2010年 12月 27日
これまでを振り返って |
▼身体づくりのすすめ
R会大阪支部15周年記念誌(2002年発行)からI川さんの投稿を転載させていただきます。
それにしても、大東流って不思議です。やればやるほど面白い。どうやったらOS先生のようになれるのか、皆目見当がつかないところがいいんですね。先輩方の助言もあって、まずは身体づくりから始めることにしたんですが、それがまた楽しいんです。
身体づくりの方法にもいろいろありますが、私はとりあえず力を抜く練習から始めることにしました。
ちなみに、入門したての頃のある先輩との会話。
「どうすれば力が抜けるの?」
「軸を立てろ」
「じゃあ、どうすれば軸が立つの?」
「力を抜け」
当時は、おいおい禅問答じゃないんだからって思ってたんですが、実際そう言うしかないんですね。最近なんとなくそういうことがわかってきたような気がします。
で、その頃の私が少ない脳ミソで必死に考えた結論は、「なんだ、何をしてもいいんだ」というものでした。力を抜く練習をすると軸が立ってくるし、軸を立てる練習をすると力が抜けてくる。要は、今までと同じ身体の使い方さえしなければなんでもありなんだってわかったんです。失敗しても、自分の身体が潰れるだけだから何も問題はないし。さいわい大阪支部には、壊れた身体を修理できる人は何人もいますから。
そうこうするうちに、今度は身体を壊すのがだんだん楽しくなってきたんです。最初は壊れないようにこわごわと遊んでたんですが、だんだん「壊れても大した事ないや」って思うようになってきて。ついには「どうすれば壊れるのか」に関心がうつってきたんです。
壊れた身体を自分で修理しようとしてさらに悪化させたことも何度もありました。もっとも、私が安心していろいろな実験をすることができたのは、K野先生やM岡さんというしっかりした修理屋さんがいてくれたからです。お二人には本当にお世話になりっぱなしでした。これからもまだまだご迷惑をおかけする予定ですが、その時はよろしくお願いします。
さて、こうして何度も壊しては修理して壊しては修理してを繰り返してきたわけですが、そのおかげで、いろんな事に気づくことができました。
まずは、修理したての状態がこんなにも気持ちいいものだということを、身体で覚えられたことです。私が身体を壊すたびに修理してもらっていたわけですが、そのときついでに身体のあちこちに付着したサビも取ってもらってたんです。つまり修理のたびに新品同様で返ってくるわけ。するといつのまにか、新品同様の状態とそうでない状態の区別がつくようになってきたんです。きっと故障に敏感になってきたんでしょうね。
2つめは、努力次第で自分は変われるんだという確信を持つことができたことです。修理前の身体と修理後の身体というのは、同じ自分の身体だというのが信じられないほど違うものなんです。修理前の廃車寸前のポンコツみたいな自分の身体が、修理されて新品同様なって戻ってくる。自分が変われるんだということを実感として感じられるわけです。確信を持つというのはすごく大事なことなんじゃないかなって思います。
3つめは、だんだんと壊すのが上手になってきたことです。なんとなく、これ以上やったら壊れるなというのが感じられるようになってきたんです。臨界前核実験というのができるのも、何度となく実際に実験を行ってデータを積み重ねてきたからなんです。だからうまくやれば、壊さずに実験することができる・・・はずなのですが、面白いんですね、自分の身体を壊すのが。これ以上やったら確実に壊れると言うのがわかっていてもやめられない。「どうせ治してもらえるんだしいいか~」って感じで、ついつい壊れるまでやってしまいます。こればっかりはやめられませんね。
4つめは、壊れた状態というのも立派な研究材料になるというのがわかったこと。たとえば腰が痛くなったら、腰に負担をかけずにどうしたら動くことができるかということを研究するわけです。痛みというのはすごく自覚しやすい感覚なんですね。ズルをして今までと同じ動き方をすると、一発でわかります。だって、痛いんですから。身体を壊し続けたおかげで気付けたこともたくさんあるような気がします。
他にも気付いたことはいろいろあるのですが、中でも、腑に落ちるという事を実感できるようになったというのが一番大きいような気がします。修理されて新品同様で返ってきた状態でK野先生の話を聞いているときに、ふっと何かがお腹に落ちたような気がしたんです。あとで聞くと「それが腑に落ちた状態だ」って言われました。それ以来、人の話をお腹で聞くことができるようになったように思います。
