2015年 08月 14日
非科学的で良い |
▼野口先生の先見
東京治療師会によって、整体操法制定委員会が設立(S18年12月)され、野口晴哉(精神療法)先生を委員長とする13名の委員によって、昭和19年7月に手技療法の基本形が決定されている。13名の委員は以下のとおりである。
梶間良太郎(脊髄反射療法)、山田新一(オステオパシー)、松本茂(カイロプラクティック)、佐々木光堂(スポンデラテラピー)、松野恵造(血液循環療法)、林芳樹(健体術)、藤緑光(カイロプラクティック)、宮廻清二(指圧末梢療法)、柴田和通(手足根本療法)、山上恵也(カイロプラクティック)、小川平五郎(オステオパシー)、野中豪策(アソカ療法)、山下祐利(紅療法)
これは整体操法読本、巻1~巻4(著者:野口晴哉、S22年印刷)にまとめられ、今これを読んでいる最中なのだが、特に巻1の「総論」を読んでいると、手技療法の基本原理はこの中に充分に語りつくされているように思える。手技のバイブルといっても良い。だが不思議なことに、これは伝承されず、いまだにわれわれはその体系化を模索し続けているのである。
野口整体ではこれを門外不出として公開しなかったのか、あるいは公開しても、狭量な一言居士の治療家達が採用しなかったのか、いろいろ推測はできるのだが、一つの推測として、そして、たぶんこれが一番的を射ていると思うのだが、時代を先取りしすぎていたように思えるのである。野口先生は次のように述べている。
『生命に対する今までの科学的研究の非科学的なるを指摘し、新たなる途につかしむたべきである。分解と分析による物の面からの研究では生命はいつになっても掴めない。
・・・自分の為し得ることは治療学としての手技療法であって、医学としての手技療法ではない。
・・・治療ということは今の世に至っても理論よりも実際を重んじ、知識よりも経験によって行われ、最新の学を修めた人よりも老練な経験者が尊ばれるのであります。しかし、最近の世の風潮は実際よりも理論を尊び、経験よりも実験を重んじ、目前の事実よりも活版刷りの数字やカタカナを大切にするので、手技療法を行う人もその風潮にのって解剖生理的根拠のもとに、これを行おうと、いろいろの説をたて、その説によって人間を見、療術を見、生きているはたらきそのものから、形に注意が奪われて停滞してきているのでありますが、・・・
・・・しかし療術というのはその理論によって行われるのでは無く、指の本能的な感覚によって、為されているのでありますから、
・・・しかしそれ故に療術が学問的になりきらず、生きた体のうちに遺体的な形のみを観て、その為に動き得ないで、智慧を装ったが、実質の本能のはたらきによって行われる理論以前の力を失っておらないことが判ります。この点、理論から出発して工夫される治療行為とその出発点が異なるのでありまして、療術の理論は療術を行う人の考えを知るためのもので療術そのものの理解の材料にはならないのであります。』
昭和22年厚生省によって療術行為は非科学的のレッテルを張られ、昭和30年以降は禁制されるという政策が打ち出された。そのため手技治療家達はこぞって手技を科学にしようと計った。我が師亀井先生もその一人である。それは時代の要求でもあったのである。このため野口先生の極論すれば「非科学的で良い」という考え方は手技治療家達から敬遠されたのではないかと思う。
しかし、私はこの野口先生の考え方に共感を覚える。手技は科学としてとらえるのではなく、芸術としてとらえるべきだと#613でのべ、#614では「科学的思考の盲点」について述べたが、そこで私が述べたことは野口先生の説を補強していると思える。ここでは、さらに別の観点から「科学的研究の非科学的」なことを指摘し野口先生の考え方の後押しをしようと思う。
科学は科の学である。科とは稲を束ねて数えるという意味だそうである。一束一束数えるといういう意味から、分類の条目をあらわす意に用いられるようになったという。それは細分化することより本質に迫ろうとする方法である。しかしそれだけでは片手落ちとなる。本質にせまるにはもう一つの方法が必要である。それが直観といわれる、ズバリ本質を射抜く能力である。今日の科学はこの分化の智慧のみを発達させた。その結果は環境を汚染し地球を破壊しようとしている。今必要なのは全体を丸ごと容認し、そこから本質にせまる直観の力を発達させることである。それを行わなければ文明のバランスは保てない。それを発達させなければわれわれに明日はない。
野口先生は戦前からそのことを「本能」という言葉で説き続けていたのである。
『・・・それ故整体操法の行われる真の理由は、刺激と反射のうちに脊髄反射のうちに又大脳反射のうちに無いのであります。オステオパシーやカイロプラクティックの原書のうちにも経絡の図の中にも無いのでありまして、ただ人間の生きているそのもののうちにあるのであります。その真の理由は誰も知っていないのであります。ただ人間の本能の裡にあるはたらきだけが之を感じ動いて、手で体を整えることを為してきたのであります。手で体を整えることは矢張り自然の妙機と考えねばならないのであります。
・・・つきつめた一点を「ただその息一なるのみ」と申すのであります。相手と自分の息を合わせるのでも無ければ、自分と自然の息を合わせるのでも無く、ただ息一つになることに治療の原理があるのでありまして、この点、私は生物学者のいう適応という言葉のうちにも息合わぬものが合わせているように感じているのであります。
