2012年 05月 11日
人のためってどういうこと? |
▼N山さんからの投稿をご紹介します。
中心塾10周年おめでとうございます!そして、いつもK野先生はじめ皆様にはお世話になり感謝しております!今後とも宜しくお願いします。
今回、観照塾にお世話になるまでの経緯を私事で勝手ではございますが書かせていただきたく思います。
私自身には記憶はあまりないのですが、それくらい小さい頃、小学生になるまでは生きられないだろうと病院で告知を受けたそうです。腎臓の疾患だったのですが、どこの病院に行っても原因が分からなかったそうで蛋白尿がずっと出ていました。退院の時「何が食べたい?」と聞かれた時「牛乳かけご飯が食べたい」と言いました。まずかったのを覚えております(笑)そんなことは、どうでもよい話なのですが、最終的に原因が分かり漢方薬を飲み続けて完治しました。両親や家族には随分と心配をかけたと思います。
小学生の時にはサッカー、中学高校とラグビーが出来る程に身体的な問題は一切なく成長させて頂く事ができました。感謝です。
そのような感謝の気持ちもスッカリ忘れ、生意気にスクスクと中学2年生になった私は、試験週間で部活が休みだったので昼間っから寝転びながら普段は絶対に見ないNHKを何気に見ていました。
内容は、世界の子供達の特集で小さい子供や自分と年の変わらない子供達が奴隷のように働かされているというものでした。地下の暗いところでずっと働かされているため目が見えなくなっていたり、子供にしか入れない穴で荷物を運ばされていたり当時かなりの衝撃を受けたのを覚えております。
自分は何なんだ?この今の自分とのギャップは何なんだ!と思い、いずれは死ぬということだけは変わらない事実なのだけれども過程が違いすぎるじゃないか!可愛そうだ!いや!可愛そうだと思ってる自分は嫌なヤツなんじゃないか!ブラウン管の中の子供達の方が必死で生きているから凄いんじゃないのか!など色んなことが頭の中を巡りました。
時間にしたら数分の出来事でしたが、自分の中で一つの答えが出ました。それは、どんな生き方をしていても最終的には皆死ぬ。しかも自分は小さい頃死んでもおかしくなかった拾われた命だから人のために生きる人生がいいなぁと思いました。そして周りの大人を見渡した時に深く考えたり見たりしていた訳ではないのですが、この人みたいになりたいと思ったのが、今は亡き治療家の先生でした。中学生の頃は勝手に弟子になると決めていたみたいで私は覚えてないのですが友達がそう言っていました。
平々凡々と育った私は、その後の学校生活ではスッカリと、この気持ちや思いも忘れて特になぁ~んにも考えずに育ちました。お蔭様で友人には恵まれ今でも仲良くさせてもらっております。
進路を決める時期になると自分の中では決まっていたので弟子入りを両親と共にお願いに行き了承を得て鍼灸の専門学校に入学しました。
師匠にお願いに行かせてもらった帰りに父に「お前は何にも出来ひんのやから掃除だけは必死でやれ!特に便所掃除や!」と言われたのを覚えております。
弟子入りして4年がたち5年目に入った頃、師匠から一本の電話がありました。病院に行ったら悪性リンパ腫だったと。電話口でオエオエ泣いてしまい、師匠と奥様に「大丈夫やからなぁ」と励ましてもらいました。泣きたいのは私じゃなく師匠なのに本当にどうしようもない弟子です。
一年の闘病生活を経て師匠は他界されました。
色々なお話を聞かせてもらいましたが、入院中のお話で一番印象に残っているのが「もっと患者さんの言うことを聞いてあげたら良かった!」という言葉です。私からしたら十分に話も聞いてはりましたし、患者さん達もそう感じておられました。(実際に聞いた話)
今から思うに、当時私が捉えていたこととは違う「聞く」という意味だったのだろうと考えています。
そこから私は「人のためってどういうこと?」ということに疑問を持ち始め、ああだこうだと考えるようになりました。あんなに人のために生きてはった人が何で死んでしまうんや!一番悲しませたくない家族はどうなるんや!もっと悪い人はいっぱい居るやろ!人のためって何やねん!とかもっと色々と考えました。結構、長い期間この疑問を持っていました。一年くらい。で、自分の中で出てきた答えが今の初心になっております。