ふと思ったんですが、身体でわかったことっていうのは当たり前になってしまうんですね。自転車の乗り方と同じで、自分がさんざん苦労したことも忘れて乗れない人を見ても「なんで乗れないの?」って思ってしまうんです。自分にとって当たり前の事って人に教えるのは難しいですよね。人から合気を教わるのが難しいというのは、そういう理由もあるんじゃないかな。結局、自分で気付くしかないんだろうなって思います。
ところで、自分は基本的なことが全く出来てないんだなということに気付くことが、最近多いような気がします。たとえば、命門を開くこと。これなんか、入門した最初の日に言われたことなんですね。ところが、未だに全く出来ていない。自分では少しは開いてきたつもりになってたんですが、実際には全く開いていなかったんです。しかも先輩に指摘されるまで、全く気付かなかった。我ながら情けないです。
ということで、今の私の一番の課題は「腰を反らないこと」です。どうも腰を反る変な癖がついてしまっているらしく、油断するとすぐに腰が反ってしまいます。馬歩をしていてもみんなに「変!」って言われます。おまけに腰が反ってるから命門も開きません。きっと他にも出来てるつもりになってるけど出来てないことが、いくらでもあるんだろうなあ。でも、出来ていないことに気付くことができたんだから、あとは出来るようになるだけです。とりあえず、がんばろう。
最近、身体がしっかり出来ていないと、剣をやってもあまり意味がないのではないかと思うようになりました。特に軸や歩法がある程度わかってないと同じ型でも全く別物になるような気がします。なかでも歩法が大問題。正直なところ、まったく出来てない。なんとかしなきゃなあ。とにかく、剣をやり始めてあらためて、ああ、私は基本が出来てなかったんだなって気付けたような気がします。
話は変わりますが、最近気になっている言葉に「螺旋」があります。はっきり言って、今はまったくわかりません。すごく重要なんだろうなということだけは、なんとなくわかるんですが。
そう言えばこの前、先輩に「軸が固い」って言われました。なんでも、軸はもっとやわらかくってねじれているものなのに、私の軸は固くって固定的なんだそうです。たしかにその通りだなというのは自分でもわかるのですが、だからどうすればよいのかは、今考え中です。だいたい、軸がねじれたら軸って言わないような気がするんですが・・・。でも、ねじれてた方がギュ~ンと上まで伸びて行けそうな気もするし。とりあえず、土台から作り直して行こうと思っています。土台というからには下半身、特に股関節周辺でしょうか。野口体操の本に「全ての存在や動きの基本は、濤、渦、螺旋である」とあったのが、何らかのヒントになるような気がします。
その軸の作り方について、K野先生にお借りしたビデオの中にヒントらしきものを見つけました。津軽三味線の木下伸市さんが出演していた番組なんですが、その中で、木下さんと若手の上妻宏光さんとが共演している場面があるんです。上妻さんも天才って言われるくらいすごい人ですが、木下さんと一緒にみると、やっぱり全然違うんですね。上妻さん、さすがに姿勢はいいです。軸がピッと立ってます。でも固い。トンカチで叩けばカンカンと音がしそうな感じです。それに対して木下さんは軟らかいんですね。自然というか、つながってるというか。まさに全身を使って演奏してる感じなんです。軸はあるんだけどない。一見ないように見えるんだけど、身体全体で軸って感じなんです。上妻さんの場合は軸が「軸!軸!!軸なんだ!」って主張してます。軸が軸になっていて、せっかくの軸の力を演奏に生かしきれてないんですね。ふと、佐々木大とラスタ・トーマスの共演していた場面を思い出しました。なんとなく、一度軸を作り上げたら、今度はその軸を壊していく作業が必要になってくるのかなって感じました。
そういえば最近、私はどうも自分の身体について鈍感らしいということに気付きました。というよりも、感覚が曖昧なんです。人の話を聞いて、曖昧なまま「そんなもんなのかな」って受け入れる。練習をして「しんどいか?」って聞かれて、他の人がしんどそうにしてるのを見て、「しんどい」って答える。実際には、自分ではあまりそういう風に感じてないんですね。どうも無意識のうちに、限界のはるか手前で手を抜いてしまってるらしい。そんな風に曖昧なままやってるもんだから、練習の効果の方もいまひとつ。一緒に練習した人が「次の日は足がパンパンになりました」とか言ってるのに、私の方は筋肉痛一つない。これじゃあ意味ないなあ。逆に、いつも手を抜くことばかり考えているから、コツを掴むのがうまくなったような気もしないでもないですが・・・。
