静止した光 |
序論
知識に対する欲求が人間の心の中で最初に惹き起こされるのは、彼の注意を引く顕著な現象を知覚することによってである。
ところで、この欲求が持続的なものとなるためにはいっそう深い関心が生じなければならず、これによってわれわれはしだいに種々の対象を知悉(ちしつ)するようになる。
そのとき初めてわれわれは、群をなして押し寄せてくるものの大きな多様性に気がつく。
そこでわれわれは分離し、区別し、再び集成することを余儀なくされるのであるが、それによって最終的に、多少の満足をもって見渡されうるような一つの秩序が成立する。
これを何かある専門分野においてある程度まで達成するためだけでも、しんぼう強い厳密な研究が必要である。
だからこそ人間は、むしろ一般的な理論的見解や何かある説明の仕方で現象を片づけてしまい、個をよく見きわめ全体を構築しようとする労を惜しむのである。
(中略)
もし眼が太陽のようでなかったら、
どうしてわれわれは光を見ることができるだろうか。
もしわれわれの内部に神みずからの力が宿っていなければ、
どうして神的なものがわれわれを歓喜させることができるだろうか。
光と眼のかの直接的な親近関係を否定する者はいないだろう。
しかし両者を同時に同一のものとして考えることは、ずっと困難である。
とはいえ、次のように主張すればわかりやすくなるであろう。
すなわち、眼の中には静止した光が潜在していて、内部あるいは外部からのほんのちょっとした刺激がきっかけで誘発されるのである。
われわれは暗闇の中で、想像力の要請によって著しく明るい像を呼び起こすことができる。
われわれの夢の中でいろいろな対象は白日の下におけるように現れてくる。
目ざめている状態においては、われわれはほんのかすかな外光の作用にさえ気づくことができる。
そればかりでなく、視覚器官が機械的な衝撃を受けただけで、光と色彩が飛び出してくる。
三八
黒地の上の灰色の像は、白地の上の同じ像よりはるかに明るく見える。
両方の場合を並置してみると、二つの像がまったく同じ色であるとは信じられないほどである。
われわれがここで再び認めうるように思われるのは、網膜の著しい活動性と、あらゆる生物に何かある特定の状態が提供されたとき、それらが表出を迫られている無言の対立である。
そこで呼吸においては呼気と吸気が、心臓の脈動においては収縮と弛緩が互いに他を前提にしているのである。
それは生命の永遠の公式であり、ここにも表わされているのである。
眼に暗いものが提供されると、それは明るいものを要求する。
眼に向かって明るいものがもたらされると、それは暗いものを要求する。
そうすることによって眼はその活発さ、対象を捉えようとするその権利を如実に示し、対象と対立しているあるものを自分自身の内部から生み出すのである。
五九
要求された色彩は、それらが存在していないところでは、要求している色彩とならんで、またその色彩のあとに容易に現われるのであるが、それらがすでに存在しているところでは高められる。
灰色の石灰岩で舗装され、舗石のあいだから草が生い茂っていたある中庭でのことである。
タ焼雲が赤味がかった微光を舗石の上に投げかけたとき、草の緑は限りなく美しく見えた。
逆の場合、ほどよく晴れた空のもとで牧場を散歩し、一面緑しか目にしない人は、しばしば、樹木の幹や道路が赤味を帯びて光り輝くのを見る。
風景画家、特に水彩画家のもとでこの色調がしばしば見出される。
おそらく彼らはそれを自然の中で見かけ、無意識のうちにそれを模倣するのであるが、彼らの作品は不自然であると非難されてしまう。
七五
ある冬のハールツ旅行のおりに、私は夕方、プロッケン山から降りてきた。
広い斜面は上も下も雪に閉ざされ、荒野は雪におおわれ、点在する木々と突き出た岩角はもちろん、 すべての樹林と岩石には電想が降りていて、太陽はいましもオーデルタイヒェのほうへ沈んでいくところであった。
日中、雪の色調が黄色味がかっていたときすでに淡い菫(すみれ)色の陰影が見えたが、夕陽を浴びた部分から赤味を増した黄色が反照してきたとき、陰影はいまや青紫色といわざるをえなかった。
しかし、ついに日没のときが近づき、濃い靄(もや)によってかなり弱められた太陽の光芒が私の周囲の世界をえもいわれぬ美しい深紅色でおおったとき、陰影の色はさっと緑色に変わ った。
その明澄さは海水の淡緑色に、その美しさはエメラルドと比較して遜色のないものであった。
その現象は刻一刻と精彩を帯び、妖精の世界にいる心地がした。
というのは、すべてのものが生気あるきわめて美しい二つの調和する色で彩られ、やがて日没とともに、この華麗な現象は灰色の薄闇となり、しだいに月と星の輝く夜の中に消えていったからである。
七八
潜水夫が海にもぐって、日の光が潜水鐘の中へ射し込んでくると、彼らの周囲の照らされたものはすべて深紅色である。
これに対して陰影は緑色に見える。
私が高い山の上で体験したのとまったく同一の現象を彼らは深い海の中で認めるのであるが、自然はこのように徹底的に自分自身と一致しているのである。
〆管理人です。
作家として有名なゲーテが自身の研究成果についてまとめた本です。
「色彩」について多方面に渡って緻密な実験や観察を積み重ね、自分の眼を通して見たものを考察されています。
それが正しいかどうかは知りませんが、ゲーテの感覚に対する表現に興味深い記述が多くありました。
参照1:昔から書いてあるやろ
参照2:自らが動いて光の方向を変えてみる
参照3:自分に見えるものをありのまま信用する
☆リンク先で更新された記事
◆「2か月くらい前から膝が痛くて我慢できません、夜も眠れません・・・続」