人間本来の生き方は適用によって生きるのではなく、内も外も環境も個性も一つになって生きることだと感じているのであります。刺激と反応というように対立しないで一つになる時、生命は生き生きとはたらき出し、われわれはそれを操法の裡に活かすことが出来るのでありまして、操法を実地に行う時には自分とか他人とか、自然とか人間ということが無くなって、ただ息のみにならねばピッタリ適うということは出来ないのであります。治療技術というものが頭の学問になりきり得ないのはこの一点の問題があるが為です。「整体療法という生命に対する技術の原理」としてこういう問題を説くのも又その故であります。』
新しい時代はこのような智慧を必要としている。
『・・・生物の存在が外界の動きを刺激として感受し、之に適当なる反応を呈し、もって適化適応することによって保たれていることに就いては議論の余地はありません。
・・・生きているということは個性とその周囲の関係に始まり、生きている体はその周囲から不断に刺激を受け、空気、光線、磁気、食物、温度等々、整体の周囲の変動はすべて感受性によって刺激となって影響し、その反応を誘い、その反応の為に生じた変動が刺激となって次の反応を喚起し、又新しき影響が加わる時はもとより、加わっていた影響が弱くなっても、強くなっても、又無くなっても、そのことが刺激となって又別な影響となり反応を誘い、之が繰り返されて生体の生活現象が生ずるのでありまして、したがってその感受性を失えば外界の変動裡に適化適応出来ず、外界の変動を刺激作用として反応を呈し得ず、為に生活の根底を失い、その生を全うすることが出来なくなるのであります。』
したがって感受性は、操法を行う者にも、それを受ける者にも重要な問題となる。操法を行う者は、どこにどれだけの虚実があるのか分からなければ手の下しようが無いわけで、感受性が鈍ければこの虚実はわからない。これがわからなければ治療の方針を決めるplaning(診断)もできないわけである。また感受性が鈍ければ、ある刺激を入れてもその刺激がどの程度効いているのか、効いていないのか、効いていてもどの時点でその刺激を打ち切るのかといったことがわからず良い治療などできっこない。
また、それは操法を受ける者にとっても重要な問題となる。同じ操法を行ってもある人には効き、ある人には効かない、ということが良くあるがこれも感受性の問題である。
治療師となって間もない頃、良くこの問題に悩んだ。効果が出ないと自分の操法の未熟のせいにしていたのだが、これは操法が悪いのではなく、相手の感受性に問題があったのである。私に問題があるとすればその感受性の差が読めなかったことだけである。操法そのものが悪いわけでは無かった。受ける側の感受性が悪れば刺激の効き方にも影響が出るはずだと分かったのはこの文章を読んでからのことである。
しかし逆のこともいえる。効いたということは腕が良かったから効いたのではなく、相手の感受性が良かったからだともいえるのである。均整法に感受性の概念があれば、いろいろ悩まずに済んだかもしれない。
感受性の重要さは以上のことだけにとどまらない。生命は感受性によって世界を見ている。感受性を豊かにするということは、われわれの物の見方、考え方が変わり、その結果、行動まで変わるのである。
参照1:野口整体と分かれたもう一つの理由
参照2:科学的方法論の盲点
参照3:均整法は芸術
何もしていなくても、水辺にいれば水面に姿が映り、太陽の下では地面に影が落ちます。
その形は、いつも同じではなく、自分自身の外見や内面の変化が反映されています。
意識して働き掛けたこととは別のところの、周りに与えている影響の大切さを想うことがあります。
よく見れば、影響という言葉は、「影」に「響き」と書きますね。
◎施術では
・随分待てるようになった感じがする
・患者さんやお客さんも待ってくれるようになった感じがする
・気が楽になった
#くぼけんです。
下半身の納まりが良くなり上半身との連動も良くなったと感じています。
丹田に力が集まってくる感覚も以前よりはっきりしてきたので良しとしておきます。
#楽隠居です
やっと夏休み。何もする気が起こらないのですが、最近ちょっと気になっていることがあったので、ネット検索してみました。
まずは、私のブログから単語検索していて、もう少し納得できる記事は無いかと探していると、ありました。
私にとっては、分かりやすい野口晴哉先生の言葉です。
『生命に対する今までの科学的研究の非科学的なるを指摘し、新たなる途につかしむたべきである。分解と分析による物の面からの研究では生命はいつになっても掴めない。』
『療術というのはその理論によって行われるのでは無く、指の本能的な感覚によって、為されている』
『刺激と反応というように対立しないで一つになる時、生命は生き生きとはたらき出し、われわれはそれを操法の裡に活かすことが出来るのでありまして、操法を実地に行う時には自分とか他人とか、自然とか人間ということが無くなって、ただ息のみにならねばピッタリ適うということは出来ないのであります。』
『感受性を失えば外界の変動裡に適化適応出来ず、外界の変動を刺激作用として反応を呈し得ず、為に生活の根底を失い、その生を全うすることが出来なくなる』【感受性は、操法を行う者にも、それを受ける者にも重要な問題となる。】
私の個人レッスンではいつも「治ったことはありますが、治したことはありません。」と申し上げております。
☆おまけ
by centeringkokyu
| 2015-08-14 00:03
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