2011年 01月 05日
想像することのたいせつさ |
▼アメリカで受けた身心(再)教育 片桐ユズル(京都精華大学数授)
「月刊全生」 昭和60年10月号からご紹介します。
アレキサンダー・テクニークという身心訓練法についてはオルダス・ハクスリーの著作を通して興味をそそられていたので、この一年の滞米中にぜひ体験してみたいとおもっていた。しかし一般の評判では、あれはかたくるしいというようにいわれているのを聞いて興味がさめかけていた。ところが、ふとしたことからサンプル・レッスンをうけてみて、すっかり気にいってしまった。先生によってずいぶんちがうようだから、わたしの体験はサンフランシスコ近くに住むシャーロット・コウから受けたものである。
まず、あおむけにねる。すると先生がわたしの体のぐあいを観察して、たとえば首に手をあてて、首はらくにしていいのですよ、という。首が緊張してるね、といわないところですっかり感激。肩の巾を感じてごらん、といわれて、ごそごそ動いて肩を調節しようとしたら「筋肉はうごかさなくていいのです。ただ肩巾がひろいと想像するだけでいいのです」という。うまく想像できると、そこにあてている手でわかるらしく「ベリー・グッド」とほめられる。体をうごかすことが不得意で、いつも劣等感になやまされていた者にとって、こんならくちんな方法はない。鎖骨のあたりに先生がさわりながら「ここの筋肉ははたらきすぎね。もう、そんなにがんばらなくていいのよ」といわれたときには、頭でなくて、そこの筋肉が「そうだったのか」とわかったので、ほんとうにびっくりした。そして、ゆるんだ。涙が出るほどありがたかった。
野口先生は想像することのたいせつさを強調していられるが、このアレキサンダー・レッスンを想像力の練習につかってやれ、ときめた。体のいろんな部分の状態を想像することは、要するに、体のその部分に気を通すことだから、アメリカにいるあいだは、これを整体操法のかわりにしてやれとかんがえ、一週間一回一時間三十ドルで通うことにした。【1985年(昭和60年)9月のプラザ合意の後は、1ドル=250円ぐらいでした。:楽隠居】
この操法みたいなことは、西洋人の先生は立ってやるから、受ける方はアイロン台みたいなテーブルにねている。このテーブル・ワークのあと、あるいはまえに、立ったり、歩いたり、イスに腰かける練習がある。しかし何といってもテーブル・ワークが気持よく、そのあとでは世界がまるで名画のようにきれいに見える。
オークランドで市バスにのりながら、友だちにアレキサンダーはいいぞ、というはなしをしていた。「ただ、スッとすわってるとおもうだけで、体はなにもしなくてもいいんだ」としゃべりながら、いつのまにか自分がスッとすわっているのに気がついてびっくりしたことがある。だいたいわたしはすわることに問題があって、特にあぐらをかいたらどうしてもへニャッとなってしまう。この問題は、サンフランシスコからボルチモアへ移ってから、そこのナンシー・ウェイニック先生が集中的にやってくれた。
ある日のこと、どうもこのごろ目のピントがあいにくくて、本がよめなくてこまる、というはなしをしたら「それでは、そこのイスに腰かけて本をよんでごらん」というので、そうすると、イスにすわるときでもやはり恥骨をつきだして、腹をへこませていることがわかった。それではテーブルへどうぞ、ということであおむけになると、息を吐ききってゆるんだ瞬間(とか、夜ねむりにおちいるときしばしはあるように)体がピクッピクッとなって、アレキサンダーの先生をおどろかせたが、これをわたしは活元運動と理解しているから、その説明をした。それからナソシー先生が何を想像させようとしたかは忘れたが、要するに仙椎から尾骨のあたりにさわるのと、骨盤を調整しようとしているのがわかった。
そのうちにおもいだしてきたことは、ライヒ療法をうけたときに、この痙攣がえらく気にされて、きっと恐怖の原体験があるにちがいないといわれたが、どうしてもおもいあたらなかった。いまアレキサンダーのテーブルに横たわりながら、この尾骨をまるめたかっこうは、イヌがこわがってシッポを後足にはさんでいるようだとおもった。じつはいつもこわがってくらしていたな、とおもった。日本にいたときは意識にあがらなかったが、外国でくらすということは、じつは恐怖のなかでくらしている。いぜんとして恐怖のいちばんみなもとはわからない。アレキサンダーで、体のいろんな部分に気をやっているうちに、その筋肉が強烈に記憶している事件がよみがえることがしばしばあるという。しかしアレキサンダーでは、それはそれとしておいておいて、むかしはそれが必要だったのでしょうけど、今はその筋肉はそんなふうにがんばらなくてもいいのですよという。なんともさわやかで気分がいい。