正月にK野先生にお借りしたビデオを見ていたとき、ふと、私の今までの練習は単なる自己満足ではなかったかと感じました。そのビデオは「教育を考える」という特集番組です。このビデオには2人の先生が登場します。一人目の先生の授業は力技。肩に力を入れてうんうん唸っているような授業。結局その先生が行き詰まり悩んでいたところに、先輩教師が助っ人として登場します。その先輩教師の授業風景も出てきたんですが、それがすごいんです。生徒に合気をかけて授業しているんですね。だから生徒は、自分の思うようにやってるつもりでも、実はその教師が意図したように誘導されているんです。その先輩教師が悩める先生に「おまえの授業は形にとらわれすぎている」というような説教をします。さらに「おまえは子供達が何を考えているのか全然わかってない、理解しようとしていない」と厳しく指摘します。
私にはこの説教が「おまえの練習は形にとらわれすぎている」「おまえは基本的なことが全然わかってない、理解しようとしていない」というふうに聞こえました。言われてみればまさにその通りで、私は基本的なことが何一つわかっていなかったんです。たとえば円運動。円運動ってなんだろうって深く考えもせずに「ああ、円なんでしょ、そんなことわかってるよ」で終わっていました。これでは上手になるはずありませんよね。練習にしても、意味も何も考えずにただただ機械的に繰り返していたことが多かったように思います。反省。
最後に、これからの私のテーマを書くことにします。
まずは「自分で自分に言い訳をしない」こと。
私の得意技は自分に言い訳をすることなのです。「今日は雨が降ってるから練習をサボろう」とか、「いまいちやる気がでないから練習せずに寝てしまおう」とか。理由にならないような理由をつけては、楽な方へ楽な方へ行こうとします。とりあえず、自分で決めたことくらいはやり通す強さを身につけたいなと思ってます。
そして「固定観念を捨てる」こと。
私は固定観念のかたまりみたいな人間です。常識も人並み以上に持っている・・・つもりです。できるだけ固定観念や常識は捨てようとしてはいるのですが、どうしても捨てきれない大きなかたまりがいくつも残ってるんですね。捨ててしまえば楽になれるのはわかっているのですが、どうしても捨てられない。固定観念といっても長年慣れ親しんだものですから、なんだかんだと自分に都合のいい理由をつけて捨てまいとする。今気付いたんですが、どうも残っているのは、固定観念というよりもつまらないプライドとか見栄のような気がする。・・・余計だめですね。
もう一つは「只今」いまのこの瞬間を大切にすること。
これは簡単で単純で、だからこそ一番難しくって一番重要なテーマなんだと思ってます。とりあえず精進あるのみって感じでしょうか。ということで、まだまだ課題は山積みです。先はまだまだ長そうなんですが、少しでも先輩方に近づけるようにがんばろうと思っています。
これからもよろしくお願いします。
▼一年を振り返って
I川さんからの投稿をご紹介します。
おかげさまで平成22年の今年は、これまでになく多くの気づきがあり、自分でも我ながら上手くなったなあとひそかに思っていました。
ところが、12月に入ってからの中心塾と観照塾でなぜか課題がどっさりと見つかり、上手くなったというのは全くの勘違いで、実は全然そんなことなかったということがよくわかりました。
そこで、ここ最近の気づきを少しまとめてみたいと思います。
まず1つめは呼吸が全然できていないこと。
この点については本当は前から薄々気づいてたのにがんばって見ないふりをしていたんですが、私の場合、呼吸・意念・体内操作の三者の中では呼吸のレベルが極端に低いようです。
なので人に誘導するときも、呼吸を使った誘導というのがお粗末なくらいできない。
後述する全体的に身体がタルい、たるんでいるというのも、うまく呼吸を使えていないのが大きな原因だと思います。
そして2つめは骨盤時計ができていない、特に3時9時がお話にならないくらいヘタクソだったということ。
それまでは自分では骨盤時計はある程度できている、特に3時9時は得意、だと思ってたんですが、帯を使っての練習にも慣れ、いざ丁寧に動いてみると、3時9時の動きに余計な成分が入りすぎていて、肝心な部分がうまく動いていないことに気づきました。
