2005年 06月 13日
「立体視」〜「空間認識」〜「うすらぼんやり」 |
新陰流剣術本伝極意“付ける拍子”(配付資料115)
身勢を身につける上で、新陰流の口伝に「嶺と谷を明確に意識する」というものがあるという。
「常に技(剣筋)は嶺から谷へ通します。谷というのは当てる箇所、そこへ結ぶ最適な『嶺』を自分で想定するのです。小手を打つという動作でも、小手だけを狙うのではなく肩や首筋を通して斬る。また嶺はなにも相手の身体箇所に限らず、長身の相手や高い位置を狙うときは頭上に想定することもあります。
これは体術的に使ったときでもすべて同じです。小手だけをいくら抑えよう、動かそうとしてもなかなか崩れるものではありません。実際、想定した嶺を打たなくとも、首筋などに想定した嶺から谷(手首)へ通す意識があることで相手は崩れます。嶺から谷へいかに通すか、それが技を練るということであり、新陰流の極意でもある『転(まろばし)』に通じるのです。」
「禅的生活」 玄有 宗久 著(配付資料082)
瞑想とは、結果として見れば、ふだん意識から独立している無意識の脳機能を意識によってコントロールする方法であり、基本的には意識が拡散した状態を保持することから始まる。たとえば意識が右の掌一ヵ所に集中すると我々はすぐに何かを考えはじめることもできるが、意識を両手の掌に均等に分散してみていただきたい。その状態では理性的な思考がストップしていることに気づくだろう。慣れてきたら両手両足の四ヵ所に意識を分散したまま集中することも可能になる。そのほかにもじつにいろんな瞑想の技術はあるが、ここではこれ以上深入りしない。(中略)
ともあれ実際に「瞑想」してみると分かるが、そのときあなたは眼に見える何ものをも言語化していないし、なんらかの価値判断もしていない。ただ「ありのままに」浮かんで見えているに過ぎない。つまり価値判断がなされないからこそ、全体が浮かんでくるのである。まえに「ありのまま」などあり得ないということを書いたが、じつは瞑想においてはそれがあんがい簡単に実現してしまうのである。見えている人の顔にしても、好き嫌いとか特別な怨みがあったりすればすぐに見えなくなってしまう。つまり瞑想において全てが見えるのは、好き嫌いや価値判断を離れているからなのである。
以上二つの資料から、「立体視」と「空間認識」について考えて頂きたいと思います。「禅的生活」には、「うすらぼんやり」の大切さも書かれています。当然、「観と見」や「交差する線」に関しても考えてみると面白いと思います。
剣術の場合には、『相手の人中路を踏む心持ち』『我が膝の内側で、相手を挟むような心持ち』『我が肩や拳を餌にして、もの打ちで攻める心持ち』などが大切だと言われていますが、これらの要訣は、空間認識以外の何物でもないと考えられます。
治療の場合にも、『虚実を押さえながら、どこか身体の一部を接触させておく』とか『鍼やお灸を、手足や腹部に分散させて治療する』というのも、一点だけに患者さんの意識を集中させないで、経絡の流れを、患者さん自身が観照できるようにする方法になるかもしれません。
そうすれば、身体の症状のちょっとした変化をも、冷静に感じる事ができるようになるはずです。そのようにして、ある種の瞑想状態になれば、現在の症状が出てきた要因に、自分で気付くことができる。そして、その時から、症状は確実に変化し始めるのかもしれません。
参照:気と練功そして意念について
身勢を身につける上で、新陰流の口伝に「嶺と谷を明確に意識する」というものがあるという。
「常に技(剣筋)は嶺から谷へ通します。谷というのは当てる箇所、そこへ結ぶ最適な『嶺』を自分で想定するのです。小手を打つという動作でも、小手だけを狙うのではなく肩や首筋を通して斬る。また嶺はなにも相手の身体箇所に限らず、長身の相手や高い位置を狙うときは頭上に想定することもあります。
これは体術的に使ったときでもすべて同じです。小手だけをいくら抑えよう、動かそうとしてもなかなか崩れるものではありません。実際、想定した嶺を打たなくとも、首筋などに想定した嶺から谷(手首)へ通す意識があることで相手は崩れます。嶺から谷へいかに通すか、それが技を練るということであり、新陰流の極意でもある『転(まろばし)』に通じるのです。」
「禅的生活」 玄有 宗久 著(配付資料082)
瞑想とは、結果として見れば、ふだん意識から独立している無意識の脳機能を意識によってコントロールする方法であり、基本的には意識が拡散した状態を保持することから始まる。たとえば意識が右の掌一ヵ所に集中すると我々はすぐに何かを考えはじめることもできるが、意識を両手の掌に均等に分散してみていただきたい。その状態では理性的な思考がストップしていることに気づくだろう。慣れてきたら両手両足の四ヵ所に意識を分散したまま集中することも可能になる。そのほかにもじつにいろんな瞑想の技術はあるが、ここではこれ以上深入りしない。(中略)
ともあれ実際に「瞑想」してみると分かるが、そのときあなたは眼に見える何ものをも言語化していないし、なんらかの価値判断もしていない。ただ「ありのままに」浮かんで見えているに過ぎない。つまり価値判断がなされないからこそ、全体が浮かんでくるのである。まえに「ありのまま」などあり得ないということを書いたが、じつは瞑想においてはそれがあんがい簡単に実現してしまうのである。見えている人の顔にしても、好き嫌いとか特別な怨みがあったりすればすぐに見えなくなってしまう。つまり瞑想において全てが見えるのは、好き嫌いや価値判断を離れているからなのである。
以上二つの資料から、「立体視」と「空間認識」について考えて頂きたいと思います。「禅的生活」には、「うすらぼんやり」の大切さも書かれています。当然、「観と見」や「交差する線」に関しても考えてみると面白いと思います。
剣術の場合には、『相手の人中路を踏む心持ち』『我が膝の内側で、相手を挟むような心持ち』『我が肩や拳を餌にして、もの打ちで攻める心持ち』などが大切だと言われていますが、これらの要訣は、空間認識以外の何物でもないと考えられます。
治療の場合にも、『虚実を押さえながら、どこか身体の一部を接触させておく』とか『鍼やお灸を、手足や腹部に分散させて治療する』というのも、一点だけに患者さんの意識を集中させないで、経絡の流れを、患者さん自身が観照できるようにする方法になるかもしれません。
そうすれば、身体の症状のちょっとした変化をも、冷静に感じる事ができるようになるはずです。そのようにして、ある種の瞑想状態になれば、現在の症状が出てきた要因に、自分で気付くことができる。そして、その時から、症状は確実に変化し始めるのかもしれません。
参照:気と練功そして意念について
by centeringkokyu
| 2005-06-13 19:43
| 合気観照塾