2015年 02月 28日
知識を体内で消化する |
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観照塾東雲道場に入門して1年が経過しました。研究会に10回、初心者コースに6回参加しました。やはり研究会に向けて自分なりに練習し、テーマを持つことが重要ではないかと考え、世話役さんに個人稽古をお願いしました。
「古希・初心者の稽古日誌1」2015年2月25日(水)14時~16時
1.相対
鞘に入った刀を身体の前に直角にし、剣先を相手側にして床に置く。
左手、右手の順で 床に手をついて礼をする。
2.立ち方
左膝を立てることで、相手に敵意が無いことを示す。試合の時は右膝を立てる。
3.文を切る稽古(居合刀)
昨年1月の第二回研究会で
「文は腕で切るのではなく 呼吸につれて勝手に切られてゆくもの」
これが全くわからずに 世話役さんから指導をうけた。
<指導>
肩の力を抜いて、腕を捻る(肩に対して肘を直角に曲げる)。
但し 手はそのまま。カバンを持つ姿勢。
両足の膝を曲げる。(歩法の基本姿勢で学んだ)
両足の指先は床から離す。上げておく。
無形の姿勢で呼吸をすると、剣先が上下する。(これがとても難しい)
灯火を引き続き観察
・力みの経路にどんどん力を込めて行くと溢れる様に弱い経路へ流れて行く
・弱い経路の力を更に抜いてみると力みの経路から流れてくる
・身体の中で虚実の循環を感じる
・歩方でも右の薄筋の力を抜けば左が軸になる
・更に右の薄筋の力を抜くと左足に引き寄せられて左1本足で自立する
#くぼけんです。
薄筋と振袖がセンサーであり通り道のような感じで肚が出発点であり到着点である様な感じがしました。
施術中の感覚はあるけど、どうなっているの?と聴かれると説明しづらい。
ただ、『今!』という瞬間は解る感じです。
もっと体内操作の精度を上げないとあかんな~。
#楽隠居です
久しぶりにSYさんが、稽古日誌を投稿して下さいました。
いろいろとお取り込みがあったことを、漏れ伺ってはいましたが、
お元気で、稽古してくださっているようですし、IYさんがよく工夫しながら
指導してくださっている様子が、良く伝わってきますので、嬉しいです。
そして、K元さんが、細かく自己観照してブログにアップしてくださっていますので、知識が体内で消化されている様子がよく分かります。
まぁ〜胃カメラを覗いているようなものかもしれませんね。
昨日は、助産師さんが個人レッスンに来て下さいました。
いろいろと面白いお話しを伺ったうえに、メールも頂戴しました。
しかし、残念ながら公開できませんので、ご了承ください。
ただ、お話しの中で、私の考え方のベースになっているのは、何でしょうか?
というご質問がありました。
よく考えてみますと、「やっぱり老荘思想ではないか。」とお答えしました。
ついでに、何に対しても応じられるベストな状態をお読みいただくようにお願いしました。
中でも、
・無為とはね、
何もしないということじゃなくて、
知識を体内で消化した人が
何に対しても応じられるベストな状態でいることだ。
余計な手出しはせずに
自分の内なるリズムに任せて
黙って見ている——。
【無形之位】
という部分が、私は気に入っています。
助産師さんは、K元さんのブログが、そのままですね!
と言って下さいました。
▼K元さんからのメール
助産師さんは本当に凄いですね!
私の真の課題は『無形の位以前』なんです。
少し認識がおかしいかも知れませんが、このまま刀を持てば無形の位になる様な姿勢の模索中です。
気長に進んで行こうと思います。
本当にいつも有り難う御座います。
私の真の課題は『無形の位以前』なんです。
少し認識がおかしいかも知れませんが、
気長に進んで行こうと思います。
本当にいつも有り難う御座います。
☆注:むい【無為 wú wéi】
道家思想の根本概念の一つ。道家思想では,一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた超感覚的実在ないしは天地自然の理法としての〈道〉のあり方を体得することを窮極の目的とするが,その〈道〉のあり方を示すのが〈無為〉という概念である。〈無為〉とは人為の否定を意味するが,けっして何もしないということではない。それはいっさいの人間的営為を〈偽〉として否定したうえで,天地自然の理法にそのまましたがった真の〈為〉を実現することであり,正確には〈無為の為〉なのである。
by centeringkokyu
| 2015-02-28 00:03
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