これには正直びっくりしましたが、12時6時についても、実は3時9時よりもヘタクソで、本当はできてないのに気づいてないだけってオチが待っているような気がしています。
3つめは身体がタルい、たるんでいるということ。
考えてみると、この点については今年に入ってからも体操(串刺し)で指摘され、太極棒で指摘され、そしてまた土曜日に指摘していただいたわけですが、結局のところ小器用に形を整えただけで、根本のところがまったく変わっていなかったということです。
原因としては、横隔膜がうまく使えていないこと、身体の立体感がないこと、中心へ寄せる感覚と集中が足りないことがあげられます。
といってもこれらは単なる結果あるいは現象であって、根本はおそらく呼吸がうまく使えていないことにあるのだと思います。
中心塾で教えていただいた3時9時の動きで軸を中心にして動かす動作がうまくできなかったのも、身体がタルい分、軸の感覚が甘くなっていたのが原因のようです。
そういえば面白いことに、ダンスの先生からもつい最近「身体がボケている」という指摘を受けました。
そういうこともあり身体のタルさについては以前から気づいていたんですが、ゆるめるというのはそんなもんだという思い込みから、これを放置していました。
今にして思うと、力を抜くということへの勘違いが身体のタルさを生んでいたんだと思います。
そんなわけで最後の最後で情けないオチがつきましたが、おかげさまで今年は本当に多くの気づきを得ることができました。
来年もよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
#楽隠居です
稽古というのは、やっっぱり蚊取り線香みたいなもので、自分ではなかなか進歩を自覚できないんですなぁ~
でも、死ぬまで自分の身体で遊べる訳ですから、精々身体を大事にしながら楽しむべきだと思っています。
出来たとか分かったと思ってしまったら、そこで稽古しようという情熱みたいなものは無くなってしまいます。
佐川先生は、70歳を過ぎてから気付いたことがあると言われたとか・・・
楽隠居としましては、「いつまで経っても、駄目なわた~しねぇ~」と口ずさみながら稽古を続ける所存ですので、皆さん宜しくお願い致します。
参照:一年を振り返って
R会大阪支部15周年記念誌(2002年発行)からI川さんの投稿を転載させていただきます。
それにしても、大東流って不思議です。やればやるほど面白い。どうやったらOS先生のようになれるのか、皆目見当がつかないところがいいんですね。先輩方の助言もあって、まずは身体づくりから始めることにしたんですが、それがまた楽しいんです。
身体づくりの方法にもいろいろありますが、私はとりあえず力を抜く練習から始めることにしました。
ちなみに、入門したての頃のある先輩との会話。
「どうすれば力が抜けるの?」
「軸を立てろ」
「じゃあ、どうすれば軸が立つの?」
「力を抜け」
当時は、おいおい禅問答じゃないんだからって思ってたんですが、実際そう言うしかないんですね。最近なんとなくそういうことがわかってきたような気がします。
で、その頃の私が少ない脳ミソで必死に考えた結論は、「なんだ、何をしてもいいんだ」というものでした。力を抜く練習をすると軸が立ってくるし、軸を立てる練習をすると力が抜けてくる。要は、今までと同じ身体の使い方さえしなければなんでもありなんだってわかったんです。失敗しても、自分の身体が潰れるだけだから何も問題はないし。さいわい大阪支部には、壊れた身体を修理できる人は何人もいますから。
そうこうするうちに、今度は身体を壊すのがだんだん楽しくなってきたんです。最初は壊れないようにこわごわと遊んでたんですが、だんだん「壊れても大した事ないや」って思うようになってきて。ついには「どうすれば壊れるのか」に関心がうつってきたんです。
壊れた身体を自分で修理しようとしてさらに悪化させたことも何度もありました。もっとも、私が安心していろいろな実験をすることができたのは、K野先生やM岡さんというしっかりした修理屋さんがいてくれたからです。お二人には本当にお世話になりっぱなしでした。これからもまだまだご迷惑をおかけする予定ですが、その時はよろしくお願いします。
さて、こうして何度も壊しては修理して壊しては修理してを繰り返してきたわけですが、そのおかげで、いろんな事に気づくことができました。