そんなこんなで、一年間くらい治療に対しても彷徨っていた私は、身体を動かしたくて京都にできたばかりの格闘技のジムに通おうかと考えておりました。でも鍼灸の学校でお世話になったN松さんが武術をやっておられる事を知っていたので電話をして相談しました。そしたら「治療に活かしたいなら「観照塾」の方が良いと思うよ」「1回、行ってみたら?」とアドバイスをして頂き、どんなものかと稽古に参加させて頂いたのが観照塾でお世話になるキッカケでした。
最初、疑い深い性格の私はK野先生に「掴んできてみ」と言われ掴みにかかったら、内股をかけられ、しかも受身がとれず背中から落ち息ができなかったのを覚えております、他にも座っている先生に前から「押してきてみ」と言われ、一様ラグビーも柔道も経験しているので手を抜いた方がいいのかな?くらいの気持で押しにかかったら動かないどころか投げられてしまい。頭の中に?が飛びまくりました。そこから、何だ!これわ!と思い稽古に参加させて頂くようになりました。
師匠が亡くなられ、もう人生で私が師匠と呼ぶ人は現れないだろうと思っていましたが、K野先生とご縁を頂き師匠と呼べる人と出会い可愛がって頂き色々なことを教えて頂き、お心を頂いている今の環境を当たり前だと思わず、どんなけ恵まれていることなのか胆に銘じてこれからも色々と学ばせて頂きたいと思います。
ざっくり書くとこのような経緯で観照塾にお世話になっております。なかなか覚えの悪い弟子ですが今後とも宜しくお願いします。
観照塾にお世話になってからのことは、また追々書かせてもらいたいと思います。長々とした文章になってしまい申し訳ありません。
#楽隠居です
N山さんが、患者さんから慕われるのはなぜか?これがず〜っと私の疑問でした。私はN山さんのことを「人たらしのリュウ」と、密かに呼んでいますが、今回なぜファンが多いのかが、少し分かったような気がします。この続きも、ぼちぼちで結構ですから投稿していただきたいと思いますので、よろしくお願いします。
参照1:N山りゅう
参照2:中心健康センター
☆リンク先で更新された記事
・91歳の努力
・「難しさ・愉しさ・嬉しさ」
・進退足底
・「春風音楽堂 海風編」
・嵐の翌週は快晴でスタァとうどん 番外
中心塾10周年おめでとうございます!そして、いつもK野先生はじめ皆様にはお世話になり感謝しております!今後とも宜しくお願いします。
今回、観照塾にお世話になるまでの経緯を私事で勝手ではございますが書かせていただきたく思います。
私自身には記憶はあまりないのですが、それくらい小さい頃、小学生になるまでは生きられないだろうと病院で告知を受けたそうです。腎臓の疾患だったのですが、どこの病院に行っても原因が分からなかったそうで蛋白尿がずっと出ていました。退院の時「何が食べたい?」と聞かれた時「牛乳かけご飯が食べたい」と言いました。まずかったのを覚えております(笑)そんなことは、どうでもよい話なのですが、最終的に原因が分かり漢方薬を飲み続けて完治しました。両親や家族には随分と心配をかけたと思います。
小学生の時にはサッカー、中学高校とラグビーが出来る程に身体的な問題は一切なく成長させて頂く事ができました。感謝です。
そのような感謝の気持ちもスッカリ忘れ、生意気にスクスクと中学2年生になった私は、試験週間で部活が休みだったので昼間っから寝転びながら普段は絶対に見ないNHKを何気に見ていました。
内容は、世界の子供達の特集で小さい子供や自分と年の変わらない子供達が奴隷のように働かされているというものでした。地下の暗いところでずっと働かされているため目が見えなくなっていたり、子供にしか入れない穴で荷物を運ばされていたり当時かなりの衝撃を受けたのを覚えております。
自分は何なんだ?この今の自分とのギャップは何なんだ!と思い、いずれは死ぬということだけは変わらない事実なのだけれども過程が違いすぎるじゃないか!可愛そうだ!いや!可愛そうだと思ってる自分は嫌なヤツなんじゃないか!ブラウン管の中の子供達の方が必死で生きているから凄いんじゃないのか!など色んなことが頭の中を巡りました。
時間にしたら数分の出来事でしたが、自分の中で一つの答えが出ました。それは、どんな生き方をしていても最終的には皆死ぬ。しかも自分は小さい頃死んでもおかしくなかった拾われた命だから人のために生きる人生がいいなぁと思いました。そして周りの大人を見渡した時に深く考えたり見たりしていた訳ではないのですが、この人みたいになりたいと思ったのが、今は亡き治療家の先生でした。中学生の頃は勝手に弟子になると決めていたみたいで私は覚えてないのですが友達がそう言っていました。
