2011年 07月 26日
諸道諸芸の奥義は無心を体得すること |
「実践瞑想ヨガ――生活篇」沖正弘著よりご紹介します。
▼人間的無心を体得できる
P.233
修行とは、目的とすることが、自分の働きとなるまで繰り返すことである。なにごとでも、はじめはできにくいが、繰り返しの努力を意識的(有心)につづけているうちに、いつのまにかその働きが自己化して無意識(無心)になしうるようになる。無の心のときには、相手のことが自分のことのようにわかるので、感じることも理解することも行なうことも正しくなるのである。しかしこの極意は口で説けるものでもなく、考えてわかるものでもない。訓練によってのみ体得できるものであり、このことは武道その他の道の達人や名人を見ればうなづける。体得した体の働きだけがそれを知っているので、不立文字というのである。私の友人に米粒に沢山の字を書ける人がいるが、この友人は毎日一定時間を定めて米粒をながめることをつづけたそうで、ついにはあの小さい米粒が半紙大にまで見えるようになったそうである。訓練すると弓でも的が大きく見え、いつ矢を放てばよいかを自然に感じ、その感じに従うと、ひとりでに的中するようになるのである。
このように諸道諸芸の奥義は無心を体得することであり、この無心に到る道は、一事を繰り返すことである。禅定行法でも、はじめは意識的に一事への集中を繰り返すのであるが、この集中行をつづけていると、いつのまにか、無意識に集中できるようになり、ついには自分のことにも他人のことにもとらわれない、有るけれども無いという状態になりうる。これが無念無想の状態であり無心の境涯である。肉体的に無心を身につけることも至難のわざであるが、知的および情的に無心を身につけることはさらにむずかしい。
正しい判断力が身につけば、無理な考え方やあやまった求め方がなくなるから、その心には不自然な、不要なもがきが生じない。悟者の心は恐れを超えており、損得、生死の区別も忘れており、ただ無心に真実を味わっている。正しい知性とは、対象物の価値と意味とを正しく理解して、それを活用して自他ともに最上の生き方をなしうる判断能力である。自然の働きは無為の働きであるが、そのなかに道(法則)を見、一物の他物に働きかけている力を知り、自己に与えられたいっさいの縁を真実教示の修行の師と活用拝受するのが其の知者の心である。正しい知性とは、無駄、無理のない考え方ができて、主観的にも客観的にも、部分的にも全体的にもうなづける考え方ができることであるが、この人のうなづける正しく尊い考え方の邪魔をするものが、自己流にとらわれた解釈の仕方である。
☆P.64 「無我になるまでの訓練が練習であり、無我になってからの訓練が修業である。」
参照1:心眼で見透す
参照2:合気について、その理論と実際
参照3:舞
参照4:演奏のコツ
参照5:知るための訓練 スローモーション
参照6:考えている暇は無い?
☆リンク先で更新された記事
・基本
・「ひとり遊び」
・「相対稽古は互助稽古」
・「なにごとも奥は深い」
・実感って??
・お腹と股関節
・活動報告15
・体験記10
・面白味
・自分の出来る事しか出来ない
▼人間的無心を体得できる
P.233
修行とは、目的とすることが、自分の働きとなるまで繰り返すことである。なにごとでも、はじめはできにくいが、繰り返しの努力を意識的(有心)につづけているうちに、いつのまにかその働きが自己化して無意識(無心)になしうるようになる。無の心のときには、相手のことが自分のことのようにわかるので、感じることも理解することも行なうことも正しくなるのである。しかしこの極意は口で説けるものでもなく、考えてわかるものでもない。訓練によってのみ体得できるものであり、このことは武道その他の道の達人や名人を見ればうなづける。体得した体の働きだけがそれを知っているので、不立文字というのである。私の友人に米粒に沢山の字を書ける人がいるが、この友人は毎日一定時間を定めて米粒をながめることをつづけたそうで、ついにはあの小さい米粒が半紙大にまで見えるようになったそうである。訓練すると弓でも的が大きく見え、いつ矢を放てばよいかを自然に感じ、その感じに従うと、ひとりでに的中するようになるのである。
このように諸道諸芸の奥義は無心を体得することであり、この無心に到る道は、一事を繰り返すことである。禅定行法でも、はじめは意識的に一事への集中を繰り返すのであるが、この集中行をつづけていると、いつのまにか、無意識に集中できるようになり、ついには自分のことにも他人のことにもとらわれない、有るけれども無いという状態になりうる。これが無念無想の状態であり無心の境涯である。肉体的に無心を身につけることも至難のわざであるが、知的および情的に無心を身につけることはさらにむずかしい。
正しい判断力が身につけば、無理な考え方やあやまった求め方がなくなるから、その心には不自然な、不要なもがきが生じない。悟者の心は恐れを超えており、損得、生死の区別も忘れており、ただ無心に真実を味わっている。正しい知性とは、対象物の価値と意味とを正しく理解して、それを活用して自他ともに最上の生き方をなしうる判断能力である。自然の働きは無為の働きであるが、そのなかに道(法則)を見、一物の他物に働きかけている力を知り、自己に与えられたいっさいの縁を真実教示の修行の師と活用拝受するのが其の知者の心である。正しい知性とは、無駄、無理のない考え方ができて、主観的にも客観的にも、部分的にも全体的にもうなづける考え方ができることであるが、この人のうなづける正しく尊い考え方の邪魔をするものが、自己流にとらわれた解釈の仕方である。
☆P.64 「無我になるまでの訓練が練習であり、無我になってからの訓練が修業である。」
参照1:心眼で見透す
参照2:合気について、その理論と実際
参照3:舞
参照4:演奏のコツ
参照5:知るための訓練 スローモーション
参照6:考えている暇は無い?
☆リンク先で更新された記事
・基本
・「ひとり遊び」
・「相対稽古は互助稽古」
・「なにごとも奥は深い」
・実感って??
・お腹と股関節
・活動報告15
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・面白味
・自分の出来る事しか出来ない
by centeringkokyu
| 2011-07-26 00:01
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