まずは、修理したての状態がこんなにも気持ちいいものだということを、身体で覚えられたことです。私が身体を壊すたびに修理してもらっていたわけですが、そのときついでに身体のあちこちに付着したサビも取ってもらってたんです。つまり修理のたびに新品同様で返ってくるわけ。するといつのまにか、新品同様の状態とそうでない状態の区別がつくようになってきたんです。きっと故障に敏感になってきたんでしょうね。
2つめは、努力次第で自分は変われるんだという確信を持つことができたことです。修理前の身体と修理後の身体というのは、同じ自分の身体だというのが信じられないほど違うものなんです。修理前の廃車寸前のポンコツみたいな自分の身体が、修理されて新品同様なって戻ってくる。自分が変われるんだということを実感として感じられるわけです。確信を持つというのはすごく大事なことなんじゃないかなって思います。
3つめは、だんだんと壊すのが上手になってきたことです。なんとなく、これ以上やったら壊れるなというのが感じられるようになってきたんです。臨界前核実験というのができるのも、何度となく実際に実験を行ってデータを積み重ねてきたからなんです。だからうまくやれば、壊さずに実験することができる・・・はずなのですが、面白いんですね、自分の身体を壊すのが。これ以上やったら確実に壊れると言うのがわかっていてもやめられない。「どうせ治してもらえるんだしいいか~」って感じで、ついつい壊れるまでやってしまいます。こればっかりはやめられませんね。
4つめは、壊れた状態というのも立派な研究材料になるというのがわかったこと。たとえば腰が痛くなったら、腰に負担をかけずにどうしたら動くことができるかということを研究するわけです。痛みというのはすごく自覚しやすい感覚なんですね。ズルをして今までと同じ動き方をすると、一発でわかります。だって、痛いんですから。身体を壊し続けたおかげで気付けたこともたくさんあるような気がします。
他にも気付いたことはいろいろあるのですが、中でも、腑に落ちるという事を実感できるようになったというのが一番大きいような気がします。修理されて新品同様で返ってきた状態でK野先生の話を聞いているときに、ふっと何かがお腹に落ちたような気がしたんです。あとで聞くと「それが腑に落ちた状態だ」って言われました。それ以来、人の話をお腹で聞くことができるようになったように思います。
ふと思ったんですが、身体でわかったことっていうのは当たり前になってしまうんですね。自転車の乗り方と同じで、自分がさんざん苦労したことも忘れて乗れない人を見ても「なんで乗れないの?」って思ってしまうんです。自分にとって当たり前の事って人に教えるのは難しいですよね。人から合気を教わるのが難しいというのは、そういう理由もあるんじゃないかな。結局、自分で気付くしかないんだろうなって思います。
ところで、自分は基本的なことが全く出来てないんだなということに気付くことが、最近多いような気がします。たとえば、命門を開くこと。これなんか、入門した最初の日に言われたことなんですね。ところが、未だに全く出来ていない。自分では少しは開いてきたつもりになってたんですが、実際には全く開いていなかったんです。しかも先輩に指摘されるまで、全く気付かなかった。我ながら情けないです。
ということで、今の私の一番の課題は「腰を反らないこと」です。どうも腰を反る変な癖がついてしまっているらしく、油断するとすぐに腰が反ってしまいます。馬歩をしていてもみんなに「変!」って言われます。おまけに腰が反ってるから命門も開きません。きっと他にも出来てるつもりになってるけど出来てないことが、いくらでもあるんだろうなあ。でも、出来ていないことに気付くことができたんだから、あとは出来るようになるだけです。とりあえず、がんばろう。
最近、身体がしっかり出来ていないと、剣をやってもあまり意味がないのではないかと思うようになりました。特に軸や歩法がある程度わかってないと同じ型でも全く別物になるような気がします。なかでも歩法が大問題。正直なところ、まったく出来てない。なんとかしなきゃなあ。とにかく、剣をやり始めてあらためて、ああ、私は基本が出来てなかったんだなって気付けたような気がします。
話は変わりますが、最近気になっている言葉に「螺旋」があります。はっきり言って、今はまったくわかりません。すごく重要なんだろうなということだけは、なんとなくわかるんですが。