平々凡々と育った私は、その後の学校生活ではスッカリと、この気持ちや思いも忘れて特になぁ~んにも考えずに育ちました。お蔭様で友人には恵まれ今でも仲良くさせてもらっております。
進路を決める時期になると自分の中では決まっていたので弟子入りを両親と共にお願いに行き了承を得て鍼灸の専門学校に入学しました。
師匠にお願いに行かせてもらった帰りに父に「お前は何にも出来ひんのやから掃除だけは必死でやれ!特に便所掃除や!」と言われたのを覚えております。
弟子入りして4年がたち5年目に入った頃、師匠から一本の電話がありました。病院に行ったら悪性リンパ腫だったと。電話口でオエオエ泣いてしまい、師匠と奥様に「大丈夫やからなぁ」と励ましてもらいました。泣きたいのは私じゃなく師匠なのに本当にどうしようもない弟子です。
一年の闘病生活を経て師匠は他界されました。
色々なお話を聞かせてもらいましたが、入院中のお話で一番印象に残っているのが「もっと患者さんの言うことを聞いてあげたら良かった!」という言葉です。私からしたら十分に話も聞いてはりましたし、患者さん達もそう感じておられました。(実際に聞いた話)
今から思うに、当時私が捉えていたこととは違う「聞く」という意味だったのだろうと考えています。
そこから私は「人のためってどういうこと?」ということに疑問を持ち始め、ああだこうだと考えるようになりました。あんなに人のために生きてはった人が何で死んでしまうんや!一番悲しませたくない家族はどうなるんや!もっと悪い人はいっぱい居るやろ!人のためって何やねん!とかもっと色々と考えました。結構、長い期間この疑問を持っていました。一年くらい。で、自分の中で出てきた答えが今の初心になっております。
そんなこんなで、一年間くらい治療に対しても彷徨っていた私は、身体を動かしたくて京都にできたばかりの格闘技のジムに通おうかと考えておりました。でも鍼灸の学校でお世話になったN松さんが武術をやっておられる事を知っていたので電話をして相談しました。そしたら「治療に活かしたいなら「観照塾」の方が良いと思うよ」「1回、行ってみたら?」とアドバイスをして頂き、どんなものかと稽古に参加させて頂いたのが観照塾でお世話になるキッカケでした。
最初、疑い深い性格の私はK野先生に「掴んできてみ」と言われ掴みにかかったら、内股をかけられ、しかも受身がとれず背中から落ち息ができなかったのを覚えております、他にも座っている先生に前から「押してきてみ」と言われ、一様ラグビーも柔道も経験しているので手を抜いた方がいいのかな?くらいの気持で押しにかかったら動かないどころか投げられてしまい。頭の中に?が飛びまくりました。そこから、何だ!これわ!と思い稽古に参加させて頂くようになりました。
師匠が亡くなられ、もう人生で私が師匠と呼ぶ人は現れないだろうと思っていましたが、K野先生とご縁を頂き師匠と呼べる人と出会い可愛がって頂き色々なことを教えて頂き、お心を頂いている今の環境を当たり前だと思わず、どんなけ恵まれていることなのか胆に銘じてこれからも色々と学ばせて頂きたいと思います。
ざっくり書くとこのような経緯で観照塾にお世話になっております。なかなか覚えの悪い弟子ですが今後とも宜しくお願いします。
観照塾にお世話になってからのことは、また追々書かせてもらいたいと思います。長々とした文章になってしまい申し訳ありません。
#楽隠居です
N山さんが、患者さんから慕われるのはなぜか?これがず〜っと私の疑問でした。私はN山さんのことを「人たらしのリュウ」と、密かに呼んでいますが、今回なぜファンが多いのかが、少し分かったような気がします。この続きも、ぼちぼちで結構ですから投稿していただきたいと思いますので、よろしくお願いします。
参照1:N山りゅう
参照2:中心健康センター
☆リンク先で更新された記事
・91歳の努力
・「難しさ・愉しさ・嬉しさ」
・進退足底
・「春風音楽堂 海風編」
・嵐の翌週は快晴でスタァとうどん 番外
by centeringkokyu
| 2012-05-11 00:03
| 十周年記念