2005年 06月 05日
道歌してる? Vol.3 |
配付資料の武道歌撰集抜粋の内で、道歌してる?Vol.1&2に取り上げなかった道歌をまとめてご紹介します。配付資料(003 066)もお読みください。
是のみと 習一つに ちぢまりて おもひあやまる 兵法の道
いく度も 習の道を 改めて わが兵法に 心とどむな
兵法に 迷ふ心の 折々は 聞きし習の 跡をたづねよ
目に見えぬ 心の剣 あたらしく みがくや陰の 兵法の道
本当に昔の人達は偉いですね。簡単な表現で、伝えたい内容を上手に表していると思います。私はこれまで、武道歌撰集の上下2巻を何回か読みましたが、自分の感覚が変わってくると、「この表現はいいな〜」と感じる道歌が変わってきます。読むたびに、気に入った道歌に違う印を付けておきます。そうして置いて、出来るだけ初めて読む積もりで読んでみるのです。そのようにして抜粋したのが、配付資料(002-1 028 084)です。
一みちを なかばもゆかで よの道を かへて行くほど 遠くなりなん
この歌の「なかば」という状況をどのように考えれば良いのでしょうか。納得できない稽古を、我慢して続けるのが良いのか悪いのか、どのあたりで見切りをつけるかというのが、非常に難しいと思います。私の場合は、石の上にも3年という事でもないのですが、だいたい3年くらい稽古した頃から、「このままこの道場で稽古を続けていても、いったい何を得ることが出来るだろうか…」と考え始めて、次を探して移ってきたわけです。同時に稽古したものもありますが、結果的には、約4年目毎に道場を移り歩きました。詳しくは、15周年記念誌の「私の履歴書」に書きましたが…
ただ、私にとっては、別に急ぐ旅でもありませんし、最終目標なども有りませんから、少々遠くなっても、道中が楽しければ問題は無いと考えています。とりあえずは健康第一を目標にしていますから。
次に、観と見について詠まれたものをご紹介します。
見は身の 主人とおもひ 定めつつ 少しもつかふ 事なかれただ
宮本武蔵は、「観の目強く見の目弱く」と表現していましたが、ここでは、身の主人だから使うなと詠まれています。この節、家庭の主人は、使われっぱなしですから、どうもニュアンスがしっくりきません。この歌を少し変え「わしゃ家の〜」と書いて、我が家の居間にでも貼っておきたいような気がします。
敵のうつ はやき太刀とて 恐るなよ 観の目付を 学びとりなば
この歌も、家庭や会社での状況が映像的に重なってしまいます。やはり常に、しっかりと観の目付の稽古をしないといけないようです。
雲霞 隔ててとほき 方だにも 観じてみれば 只せつななり
家庭も会社も遠きにありて想う訳にいきませんので、どうしても見の目になってしまうのかもしれませんね。そして、結局は自分の心の問題であるというのが、次に詠まれている歌なのだと思います。
わが心 かがみの如く 磨きなば 敵の相形 皆移るべし
動きなき 心を思ひ 悟らずば 皆いたづらの 稽古なるべし
兵法の 習くもらぬ 月かげも にごる水には うつりかねつつ
おのづから 映らばうつる 映るとも 月も思はず 水も思はず
自分の身を守る為には「平常心是道」ということなのでしょう。そして、やはりそれが一番難しいので、誰もが苦労しているのです。
出でぬ間の 山のあなたを 思ひ遣る 心やさきに 月をみるらん
気の前の はたらきといふ 習いこそ 上手の上の てだてなりけり
数多くの経験を積み重ね、予想の範囲が広くなればなるほど、相手の対応の仕方に慌てて、パニックになることは少なくなるかもしれません。「敵を知り 己を知れば 百戦危うからず」を目指すべきなのでしょう。でも、最終的には、自分自身を知り、自分自身を信じるしかないと思いますし、信じるに足る自分を、日々磨いていくことが大切なのでしょうね…
八十八に掲載した「答えは、自分の中にある」配付資料092も、ご一読ください。
最後にこの道歌をご紹介しておきます。
身は社 こころは神で 有りながら 外を尋ぬる おろかなりけり
