病気として治療しても治らない |
神経質の症状は主観的なもの
さて、山野井君は自分がすっかり治っただけでなく、多くの神経質患者を治してやることができたということであります。
私のところでほんとうに治った人は、山野井君のように他の神経質症状に苦しんでいる人を指導することができます。
それにつけても、私がいつも残念に思っていることは、一般の医者が神経質症の本態を知ってくれないことです。
神経質症は、治った人はみなよくわかるとおり、じつは病気ではないのです。
神経が衰弱しているわけでもありません。
それは主観的のものであり、精神的のものであります。
それで神経質症状の体験のある人には、その真髄がわかりますけれども、体験のない者には医者であっても容易にその本態がわからないのであります。
外科的な疾患や伝染病などは物質的であり客観的であるからわかりやすいけれども、主観的、精神的なものはわかりにくいということはいえます。
しかしながら、細菌を顕微鏡でしらベるのと同じような骨折りで、推理、判断を働かせることにによって体験はなくとも知ることができるのであります。
環境に適応する生活
ここで治った患者のよくいうことに、「自分の不眠や赤面恐怖の治ったことはうれしいが、それよりもさらにありがたいことは日常生活に能率が上がるようになり、人生観が変ったことだ」ということがあります。
しかしそれは正しくいえぱ、「人生観が変ったから神経質症が治った」のであります。
それはたとえば、「息切れや心悸充進の治ったのはうれしいが、それよりもありがかたいことは体重が増し、仕事をしても疲れないようになったことだ」というのと同様であります。
息切れの治ったのは、健康になったことと同一のことであります。
それと同じように、日常生活にたいする適応性が出来てきたことが、とりもなおさず神経質症の全治したゆえんであって、その二つは別々のことではないということを知らなければなりません。
調和と不調和
佐藤君のいった「調和」ということについて説明します。
佐藤君はいま、家にいたときは頭が痛かったが、電車に乗って気持がよくなったのを「調和」といわれました。
しかし、今日の佐藤君の場合は熱がなかったからよいけれども、もし流感か何かにかかってそのために頭痛がするのであれば、寝ていると「調和」がとれて苦しさがか少なく、外に出ると「不調和」になり、頭痛ははげしくなるのであります。
つまり「調和」というものは、自分の身体の状況、周囲の環境、活動の状態の関係の間にあるのであって、何でも活動し、外気に当たればよいというわけではありません。
神経質者にはよく、身体の熱惑を訴える人があります。
検温してみると平熱です。
それは単に、神経性に違和の感がある、というまでのことであります。
こんなときには外に出て活動することによつて調和が得られるけれども、患者は病気を恐れるために、家の中に閉じこもり、安静にしていて、まずまず「不調和」になるのであります。
一方、肺尖カタルなどで微熱がある場合には、安静にしなければならないのであります。
〆管理人です
神経症に関して、実際に森田療法を受けた方と著者との受け答えが書かれています。
その体験談を読んでいると、神経症かそうでないかの境界がいかに曖昧であるかを感じました。
六十年以上前に出版された本ですが、現代医学にも通じる示唆が多く含まれているように感じました。
あとがきには、「通俗雑誌や新聞広告などでは、この神経衰弱の恐るべきことや、いろいろのまちがった療法が、ずい分立派な博士たちからも宣伝され、神経質の患者をそそのかしている。
しかしせんじつめればこれはじつは病気ではないから、これを病気として治療してもけっして治らない。ただこれを健康者として取り扱えば、容易に治るのである」とも書かれていました。
参照1:病気になるための広告利用法
参照2:薬を売るために病気はつくられる?
参照3:経験から多くを学ぶ
参照4:短気になっていると感じたら・・
☆リンク先で更新された記事
◆山で転倒して頸が回らない
手を挙げた時の頸の位置や肘の位置を変える事や呼吸と身体の重さを使って力を抜いていく運動処方を行いました。
生徒さんは、今日はこんな事出来ると思ってなかったと何回も驚きながら仰っていました。
医者は、悪い所は教えてくれるけど、どうしたら良いか教えてくれないと怒っておられたのも印象的でした。
◆「あ、胃の痛みが7割減(^^)v、ありがとう」
「胃よりも小腸が気になるよ」と言うと「昨晩はお腹のほうが痛かったからかなぁ?」と言う事です。
リーディングが終わったので「今あるモード」になりながら妻とお喋りをしていると「あ、胃の痛みが7割減(^^)v、ありがとう」 と言う事です。
エネルギー療法の力か、愛の力か分かりませんが効果はあったようで良かったです。