2010年 07月 02日
相手からやり方を見付ける |
「月刊全生」からご紹介します。
▼相手の人間そのものを知る
私は以前、十年間位此所で練習会というのを開いて、皆が隔日に集まって練習しました。それを指導しておりまして、ただ回数が多いだけでは駄目なのだという事が判り、指を敏感に使うという事が第一の問題で、それには先ずザワザワしなくなる事で、その時も随分腹を立てて何度もやかましい事を申しましたけれども、前に練習していた人で大体心得た人は上手になっております。
けれども懸命に、人を痛くしても構わない、二時間でも三時間でも人の体を調べていたなんていう人達は、今になっても上手にはなりません。練習は指の慣れではないのです。心なのです。心が澄んでいて、相手の普段感じられないようなものを感じるようになる事で、それで相手の異常でも、相手の人間そのもの迄も皆感じ取ってしまう、そうしてそこから操法を生み出していくというのがコツで、練習した型をそのまま相手にやるのは、これは我々のやる個人指導ではないのです。
何故整体操法は難かしいのか、教える私も難かしいのかと申しますと、その人の体に合うように操法を作り出すということだからです。レディ・メイドの方法があってそれをやっていくのなら誰でも出来るのです。これは胃腸病だというと、胃腸病の操法だけをやって済ませれば、それが一番に簡単ですけれども、私のやっているのは一人々々から操法を作り出す。観察に基ずいた操法。そこで人を観るという事をやかましく云い、その為のいろいろのポイントをやるので、グルグル回って難かしくなってしまうのです。「本当に難かしくないような事ならば、誰にでも出来る事ならばわざわざ練習したり習ったりする必要はないのです。難かしいからやるのです。
何が難かしいかというと、相手を知るということ、相手、人間そのものを知る、相手の心を知る、相手の体を知る、そういうように相手そのものを本当に知ってしまわなければ出来ないのです。そうでなければお人形を相手にやっているか、レディ・メイド、お仕着せを無理にやっているようなもので、そういうのでは個人指導とは云えないのです。見当違いの事を説教したって誰も聞き手はないのです。猫に小判という言葉があるが、見当違いの時にはそういう事もあるのです。だから操法をやるにしても、相手を知ってそれに応じて相手の体の中から操法を取り出すという事が大事です。その為にいろいろの難かしい問題を此所で講義し、説明し、そして簡単な方法を覚えて直ぐにやろうというような人達には、余分な難かしい事ばかり講義しているのです。
ところが相手からやり方を見付けるという事が出来なければ、指だけ上手になっても按摩さんの古いのとちっとも変らない。そういう技術は下手でいいのです。極端な事を云えば、何も練習しなくとも、相手を良くしてあげよう、相手の為にその道を求める気でやれば必らず自然に出てくるのです。極端な事を云えば愉気するだけでも、いろんな技術を百千覚えるよりはズッとましな効果を上げます。
胸椎何番を押えろと云うのは素人へのおどかしで、そうすればそこに注意を集めるからそうやるので、問題は何番を覚えるのでなくて、その急処に心を集め、そこに有る異常を感じとろうとする、そういう気の集中が根本であって、そういうような愉気だけで、技術なんていうものは殆んど充分なものなのです。
初等でやった程度の型を覚えれば、後はいざという時になれば、自然にそれをうまく使いこなす力が出てくるものなのです。それを非常用の心でなくて、普段の頭でやろうとするとそれが出てこない。普段のままでそれが出来るようになろうとして私も訓練しているのですが、素人の人がびっくりして緊張して心をこめてやれば自然に出てくる。
気を集め澄まして指を敏感にするという事があらゆる練習の基本であって、それが出来てから人の体を触るのならいいけれども、出来ないうちに長い時間いじるとなったら必ず毀す人が出てくる。此所の練習でも時間を制限したりなどしてやかましくやっておりますのは、人に慣れないように、人を毀さないように、ずさんな気持で手を出すという事に慣れないようにしてほしいと思うからです。
私の練習様式はたしかに皆さんから見ればのろいし、不満だと思うのですけれども、自分としてはズーッと人に教えてきた経験で、その焦点をしぼって、これさえ練習しておけばいざという時はいろんなものが使えるというところのものだけをやってきました。それ以上やれば、皆さんの感覚を雑にし、人の体を毀しても気がつかないでいるような、そういった心がざわつくだけだと思うのです。そこで練習の問題まで区切ったのです。何の練習をしていたかは私は知らないのですけれども、練習場へヒョッと行ったらばスーッと気が澄んでいたというような練習だったら何も苦情は云わないのです。
練習するという意味は何回か説明しましたが、その練習によって指を敏感にする、人の一命を大事にする。繰り返しただけでは上手にならない。慣れるだけでは上手にならない。だから要点だけをまとめて、私の指示した事だけを練習して頂くというように指定致しました。その練習を自発的におやりになるのなら、それはズッといい。だからもし練習をなさるのだったならば、私のお教えした問題をもう一回気を澄ませてやるようにして頂けば非常にいい事だと思います。今日のような雰囲気であったならば私は乱すと思います。それならしないにしくはない。
参照1:独自のやり方を改良できる人
参照2:「ひとり遊び」の楽しみ方
参照3:鎖につながれた象
参照4:仮想対談2
参照5:生命を保つ為には自然のはたらきを活かす
