖をチェックする手段として、フェルデンクライス身体訓練法を使っています。出来る限り、少ない刺激と運動量でしか、微妙な自分の身体の変化に気づくことはできません。意識と動作と呼吸を一致させた、身体全体を統合した動きを完成する為には、いわゆる数稽古やウエイト・トレーニングのような強い刺激だけを続けても、だめなのではないでしょうか。そして、身体の動きが変化するにつれて、ものの見方や考え方まで、少しずつ変化していく可能性があるようです。フェルデンクライスは、一般には変化しないといわれている、パーソナリティーすら変わることもあり得ると述べています。
確かに、フェルデンクライスは、一つの動作を25回くらい、繰り返してするように指導をされています。しかし、この場合は、回数が重要なのではなく、一回一回の動きを初めてするつもりですること。少しだけ筋肉を緊張させるのは、その次に、リラックスするためだということを、意識することが大切なのです。呼吸が乱れない程度に動作をやり終えたあと、ヨガでいうところの屍のポーズになり、休憩しながら、身体と床の接点との状態の変化を、しっかりと確認する為のシステムになっているのだと思われます。ヨガにおいても、途中の複雑なポーズが目的ではなく、ポーズをして、緊張と弛緩を繰り返し、リラックスする。そのあとで、屍のポーズで休息をとりながら、チェックしていくシステムなのではないでしょうか。
所作を問ひ 心に答え ひとり行く
道を知らずば 妙は有るまじ (宝蔵院流)
続きは、前のページにあります。
◎基本
ふしぎなる 極意ばかりを 尋ねつつ
表にあるを 知らぬはかなさ (制剛流)
まず最初に、この道歌を選んでみました。この道歌の中の、表というのは、表の型のことだと思います。極意は、初伝の表の型の中に全て含まれていると教えられます。しかし、型を必死で覚え始めたころの初心者は、何が極意で、何が極意でないのか分かるはずがないのです。ですから、基本の技だけを何年か続けて教えられても、大抵は飽きてしまうか、その型の中に含まれている意味を、身体で理解しようとしなくなるようです。それを意味飽和(身体にそれ以上染み込まない状態のことでしょうか)というような表現をしていた人がいました。
同じ動作を、何も考えずに、ただただ機械的に続けても、伝達系の新しい回路は開かれません。一回一回の動作を、吟味しながら、今までとは違うやり方を探してみることが必要です。身体全体を統合して、力を生み出すやり方と、その力を出来る限り途中での消耗を少なくして伝えられる状態を、自分の中に探し、創り出さなければならないのです。
その回路がある程度できてくれば、相手から見ればきっと不思議な現象に見えるのでしょう。少なくとも、相手と同じ程度の身体や意識の使い方をしていても、相手はちっとも不思議だとは、思ってくれないのです。少しは自分より鍛えているようだとしか思えないはずです。
勿論、出来るのを見せないようにする段階と、出来ないのは似て非なるものです。
ということは、自分が不思議にしか見えない状態では、まだまだ初心者でしかないと言えます。ですから、不思議なる極意を尋ね続けているうちは、何時までたっても、どこに行っても初心者のままなのです。ある程度にはできる先輩の使った技が、不思議ではなくなったところからが、本当の意味での入門を果たした状態といえるのではないでしょうか。ただし、それを体現出来るかどうかは、まだ別の問題です。
現代人の学習方法は、一つの問いに一つの答え、それを沢山早く覚えた方が、試験に勝てる。答えがいっぱいあったり、答えようのない問題を、試験には出しようがないのだから、そんなことを勉強する必要はない。そのような考え方が、合理的だと考えられているのではないでしょうか。
また、武道をさも科学的であるかのような説明をする人があります。しかし、科学的真理はどこまで行っても、概ね正しい状態でしかないのではないでしょうか。人体だけを考えてみても、液体なのか、固体なのか。自由に動くのか、動かない部位もあるのか。左右対称なのか、左右の重さも同じなのか違うのか。さらに、個体差もあります。その前提条件が異なると、その仮説は正確には成り立たないと思います。当然、自然現象と共通の現象も数多くあります。しかし、自然現象がすべて科学的に証明されているのでしょうか。