アレキサンダーでは三段階ということをいっていて、(1)悪い癖に気づくこと、(2)気づいたら、その癖をやめること、(3)良い方向づけをすること、といっている。何が良い方向かについては議論があるだろうけど、創始者フランツ・マシアス・アレキサンダーの直感は、人間の進化の方向にそっていく、ということだとわたしはおもう。
じつはアレキサンダー・テクニークのほかに、シャーロット・セルバーの「センソリー・アウェアネス」Sensory Awareness ―― 敏感になる練習といったらいいか ―― そのワークショップにも参加した。こちらは一見じつにとらえどこがなく、たとえば「立つということはどういうことでしょうか? ちょっと立つことをしてみたらどうでしょう。目が閉じてきたら閉じるがままにして・・・・みなさんのなかでどういうことがおこっていますか?」というようなもので、もしかしたら野口三千三氏の「野口体操」と近いようにおもうが、あのようにサカダチとか曲芸的なことをしないのでたすかる。それからセルバーさんは、何が良くて何が悪いかをいわないので、活元運動に正誤がないのとおなじく、うれしいことである。そのかわり「いきはどこではじまり、どこでおわりますか」しらべてみましょう、という。彼女の信念によれば、気がつきさえすれば、人間有機体はしぜんに良い方向へいくものだという。
初心者にとってはなんとも漠然たるセルバ一女史の指示を、アレキサンダーの方向づけで自分なりの手がかりをつくるようにした。整体をいくらかやっていたので、センソリー・アウェアネスやアレキサンダー・テクニークを矛盾なく包みこめる体制ができていた。愉気や活元をしっていたことは、ライヒ療法やバイオエネルギー療法に入りやすかった。しかしセルバ一女史もF・M・アレキサンダーも、整体とおなじく、彼らのしごとは教育、あるいは再教育だとかんがえている。速効性のある方法は大きな危険をともないがちだし、わたし自身の趣味としては、一見とらえどこのない、テクニーク化しにくいアプローチが好きである。
▼空想と身体の変化
「体運動の構造 第二巻」 心の構造 ―― 身体に影響する心の動き
・愉しいとか苦しいとかいうのは空想の中にあるのです。そして、それを実感した時だけ、体の働きになるのです。だから想い浮かべることによって体を変化させ得るのです。
吾々の行う整体指導が上手か下手かというのは、回を重ねても親しんで馴れず、空想で快感を感じさせ得れば上手なのです。初めは気持ちよかったけれども、あとは少しもよくならないというようなのは下手なのです。
・心が自然に動く傾向の中にも、良い方向に行く人もあれば、悪い方向に行く人もあります。どちらも体に実現します。安静にしないとたちまち悪くなるとか、安静にすると悪くなるとか、安静にしていて安静を破ると悪くなるとか言うように、いろいろありますが、恐怖してはならないと言われると、恐怖することを恐怖してしまう。これでは落ち着いて恐怖することもできないし、心配もできない。しかし、自然の勘ではそういうことがちゃんと判る。必要な時に心配し、必要な時に元気を出し、必要なときに逃げ出し、必要なときに改めていくということができる。私はそういう体の働きを保ちたいと思うのです。
☆リンク先で更新された記事から抜粋してご紹介します。
◆弛み
手の内で弛みをとり、薄筋と軸で弛みをとり、横隔膜の浮きで弛みをとる。手で押し込んだりなんだかんだするのではなく、体内操作と呼吸のみで弛みをとる。ということを感じた。後、もっと自分の治療に自分の中で理論をつけてみようと思っている。そうすることで、整理ができ自分の観えていない部分が観えそうな気がする。
◎続きはこちらをどうぞ!
◆「息」の「つめ」と「ひらき」
「仕舞」を始めるに当たり、毎回必ず「謡」の練習をします。
まだ「入門者」の私は、当初、「踊り」をやりたかった分、限られた時間を「謡」に割かれるのに内心、ちょっと惜しい気がしていました。
でも、せっかくの機会を頂いたのだから「しきたり」に従い、「能」のノリや雰囲気を感じたり、M橋さんに学んだ発声の「東洋版」を学ぶつもりで、「謡」も頑張ってみる事にしました。
ところが色々気付いて行く内に、これは舞手にとって「呼吸法」の練習で「大基本」だと身に染みて良く分かり、自分の不心得を誠に恥ずかしく思いました。
◎続きはこちらをどうぞ!