▼相手の人間そのものを知る
私は以前、十年間位此所で練習会というのを開いて、皆が隔日に集まって練習しました。それを指導しておりまして、ただ回数が多いだけでは駄目なのだという事が判り、指を敏感に使うという事が第一の問題で、それには先ずザワザワしなくなる事で、その時も随分腹を立てて何度もやかましい事を申しましたけれども、前に練習していた人で大体心得た人は上手になっております。
けれども懸命に、人を痛くしても構わない、二時間でも三時間でも人の体を調べていたなんていう人達は、今になっても上手にはなりません。練習は指の慣れではないのです。心なのです。心が澄んでいて、相手の普段感じられないようなものを感じるようになる事で、それで相手の異常でも、相手の人間そのもの迄も皆感じ取ってしまう、そうしてそこから操法を生み出していくというのがコツで、練習した型をそのまま相手にやるのは、これは我々のやる個人指導ではないのです。
何故整体操法は難かしいのか、教える私も難かしいのかと申しますと、その人の体に合うように操法を作り出すということだからです。レディ・メイドの方法があってそれをやっていくのなら誰でも出来るのです。これは胃腸病だというと、胃腸病の操法だけをやって済ませれば、それが一番に簡単ですけれども、私のやっているのは一人々々から操法を作り出す。観察に基ずいた操法。そこで人を観るという事をやかましく云い、その為のいろいろのポイントをやるので、グルグル回って難かしくなってしまうのです。「本当に難かしくないような事ならば、誰にでも出来る事ならばわざわざ練習したり習ったりする必要はないのです。難かしいからやるのです。
何が難かしいかというと、相手を知るということ、相手、人間そのものを知る、相手の心を知る、相手の体を知る、そういうように相手そのものを本当に知ってしまわなければ出来ないのです。そうでなければお人形を相手にやっているか、レディ・メイド、お仕着せを無理にやっているようなもので、そういうのでは個人指導とは云えないのです。見当違いの事を説教したって誰も聞き手はないのです。猫に小判という言葉があるが、見当違いの時にはそういう事もあるのです。だから操法をやるにしても、相手を知ってそれに応じて相手の体の中から操法を取り出すという事が大事です。その為にいろいろの難かしい問題を此所で講義し、説明し、そして簡単な方法を覚えて直ぐにやろうというような人達には、余分な難かしい事ばかり講義しているのです。
ところが相手からやり方を見付けるという事が出来なければ、指だけ上手になっても按摩さんの古いのとちっとも変らない。そういう技術は下手でいいのです。極端な事を云えば、何も練習しなくとも、相手を良くしてあげよう、相手の為にその道を求める気でやれば必らず自然に出てくるのです。極端な事を云えば愉気するだけでも、いろんな技術を百千覚えるよりはズッとましな効果を上げます。
胸椎何番を押えろと云うのは素人へのおどかしで、そうすればそこに注意を集めるからそうやるので、問題は何番を覚えるのでなくて、その急処に心を集め、そこに有る異常を感じとろうとする、そういう気の集中が根本であって、そういうような愉気だけで、技術なんていうものは殆んど充分なものなのです。
初等でやった程度の型を覚えれば、後はいざという時になれば、自然にそれをうまく使いこなす力が出てくるものなのです。それを非常用の心でなくて、普段の頭でやろうとするとそれが出てこない。普段のままでそれが出来るようになろうとして私も訓練しているのですが、素人の人がびっくりして緊張して心をこめてやれば自然に出てくる。
気を集め澄まして指を敏感にするという事があらゆる練習の基本であって、それが出来てから人の体を触るのならいいけれども、出来ないうちに長い時間いじるとなったら必ず毀す人が出てくる。此所の練習でも時間を制限したりなどしてやかましくやっておりますのは、人に慣れないように、人を毀さないように、ずさんな気持で手を出すという事に慣れないようにしてほしいと思うからです。
私の練習様式はたしかに皆さんから見ればのろいし、不満だと思うのですけれども、自分としてはズーッと人に教えてきた経験で、その焦点をしぼって、これさえ練習しておけばいざという時はいろんなものが使えるというところのものだけをやってきました。それ以上やれば、皆さんの感覚を雑にし、人の体を毀しても気がつかないでいるような、そういった心がざわつくだけだと思うのです。そこで練習の問題まで区切ったのです。何の練習をしていたかは私は知らないのですけれども、練習場へヒョッと行ったらばスーッと気が澄んでいたというような練習だったら何も苦情は云わないのです。
練習するという意味は何回か説明しましたが、その練習によって指を敏感にする、人の一命を大事にする。繰り返しただけでは上手にならない。慣れるだけでは上手にならない。だから要点だけをまとめて、私の指示した事だけを練習して頂くというように指定致しました。その練習を自発的におやりになるのなら、それはズッといい。だからもし練習をなさるのだったならば、私のお教えした問題をもう一回気を澄ませてやるようにして頂けば非常にいい事だと思います。今日のような雰囲気であったならば私は乱すと思います。それならしないにしくはない。
参照1:独自のやり方を改良できる人
参照2:「ひとり遊び」の楽しみ方
参照3:鎖につながれた象
参照4:仮想対談2
参照5:生命を保つ為には自然のはたらきを活かす
by centeringkokyu
| 2010-07-02 00:01
| 全生など