参照1:吹く風も雪も霰も咲く花も
参照2:鏡に映されている様な心持
是のみと 習一つに ちぢまりて おもひあやまる 兵法の道
いく度も 習の道を 改めて わが兵法に 心とどむな
兵法に 迷ふ心の 折々は 聞きし習の 跡をたづねよ
目に見えぬ 心の剣 あたらしく みがくや陰の 兵法の道
本当に昔の人達は偉いですね。簡単な表現で、伝えたい内容を上手に表していると思います。私はこれまで、武道歌撰集の上下2巻を何回か読みましたが、自分の感覚が変わってくると、「この表現はいいな〜」と感じる道歌が変わってきます。読むたびに、気に入った道歌に違う印を付けておきます。そうして置いて、出来るだけ初めて読む積もりで読んでみるのです。そのようにして抜粋したのが、配付資料(002-1 028 084)です。
一みちを なかばもゆかで よの道を かへて行くほど 遠くなりなん
この歌の「なかば」という状況をどのように考えれば良いのでしょうか。納得できない稽古を、我慢して続けるのが良いのか悪いのか、どのあたりで見切りをつけるかというのが、非常に難しいと思います。私の場合は、石の上にも3年という事でもないのですが、だいたい3年くらい稽古した頃から、「このままこの道場で稽古を続けていても、いったい何を得ることが出来るだろうか…」と考え始めて、次を探して移ってきたわけです。同時に稽古したものもありますが、結果的には、約4年目毎に道場を移り歩きました。詳しくは、15周年記念誌の「私の履歴書」に書きましたが…
ただ、私にとっては、別に急ぐ旅でもありませんし、最終目標なども有りませんから、少々遠くなっても、道中が楽しければ問題は無いと考えています。とりあえずは健康第一を目標にしていますから。
次に、観と見について詠まれたものをご紹介します。
見は身の 主人とおもひ 定めつつ 少しもつかふ 事なかれただ
宮本武蔵は、「観の目強く見の目弱く」と表現していましたが、ここでは、身の主人だから使うなと詠まれています。この節、家庭の主人は、使われっぱなしですから、どうもニュアンスがしっくりきません。この歌を少し変え「わしゃ家の〜」と書いて、我が家の居間にでも貼っておきたいような気がします。
敵のうつ はやき太刀とて 恐るなよ 観の目付を 学びとりなば
この歌も、家庭や会社での状況が映像的に重なってしまいます。やはり常に、しっかりと観の目付の稽古をしないといけないようです。
雲霞 隔ててとほき 方だにも 観じてみれば 只せつななり
家庭も会社も遠きにありて想う訳にいきませんので、どうしても見の目になってしまうのかもしれませんね。そして、結局は自分の心の問題であるというのが、次に詠まれている歌なのだと思います。
わが心 かがみの如く 磨きなば 敵の相形 皆移るべし
動きなき 心を思ひ 悟らずば 皆いたづらの 稽古なるべし
兵法の 習くもらぬ 月かげも にごる水には うつりかねつつ
おのづから 映らばうつる 映るとも 月も思はず 水も思はず
自分の身を守る為には「平常心是道」ということなのでしょう。そして、やはりそれが一番難しいので、誰もが苦労しているのです。
出でぬ間の 山のあなたを 思ひ遣る 心やさきに 月をみるらん
気の前の はたらきといふ 習いこそ 上手の上の てだてなりけり
数多くの経験を積み重ね、予想の範囲が広くなればなるほど、相手の対応の仕方に慌てて、パニックになることは少なくなるかもしれません。「敵を知り 己を知れば 百戦危うからず」を目指すべきなのでしょう。でも、最終的には、自分自身を知り、自分自身を信じるしかないと思いますし、信じるに足る自分を、日々磨いていくことが大切なのでしょうね…
八十八に掲載した「答えは、自分の中にある」配付資料092も、ご一読ください。
最後にこの道歌をご紹介しておきます。
身は社 こころは神で 有りながら 外を尋ぬる おろかなりけり
参照1:吹く風も雪も霰も咲く花も
参照2:鏡に映されている様な心持
by centeringkokyu
| 2005-06-05 00:09
| 合気観照塾