2011年 01月 07日
直観に従うにも勇気がいる |
「思いやりのチャクラ あなたの選ぶ行動が奇跡を起こす」
キャロライン・メイス著 服部由美訳からご紹介します。
人は礼儀にかなった態度で、真実を話さなくてはならない。無礼な感度で真実を話したり、人を喜ばせるために嘘をついたりしてはならない。これは不変の法である。 ―― マヌの法典
人は恐怖心から直観に従うことをためらうことが多い。たいてい行動が自分の人生にもたらす変化を恐れるからだ。けれども、直観による導きはどれも変化につながっている。それは、自分の外の世界を変えることができるほどのエネルギーをもった情報だ。直観が冴えることを求めながら、変化を恐れるのは、冷たくて暗い夜を恐れながら、洞窟を照らす焚き火に水をかけるようなものだ。
「選択とその結果」の中心点である第5チャクラでは、からしの種ほどの大きさの知恵が、人びとの人生を縛りつけている山ほどの大きさの幻想を壊す力をもっている。真実は容赦なく襲いかかってくるのである。しかし、人はひらめきに宿る、ものごとを変えてしまう力に恐怖を感じ、直観を恐れてしまう。
人は、何かに気づいても、それが恐ろしくて認めることができないものなら、気づかないふりをするのがとてもうまい。何か月、何年と子どもの薬物中毒を否定し続けたことのある親なら、このことがわかるはずだ。夫の不貞を見て見ぬふりをしてきた妻にもわかるだろう。しかし、真実に気づかないふりをしても、さらなる嘘と破壊的なエネルギーを生み出すだけなのだ。
けれども、真実を認めてしまえば、好むと好まざるとにかかわらず、人生は変化の軌道に放り込まれる。胸をえぐられるような結果を招いてしまったというメールも何通かあった。それでも、その人たちはそんな結果を運んできた使者のことを否定することなく、むしろ感謝すらしている。事実を受けいれてこそ、人としてのポジティブな変化を人生に根づかせることができるのだ。
シルビア・L はこう書いている。
「(人に尽くす行為)は、必ずしも心地よいものでなくてもよいのです。
聞きたくはないけれど聞くべきことを進んで伝えようとしてくれることも、(人に尽くす行為)なのです。これは私がいちばんよくしてもらう貢献であり、真実入りの現実サンドイッチというべきものでしょう。
聞きたくないと思うこともよくありますが、私の性格に目をつぶり、私という人間のより深い部分に踏み込んでくれる、そういった人たちに心から感謝しています。それによって腹立たしさを感じたとしても、私にとっては非常に大切なことです。
忘れがちなことですが、要するに私は愛されているということなのでしょう」
☆リンク先で更新された記事から抜粋してご紹介します。
◆新年あけましておめでとうございます
新しい年が明けたからといって、このブログに関しては、これといった変化は無さそうです。
そろそろ寒天に関する有用な情報が得られるのではないか、駄洒落の最高傑作が発表されるのではないか、合気道の極意に近付けるのではないかといった過度の期待は禁物です。
いつまで経っても、役に立つのかどうかさえハッキリしない文章が淡々と続いていることでしょう。
その積み重ねが、読んで頂いている方や私自身にとって、どういう意味をもたらすのか私は知りません。
ただ、そうした流れの中で生じる些細な変化を、寛容な心でもって汲み取り、楽しんで読んで頂けたなら幸いです。
それでは、今年もよろしくお願いします。
◆丁寧に
「丁寧に落ち着いた呼吸で」ということに気が向いていた一日だった。自分の癖の一つとしてリズムというかテンポが速くなり繊細さを欠くということが挙げられる。結局、丁寧に落ち着いた気持ちと呼吸でいた方が結果的には速いし元気になる。身体に散りばめられている〇〇時計を丁寧に合わせていくというのをやっている。身体に良いと感じている。
◎続きはこちらをどうぞ!
◆自分で
考えてみると毎日、色んな気づきがあるものだ。実際の治療ほど治療の勉強になることはない。そこで気づいたことや、浮かんだ発想、考え感じたことが一番自分の血肉になる。参考に色々学びはするが自分のものにするには自分でやって気づくしかない。なんでもそうだし当たり前のことなのだが、胆に銘じておくべきことの一つだと感じた。因みに、今日気づいたことは肩甲骨と鎖骨について。後、ずっと検証を続けていることが膝から下、肘から下のこと。非常に面白い。
◎続きはこちらをどうぞ!