そう言えばこの前、先輩に「軸が固い」って言われました。なんでも、軸はもっとやわらかくってねじれているものなのに、私の軸は固くって固定的なんだそうです。たしかにその通りだなというのは自分でもわかるのですが、だからどうすればよいのかは、今考え中です。だいたい、軸がねじれたら軸って言わないような気がするんですが・・・。でも、ねじれてた方がギュ~ンと上まで伸びて行けそうな気もするし。とりあえず、土台から作り直して行こうと思っています。土台というからには下半身、特に股関節周辺でしょうか。野口体操の本に「全ての存在や動きの基本は、濤、渦、螺旋である」とあったのが、何らかのヒントになるような気がします。
その軸の作り方について、K野先生にお借りしたビデオの中にヒントらしきものを見つけました。津軽三味線の木下伸市さんが出演していた番組なんですが、その中で、木下さんと若手の上妻宏光さんとが共演している場面があるんです。上妻さんも天才って言われるくらいすごい人ですが、木下さんと一緒にみると、やっぱり全然違うんですね。上妻さん、さすがに姿勢はいいです。軸がピッと立ってます。でも固い。トンカチで叩けばカンカンと音がしそうな感じです。それに対して木下さんは軟らかいんですね。自然というか、つながってるというか。まさに全身を使って演奏してる感じなんです。軸はあるんだけどない。一見ないように見えるんだけど、身体全体で軸って感じなんです。上妻さんの場合は軸が「軸!軸!!軸なんだ!」って主張してます。軸が軸になっていて、せっかくの軸の力を演奏に生かしきれてないんですね。ふと、佐々木大とラスタ・トーマスの共演していた場面を思い出しました。なんとなく、一度軸を作り上げたら、今度はその軸を壊していく作業が必要になってくるのかなって感じました。
そういえば最近、私はどうも自分の身体について鈍感らしいということに気付きました。というよりも、感覚が曖昧なんです。人の話を聞いて、曖昧なまま「そんなもんなのかな」って受け入れる。練習をして「しんどいか?」って聞かれて、他の人がしんどそうにしてるのを見て、「しんどい」って答える。実際には、自分ではあまりそういう風に感じてないんですね。どうも無意識のうちに、限界のはるか手前で手を抜いてしまってるらしい。そんな風に曖昧なままやってるもんだから、練習の効果の方もいまひとつ。一緒に練習した人が「次の日は足がパンパンになりました」とか言ってるのに、私の方は筋肉痛一つない。これじゃあ意味ないなあ。逆に、いつも手を抜くことばかり考えているから、コツを掴むのがうまくなったような気もしないでもないですが・・・。
正月にK野先生にお借りしたビデオを見ていたとき、ふと、私の今までの練習は単なる自己満足ではなかったかと感じました。そのビデオは「教育を考える」という特集番組です。このビデオには2人の先生が登場します。一人目の先生の授業は力技。肩に力を入れてうんうん唸っているような授業。結局その先生が行き詰まり悩んでいたところに、先輩教師が助っ人として登場します。その先輩教師の授業風景も出てきたんですが、それがすごいんです。生徒に合気をかけて授業しているんですね。だから生徒は、自分の思うようにやってるつもりでも、実はその教師が意図したように誘導されているんです。その先輩教師が悩める先生に「おまえの授業は形にとらわれすぎている」というような説教をします。さらに「おまえは子供達が何を考えているのか全然わかってない、理解しようとしていない」と厳しく指摘します。
私にはこの説教が「おまえの練習は形にとらわれすぎている」「おまえは基本的なことが全然わかってない、理解しようとしていない」というふうに聞こえました。言われてみればまさにその通りで、私は基本的なことが何一つわかっていなかったんです。たとえば円運動。円運動ってなんだろうって深く考えもせずに「ああ、円なんでしょ、そんなことわかってるよ」で終わっていました。これでは上手になるはずありませんよね。練習にしても、意味も何も考えずにただただ機械的に繰り返していたことが多かったように思います。反省。
最後に、これからの私のテーマを書くことにします。
まずは「自分で自分に言い訳をしない」こと。
私の得意技は自分に言い訳をすることなのです。「今日は雨が降ってるから練習をサボろう」とか、「いまいちやる気がでないから練習せずに寝てしまおう」とか。理由にならないような理由をつけては、楽な方へ楽な方へ行こうとします。とりあえず、自分で決めたことくらいはやり通す強さを身につけたいなと思ってます。
そして「固定観念を捨てる」こと。
