2005年 08月 18日
現代医学のウイークポイント |
「生体の歪みを正す」橋本敬三 論想集から抜粋します。
昭和四十五年(1970年)末に、南山堂「治療」誌に「微症状−現代医学の謎」を書きました。われわれが、昔、アカデミーで受けた教育は、『疾病が発生したから微症状・不定愁訴が出るのだ』ということでした。事実は、その逆なのです。東洋医学は、末病という不定愁訴発生期を認めているのですが、現代医学は、それを知らないのです。だから、未病の治し方を今でも知らないでいます。東洋医学ではこの処理法として、他力的な、物理的・化学的方法を知っていました。しかし、他力を用いず、自力運動で回復させる方法の記録のあることを、私は知りません。私が体験したのは患者自身の自力運動での、可逆性を応用して、回復すなわち医療を成功させる、ということです。ですから、医師は医療者ではなく、医療者は患者自身であり、医師は治療の指導者、コンサルタントの場に立つだけ、ということです。この可逆現象はあくまで天然原理の法則性にある、ということです。(中略)
生命エネルギーのインプットは、外からの吸気と飲食により、アウトプットは、身体運動と精神活動のたすけによってなされます。生命現象は、天然および人為の環境内において許された、或る範囲のバランスの中において営まれるわけですから、呼吸、飲食、身体運動、精神活動と環境とは、同時相関し、相補になっており、しかも連動性になっており、その環鎖を遮断・切断した場合には、成り立たないことになるのです。
連鎖の一部に、遮断とまでに至らなくとも、障害を生じた場合にも、生命現象のアンバランスが生ずることは、自明の理です。このアンバランスが生体のどこに初発するか、ということが問題なのですが、現代医学はそこを突いていません。
東洋医学は明らかに、基礎構造、すなわち運動器系統に初発すると見ています。ですから明らかに、疾病状態と認める以前に、未だ病の成立せざる「末病」という時期を認識しており、「上工は未病を治す」(工は医師の意)という表現をしています。
医学者、医療者と称する医師よりも、患者自身が異常感をキャッチするのです。自覚していない場合もまれにはありますが、たいていは、自覚するからこそ不安を感じて受診するのです。そこで、生体のアンバランスが内よりも外にある基礎構造、すなわち運動器系に初発するということを教えられていない現代医師が、内部に何か異変があるからこそそのような異状を自覚するのではないかと、検査に熱中するのは無理のないことなのです。しかし、その結果、原因を発見できないことのあることもまた当然のことでしょう。まだ機質異変を見つけたときには、それが原因だと誤解することにもなります。もちろん異常感覚、機能障害、器質異常は、時期により併存します。ここが、現代医学・医療のウィークポイントであり、混乱の原因になっているのです。
上医不在
健康が崩れて疾病に傾斜するプロセスは、人体の基礎構造が歪むことから始まるのである。人体を「動く建物」と理解すれば、歪みが構造にも運動にも発現していることがわかるはずである。この構造運動力学の自然法則があまりにも簡単素朴なので、高踏自信満々の医学者諸彦には馬鹿気て見えるらしい。
このプロセスは可逆性になっているから、回復も増進も可能なのである。だだし、歪みが何故に生ずるかは生活の自然法則背反によるのである。必須最小限の生活の営みをしぼれば、呼吸、飲食、身体運動、精神活動の四つとなり、自らの意識により自制可能なるがゆえに、この営みには自己責任がある。しかもこれらの営みと環境自体とは同時相関性になっているのだから、少なくも五つの条件の自然の在り方を知らなければならない。知ってバランス・コントロールすることにより、環境に適応させることが健康を創造することになるのである。
自然界に生まれたものは適応性を付与されているのであるが、人間だけが反則によってこれを狂わせ適応し得ないでいる。営みの反則により人体に=まず歪みができ=その進行にしたがって第一に感覚異常を来たし、さらに進んで機能障害を招き、最後に器質破綻に至る。ここに至ってはじめて現代医学は病名診断をくだす。
近年は機能障害の精密検査は進歩しているが、最初の歪み発現の診療法をしらないから、感覚異常だけを訴える段階の患者に対してはお手上げであり、東洋医学の言う上工(上医)は現代医学界にはいないということである。
※管理人です
以前、脳梗塞で半身不随になられた人が、お医者様に「なんかフラフラします。」と言って処方して貰った薬を飲むと、いっそうフラフラしたので、薬を止めるとましになったという事がありました。患者さんは、身体のバランスが上手く取れないので、フラフラすると言ったようですが、お医者様は脳の機能的な傷害だと診断されたのではないでしょうか。
数値的には少しリュウマチ傾向があるのですが、症状としてはそれほど出ていない人が、暫く薬を止めたら、痛みもなくなり体調が良くなった。そのことをお医者様に言うと、「薬を飲まないなら、どうなっても知りませんよ!」と脅され、薬を飲み続けて、どんどん体調が悪くなり、精神的にも落ち込んでいった。そのお医者様は、某公立大学病院の内科部長でした。さらに、お盆時期の、内科部長ご本人も病院を休む時期に、入院させられた事もありました。真面目な患者さんほど酷い目に遭う可能性が高くなるのかもしれません。
西洋医学的な診断、そして病名による治療というのにも限界があるということを、患者さん自身も、もうすこし考える必要があるのではないでしょうか。