参照1:心身の不必要な緊張をやめるために
参照2:からだの基本原理
参照3:アレクサンダー・テクニークとの出会い
参照4:自白を促す
参照5:肚が利く
参照6:響き合う心と内臓と身体
参照7:如何に親切にならないか/同情しないで非人情に
参照8:息のしかた
参照9:息のしかた 続
参照10:骨盤底を意識する
「月刊全生」 昭和60年10月号からご紹介します。
アレキサンダー・テクニークという身心訓練法についてはオルダス・ハクスリーの著作を通して興味をそそられていたので、この一年の滞米中にぜひ体験してみたいとおもっていた。しかし一般の評判では、あれはかたくるしいというようにいわれているのを聞いて興味がさめかけていた。ところが、ふとしたことからサンプル・レッスンをうけてみて、すっかり気にいってしまった。先生によってずいぶんちがうようだから、わたしの体験はサンフランシスコ近くに住むシャーロット・コウから受けたものである。
まず、あおむけにねる。すると先生がわたしの体のぐあいを観察して、たとえば首に手をあてて、首はらくにしていいのですよ、という。首が緊張してるね、といわないところですっかり感激。肩の巾を感じてごらん、といわれて、ごそごそ動いて肩を調節しようとしたら「筋肉はうごかさなくていいのです。ただ肩巾がひろいと想像するだけでいいのです」という。うまく想像できると、そこにあてている手でわかるらしく「ベリー・グッド」とほめられる。体をうごかすことが不得意で、いつも劣等感になやまされていた者にとって、こんならくちんな方法はない。鎖骨のあたりに先生がさわりながら「ここの筋肉ははたらきすぎね。もう、そんなにがんばらなくていいのよ」といわれたときには、頭でなくて、そこの筋肉が「そうだったのか」とわかったので、ほんとうにびっくりした。そして、ゆるんだ。涙が出るほどありがたかった。
野口先生は想像することのたいせつさを強調していられるが、このアレキサンダー・レッスンを想像力の練習につかってやれ、ときめた。体のいろんな部分の状態を想像することは、要するに、体のその部分に気を通すことだから、アメリカにいるあいだは、これを整体操法のかわりにしてやれとかんがえ、一週間一回一時間三十ドルで通うことにした。【1985年(昭和60年)9月のプラザ合意の後は、1ドル=250円ぐらいでした。:楽隠居】
この操法みたいなことは、西洋人の先生は立ってやるから、受ける方はアイロン台みたいなテーブルにねている。このテーブル・ワークのあと、あるいはまえに、立ったり、歩いたり、イスに腰かける練習がある。しかし何といってもテーブル・ワークが気持よく、そのあとでは世界がまるで名画のようにきれいに見える。
オークランドで市バスにのりながら、友だちにアレキサンダーはいいぞ、というはなしをしていた。「ただ、スッとすわってるとおもうだけで、体はなにもしなくてもいいんだ」としゃべりながら、いつのまにか自分がスッとすわっているのに気がついてびっくりしたことがある。だいたいわたしはすわることに問題があって、特にあぐらをかいたらどうしてもへニャッとなってしまう。この問題は、サンフランシスコからボルチモアへ移ってから、そこのナンシー・ウェイニック先生が集中的にやってくれた。
ある日のこと、どうもこのごろ目のピントがあいにくくて、本がよめなくてこまる、というはなしをしたら「それでは、そこのイスに腰かけて本をよんでごらん」というので、そうすると、イスにすわるときでもやはり恥骨をつきだして、腹をへこませていることがわかった。それではテーブルへどうぞ、ということであおむけになると、息を吐ききってゆるんだ瞬間(とか、夜ねむりにおちいるときしばしはあるように)体がピクッピクッとなって、アレキサンダーの先生をおどろかせたが、これをわたしは活元運動と理解しているから、その説明をした。それからナソシー先生が何を想像させようとしたかは忘れたが、要するに仙椎から尾骨のあたりにさわるのと、骨盤を調整しようとしているのがわかった。
そのうちにおもいだしてきたことは、ライヒ療法をうけたときに、この痙攣がえらく気にされて、きっと恐怖の原体験があるにちがいないといわれたが、どうしてもおもいあたらなかった。いまアレキサンダーのテーブルに横たわりながら、この尾骨をまるめたかっこうは、イヌがこわがってシッポを後足にはさんでいるようだとおもった。じつはいつもこわがってくらしていたな、とおもった。日本にいたときは意識にあがらなかったが、外国でくらすということは、じつは恐怖のなかでくらしている。いぜんとして恐怖のいちばんみなもとはわからない。アレキサンダーで、体のいろんな部分に気をやっているうちに、その筋肉が強烈に記憶している事件がよみがえることがしばしばあるという。しかしアレキサンダーでは、それはそれとしておいておいて、むかしはそれが必要だったのでしょうけど、今はその筋肉はそんなふうにがんばらなくてもいいのですよという。なんともさわやかで気分がいい。