上達するためには、先生やできると思われる先輩から懸けられた技を、自分自身で再現する方法を見つけだす以外にはないのです。他人がする説明は、その一部分でしか有りませんし、全く見当外れかもしれません。もっとも、少し上達した時点からみると、少々問題のある理論であっても、未熟な現時点ではとりあえず取り入れておくべき理論であることもあります。
極意ということばが、ある意味で妄想であることに気づくまでは、動作の意味を吟味できなくなる状態にならないように、自分自信の稽古を積み重ねることが大切です。
いったい何時になったら、「基本の中に、全てが含まれています」とごく自然に後輩に言えるように成るのでしょうかね。
極意とて 別にはなきぞ 常によく
所作をからして 理を吟味せよ (和新心流居合)
◎極意
極意とは 書物の外に あるものを
心に問ふて 業に知らせよ (関口流柔術)
われとわが 心に伝ふ 鍛錬に
妙も不思議も あるとしるべし (制剛流)
これらの道歌によりますと、どうも極意のようなものは存在するもののようです。しかし、書物には書かれていない、即ち不立文字のようですし、妙も不思議もあるのだとも詠まれています。辞書によりますと、極意とは、「学問や技芸で、核心となる事柄。奥義。」、妙については、「なみはずれてすばらしいこと。また、そのさま。」あるいは、「不思議なこと。また、そのさま。」と説明されています。不思議については、「どう考えても原因や理由がわからないこと。」ということです。
極意や妙を探求するのは、どうも筍や玉葱の皮をむくような作業が必要なようです。そして、自分が無意識に重ねてきた癖を、一枚一枚剥ぎ取っていくしかないようです。その過程としては、自分自身のセルフ(本来の自己、エゴではない)に尋ねて、業でチェックしていく他はないのでしょう。そのモニター役を稽古相手が務めてくれる訳です。
五ツある くせをばひとつ 直しつつ
あとの四ツをば しだいしだいに (竹内流)
しかし、実際は自分の癖を自覚できていないところから稽古を始めるのですから、自分の癖にどうすれば気づけるのかが、大きな問題になってきます。その事にすら、なかなか気づけないので、次にあげる道歌が生まれたのだと思います。
師につきて 年久しくと 言うとても
まへの稽古の 仕様にぞよる (竹内流)
私の場合は、自分の動きの癖をチェックする手段として、フェルデンクライス身体訓練法を使っています。出来る限り、少ない刺激と運動量でしか、微妙な自分の身体の変化に気づくことはできません。意識と動作と呼吸を一致させた、身体全体を統合した動きを完成する為には、いわゆる数稽古やウエイト・トレーニングのような強い刺激だけを続けても、だめなのではないでしょうか。そして、身体の動きが変化するにつれて、ものの見方や考え方まで、少しずつ変化していく可能性があるようです。フェルデンクライスは、一般には変化しないといわれている、パーソナリティーすら変わることもあり得ると述べています。
確かに、フェルデンクライスは、一つの動作を25回くらい、繰り返してするように指導をされています。しかし、この場合は、回数が重要なのではなく、一回一回の動きを初めてするつもりですること。少しだけ筋肉を緊張させるのは、その次に、リラックスするためだということを、意識することが大切なのです。呼吸が乱れない程度に動作をやり終えたあと、ヨガでいうところの屍のポーズになり、休憩しながら、身体と床の接点との状態の変化を、しっかりと確認する為のシステムになっているのだと思われます。ヨガにおいても、途中の複雑なポーズが目的ではなく、ポーズをして、緊張と弛緩を繰り返し、リラックスする。そのあとで、屍のポーズで休息をとりながら、チェックしていくシステムなのではないでしょうか。
所作を問ひ 心に答え ひとり行く
道を知らずば 妙は有るまじ (宝蔵院流)
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by centeringkokyu
| 2005-12-16 00:13
| 合気観照塾