参照1:「科学的に考える」ことを疑う
参照2:体癖論以前
参照3:癒しの過程を妨げているのは自分だ
参照4:「痛みのメカニズム」を知らない医師
参照5:認知療法
参照6:学ぶとは洞察力を養うこと
キャロライン・メイス著 服部由美訳からご紹介します。
人は礼儀にかなった態度で、真実を話さなくてはならない。無礼な感度で真実を話したり、人を喜ばせるために嘘をついたりしてはならない。これは不変の法である。 ―― マヌの法典
人は恐怖心から直観に従うことをためらうことが多い。たいてい行動が自分の人生にもたらす変化を恐れるからだ。けれども、直観による導きはどれも変化につながっている。それは、自分の外の世界を変えることができるほどのエネルギーをもった情報だ。直観が冴えることを求めながら、変化を恐れるのは、冷たくて暗い夜を恐れながら、洞窟を照らす焚き火に水をかけるようなものだ。
「選択とその結果」の中心点である第5チャクラでは、からしの種ほどの大きさの知恵が、人びとの人生を縛りつけている山ほどの大きさの幻想を壊す力をもっている。真実は容赦なく襲いかかってくるのである。しかし、人はひらめきに宿る、ものごとを変えてしまう力に恐怖を感じ、直観を恐れてしまう。
人は、何かに気づいても、それが恐ろしくて認めることができないものなら、気づかないふりをするのがとてもうまい。何か月、何年と子どもの薬物中毒を否定し続けたことのある親なら、このことがわかるはずだ。夫の不貞を見て見ぬふりをしてきた妻にもわかるだろう。しかし、真実に気づかないふりをしても、さらなる嘘と破壊的なエネルギーを生み出すだけなのだ。
けれども、真実を認めてしまえば、好むと好まざるとにかかわらず、人生は変化の軌道に放り込まれる。胸をえぐられるような結果を招いてしまったというメールも何通かあった。それでも、その人たちはそんな結果を運んできた使者のことを否定することなく、むしろ感謝すらしている。事実を受けいれてこそ、人としてのポジティブな変化を人生に根づかせることができるのだ。
シルビア・L はこう書いている。
「(人に尽くす行為)は、必ずしも心地よいものでなくてもよいのです。
聞きたくはないけれど聞くべきことを進んで伝えようとしてくれることも、(人に尽くす行為)なのです。これは私がいちばんよくしてもらう貢献であり、真実入りの現実サンドイッチというべきものでしょう。
聞きたくないと思うこともよくありますが、私の性格に目をつぶり、私という人間のより深い部分に踏み込んでくれる、そういった人たちに心から感謝しています。それによって腹立たしさを感じたとしても、私にとっては非常に大切なことです。
忘れがちなことですが、要するに私は愛されているということなのでしょう」
☆リンク先で更新された記事から抜粋してご紹介します。
◆新年あけましておめでとうございます
新しい年が明けたからといって、このブログに関しては、これといった変化は無さそうです。
そろそろ寒天に関する有用な情報が得られるのではないか、駄洒落の最高傑作が発表されるのではないか、合気道の極意に近付けるのではないかといった過度の期待は禁物です。
いつまで経っても、役に立つのかどうかさえハッキリしない文章が淡々と続いていることでしょう。
その積み重ねが、読んで頂いている方や私自身にとって、どういう意味をもたらすのか私は知りません。
ただ、そうした流れの中で生じる些細な変化を、寛容な心でもって汲み取り、楽しんで読んで頂けたなら幸いです。
それでは、今年もよろしくお願いします。
◆丁寧に
「丁寧に落ち着いた呼吸で」ということに気が向いていた一日だった。自分の癖の一つとしてリズムというかテンポが速くなり繊細さを欠くということが挙げられる。結局、丁寧に落ち着いた気持ちと呼吸でいた方が結果的には速いし元気になる。身体に散りばめられている〇〇時計を丁寧に合わせていくというのをやっている。身体に良いと感じている。
◎続きはこちらをどうぞ!
◆自分で
考えてみると毎日、色んな気づきがあるものだ。実際の治療ほど治療の勉強になることはない。そこで気づいたことや、浮かんだ発想、考え感じたことが一番自分の血肉になる。参考に色々学びはするが自分のものにするには自分でやって気づくしかない。なんでもそうだし当たり前のことなのだが、胆に銘じておくべきことの一つだと感じた。因みに、今日気づいたことは肩甲骨と鎖骨について。後、ずっと検証を続けていることが膝から下、肘から下のこと。非常に面白い。
◎続きはこちらをどうぞ!
参照1:「科学的に考える」ことを疑う
参照2:体癖論以前
参照3:癒しの過程を妨げているのは自分だ
参照4:「痛みのメカニズム」を知らない医師
参照5:認知療法
参照6:学ぶとは洞察力を養うこと
by centeringkokyu
| 2011-01-07 00:01
| 本などの紹介