アレキサンダーでは三段階ということをいっていて、(1)悪い癖に気づくこと、(2)気づいたら、その癖をやめること、(3)良い方向づけをすること、といっている。何が良い方向かについては議論があるだろうけど、創始者フランツ・マシアス・アレキサンダーの直感は、人間の進化の方向にそっていく、ということだとわたしはおもう。
じつはアレキサンダー・テクニークのほかに、シャーロット・セルバーの「センソリー・アウェアネス」Sensory Awareness ―― 敏感になる練習といったらいいか ―― そのワークショップにも参加した。こちらは一見じつにとらえどこがなく、たとえば「立つということはどういうことでしょうか? ちょっと立つことをしてみたらどうでしょう。目が閉じてきたら閉じるがままにして・・・・みなさんのなかでどういうことがおこっていますか?」というようなもので、もしかしたら野口三千三氏の「野口体操」と近いようにおもうが、あのようにサカダチとか曲芸的なことをしないのでたすかる。それからセルバーさんは、何が良くて何が悪いかをいわないので、活元運動に正誤がないのとおなじく、うれしいことである。そのかわり「いきはどこではじまり、どこでおわりますか」しらべてみましょう、という。彼女の信念によれば、気がつきさえすれば、人間有機体はしぜんに良い方向へいくものだという。
初心者にとってはなんとも漠然たるセルバ一女史の指示を、アレキサンダーの方向づけで自分なりの手がかりをつくるようにした。整体をいくらかやっていたので、センソリー・アウェアネスやアレキサンダー・テクニークを矛盾なく包みこめる体制ができていた。愉気や活元をしっていたことは、ライヒ療法やバイオエネルギー療法に入りやすかった。しかしセルバ一女史もF・M・アレキサンダーも、整体とおなじく、彼らのしごとは教育、あるいは再教育だとかんがえている。速効性のある方法は大きな危険をともないがちだし、わたし自身の趣味としては、一見とらえどこのない、テクニーク化しにくいアプローチが好きである。
▼空想と身体の変化
「体運動の構造 第二巻」 心の構造 ―― 身体に影響する心の動き
・愉しいとか苦しいとかいうのは空想の中にあるのです。そして、それを実感した時だけ、体の働きになるのです。だから想い浮かべることによって体を変化させ得るのです。
吾々の行う整体指導が上手か下手かというのは、回を重ねても親しんで馴れず、空想で快感を感じさせ得れば上手なのです。初めは気持ちよかったけれども、あとは少しもよくならないというようなのは下手なのです。
・心が自然に動く傾向の中にも、良い方向に行く人もあれば、悪い方向に行く人もあります。どちらも体に実現します。安静にしないとたちまち悪くなるとか、安静にすると悪くなるとか、安静にしていて安静を破ると悪くなるとか言うように、いろいろありますが、恐怖してはならないと言われると、恐怖することを恐怖してしまう。これでは落ち着いて恐怖することもできないし、心配もできない。しかし、自然の勘ではそういうことがちゃんと判る。必要な時に心配し、必要な時に元気を出し、必要なときに逃げ出し、必要なときに改めていくということができる。私はそういう体の働きを保ちたいと思うのです。
☆リンク先で更新された記事から抜粋してご紹介します。
◆弛み
手の内で弛みをとり、薄筋と軸で弛みをとり、横隔膜の浮きで弛みをとる。手で押し込んだりなんだかんだするのではなく、体内操作と呼吸のみで弛みをとる。ということを感じた。後、もっと自分の治療に自分の中で理論をつけてみようと思っている。そうすることで、整理ができ自分の観えていない部分が観えそうな気がする。
◎続きはこちらをどうぞ!
◆「息」の「つめ」と「ひらき」
「仕舞」を始めるに当たり、毎回必ず「謡」の練習をします。
まだ「入門者」の私は、当初、「踊り」をやりたかった分、限られた時間を「謡」に割かれるのに内心、ちょっと惜しい気がしていました。
でも、せっかくの機会を頂いたのだから「しきたり」に従い、「能」のノリや雰囲気を感じたり、M橋さんに学んだ発声の「東洋版」を学ぶつもりで、「謡」も頑張ってみる事にしました。
ところが色々気付いて行く内に、これは舞手にとって「呼吸法」の練習で「大基本」だと身に染みて良く分かり、自分の不心得を誠に恥ずかしく思いました。
◎続きはこちらをどうぞ!
参照1:心身の不必要な緊張をやめるために
参照2:からだの基本原理
参照3:アレクサンダー・テクニークとの出会い
参照4:自白を促す
参照5:肚が利く
参照6:響き合う心と内臓と身体
参照7:如何に親切にならないか/同情しないで非人情に
参照8:息のしかた
参照9:息のしかた 続
参照10:骨盤底を意識する
by centeringkokyu
| 2011-01-05 00:01
| アレクサンダー・テクニーク