私は固定観念のかたまりみたいな人間です。常識も人並み以上に持っている・・・つもりです。できるだけ固定観念や常識は捨てようとしてはいるのですが、どうしても捨てきれない大きなかたまりがいくつも残ってるんですね。捨ててしまえば楽になれるのはわかっているのですが、どうしても捨てられない。固定観念といっても長年慣れ親しんだものですから、なんだかんだと自分に都合のいい理由をつけて捨てまいとする。今気付いたんですが、どうも残っているのは、固定観念というよりもつまらないプライドとか見栄のような気がする。・・・余計だめですね。
もう一つは「只今」いまのこの瞬間を大切にすること。
これは簡単で単純で、だからこそ一番難しくって一番重要なテーマなんだと思ってます。とりあえず精進あるのみって感じでしょうか。ということで、まだまだ課題は山積みです。先はまだまだ長そうなんですが、少しでも先輩方に近づけるようにがんばろうと思っています。
これからもよろしくお願いします。
▼一年を振り返って
I川さんからの投稿をご紹介します。
おかげさまで平成22年の今年は、これまでになく多くの気づきがあり、自分でも我ながら上手くなったなあとひそかに思っていました。
ところが、12月に入ってからの中心塾と観照塾でなぜか課題がどっさりと見つかり、上手くなったというのは全くの勘違いで、実は全然そんなことなかったということがよくわかりました。
そこで、ここ最近の気づきを少しまとめてみたいと思います。
まず1つめは呼吸が全然できていないこと。
この点については本当は前から薄々気づいてたのにがんばって見ないふりをしていたんですが、私の場合、呼吸・意念・体内操作の三者の中では呼吸のレベルが極端に低いようです。
なので人に誘導するときも、呼吸を使った誘導というのがお粗末なくらいできない。
後述する全体的に身体がタルい、たるんでいるというのも、うまく呼吸を使えていないのが大きな原因だと思います。
そして2つめは骨盤時計ができていない、特に3時9時がお話にならないくらいヘタクソだったということ。
それまでは自分では骨盤時計はある程度できている、特に3時9時は得意、だと思ってたんですが、帯を使っての練習にも慣れ、いざ丁寧に動いてみると、3時9時の動きに余計な成分が入りすぎていて、肝心な部分がうまく動いていないことに気づきました。
これには正直びっくりしましたが、12時6時についても、実は3時9時よりもヘタクソで、本当はできてないのに気づいてないだけってオチが待っているような気がしています。
3つめは身体がタルい、たるんでいるということ。
考えてみると、この点については今年に入ってからも体操(串刺し)で指摘され、太極棒で指摘され、そしてまた土曜日に指摘していただいたわけですが、結局のところ小器用に形を整えただけで、根本のところがまったく変わっていなかったということです。
原因としては、横隔膜がうまく使えていないこと、身体の立体感がないこと、中心へ寄せる感覚と集中が足りないことがあげられます。
といってもこれらは単なる結果あるいは現象であって、根本はおそらく呼吸がうまく使えていないことにあるのだと思います。
中心塾で教えていただいた3時9時の動きで軸を中心にして動かす動作がうまくできなかったのも、身体がタルい分、軸の感覚が甘くなっていたのが原因のようです。
そういえば面白いことに、ダンスの先生からもつい最近「身体がボケている」という指摘を受けました。
そういうこともあり身体のタルさについては以前から気づいていたんですが、ゆるめるというのはそんなもんだという思い込みから、これを放置していました。
今にして思うと、力を抜くということへの勘違いが身体のタルさを生んでいたんだと思います。
そんなわけで最後の最後で情けないオチがつきましたが、おかげさまで今年は本当に多くの気づきを得ることができました。
来年もよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
#楽隠居です
稽古というのは、やっっぱり蚊取り線香みたいなもので、自分ではなかなか進歩を自覚できないんですなぁ~
でも、死ぬまで自分の身体で遊べる訳ですから、精々身体を大事にしながら楽しむべきだと思っています。
出来たとか分かったと思ってしまったら、そこで稽古しようという情熱みたいなものは無くなってしまいます。
佐川先生は、70歳を過ぎてから気付いたことがあると言われたとか・・・
楽隠居としましては、「いつまで経っても、駄目なわた~しねぇ~」と口ずさみながら稽古を続ける所存ですので、皆さん宜しくお願い致します。
参照:一年を振り返って
by centeringkokyu
| 2010-12-27 22:32
| 合気観照塾