昭和四十五年(1970年)末に、南山堂「治療」誌に「微症状−現代医学の謎」を書きました。われわれが、昔、アカデミーで受けた教育は、『疾病が発生したから微症状・不定愁訴が出るのだ』ということでした。事実は、その逆なのです。東洋医学は、末病という不定愁訴発生期を認めているのですが、現代医学は、それを知らないのです。だから、未病の治し方を今でも知らないでいます。東洋医学ではこの処理法として、他力的な、物理的・化学的方法を知っていました。しかし、他力を用いず、自力運動で回復させる方法の記録のあることを、私は知りません。私が体験したのは患者自身の自力運動での、可逆性を応用して、回復すなわち医療を成功させる、ということです。ですから、医師は医療者ではなく、医療者は患者自身であり、医師は治療の指導者、コンサルタントの場に立つだけ、ということです。この可逆現象はあくまで天然原理の法則性にある、ということです。(中略)
生命エネルギーのインプットは、外からの吸気と飲食により、アウトプットは、身体運動と精神活動のたすけによってなされます。生命現象は、天然および人為の環境内において許された、或る範囲のバランスの中において営まれるわけですから、呼吸、飲食、身体運動、精神活動と環境とは、同時相関し、相補になっており、しかも連動性になっており、その環鎖を遮断・切断した場合には、成り立たないことになるのです。
連鎖の一部に、遮断とまでに至らなくとも、障害を生じた場合にも、生命現象のアンバランスが生ずることは、自明の理です。このアンバランスが生体のどこに初発するか、ということが問題なのですが、現代医学はそこを突いていません。
東洋医学は明らかに、基礎構造、すなわち運動器系統に初発すると見ています。ですから明らかに、疾病状態と認める以前に、未だ病の成立せざる「末病」という時期を認識しており、「上工は未病を治す」(工は医師の意)という表現をしています。
医学者、医療者と称する医師よりも、患者自身が異常感をキャッチするのです。自覚していない場合もまれにはありますが、たいていは、自覚するからこそ不安を感じて受診するのです。そこで、生体のアンバランスが内よりも外にある基礎構造、すなわち運動器系に初発するということを教えられていない現代医師が、内部に何か異変があるからこそそのような異状を自覚するのではないかと、検査に熱中するのは無理のないことなのです。しかし、その結果、原因を発見できないことのあることもまた当然のことでしょう。まだ機質異変を見つけたときには、それが原因だと誤解することにもなります。もちろん異常感覚、機能障害、器質異常は、時期により併存します。ここが、現代医学・医療のウィークポイントであり、混乱の原因になっているのです。
上医不在
健康が崩れて疾病に傾斜するプロセスは、人体の基礎構造が歪むことから始まるのである。人体を「動く建物」と理解すれば、歪みが構造にも運動にも発現していることがわかるはずである。この構造運動力学の自然法則があまりにも簡単素朴なので、高踏自信満々の医学者諸彦には馬鹿気て見えるらしい。
このプロセスは可逆性になっているから、回復も増進も可能なのである。だだし、歪みが何故に生ずるかは生活の自然法則背反によるのである。必須最小限の生活の営みをしぼれば、呼吸、飲食、身体運動、精神活動の四つとなり、自らの意識により自制可能なるがゆえに、この営みには自己責任がある。しかもこれらの営みと環境自体とは同時相関性になっているのだから、少なくも五つの条件の自然の在り方を知らなければならない。知ってバランス・コントロールすることにより、環境に適応させることが健康を創造することになるのである。
自然界に生まれたものは適応性を付与されているのであるが、人間だけが反則によってこれを狂わせ適応し得ないでいる。営みの反則により人体に=まず歪みができ=その進行にしたがって第一に感覚異常を来たし、さらに進んで機能障害を招き、最後に器質破綻に至る。ここに至ってはじめて現代医学は病名診断をくだす。
近年は機能障害の精密検査は進歩しているが、最初の歪み発現の診療法をしらないから、感覚異常だけを訴える段階の患者に対してはお手上げであり、東洋医学の言う上工(上医)は現代医学界にはいないということである。
※管理人です
以前、脳梗塞で半身不随になられた人が、お医者様に「なんかフラフラします。」と言って処方して貰った薬を飲むと、いっそうフラフラしたので、薬を止めるとましになったという事がありました。患者さんは、身体のバランスが上手く取れないので、フラフラすると言ったようですが、お医者様は脳の機能的な傷害だと診断されたのではないでしょうか。
数値的には少しリュウマチ傾向があるのですが、症状としてはそれほど出ていない人が、暫く薬を止めたら、痛みもなくなり体調が良くなった。そのことをお医者様に言うと、「薬を飲まないなら、どうなっても知りませんよ!」と脅され、薬を飲み続けて、どんどん体調が悪くなり、精神的にも落ち込んでいった。そのお医者様は、某公立大学病院の内科部長でした。さらに、お盆時期の、内科部長ご本人も病院を休む時期に、入院させられた事もありました。真面目な患者さんほど酷い目に遭う可能性が高くなるのかもしれません。
西洋医学的な診断、そして病名による治療というのにも限界があるということを、患者さん自身も、もうすこし考える必要があるのではないでしょうか。
by centeringkokyu
| 2005-08-18 09:05
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