2010年 04月 18日
自分の中の常識を変える |
▼OAさんのブログ観照塾 2010.04.17から引用します。
お腹に入れた空気が自分の腕を通って相手の体に伝わっていくという感覚を、相手と共有出来るということが、まだ私にとっては不思議でなりませんでした。
経絡を体感より先に知識として覚えてしまっているので、頭であれこれ考えてしまい、余計にそう感じるのかも知れません。
一度出来てしまった自分の中の常識を変えるということがこれほど難しいとは思いませんでしたが、早くありのままを自然に受け入れることがで出来るようになりたいと思います。
#楽隠居です
前回の合気観照塾は、「合気の身体になれるかもしれない体操」から「でんでん太鼓」の稽古をしました。体操も三回目になるのですが、皆さん初めて体操をするような気持で取り組んでくださるので、同じネタを二十年近く繰り返している芸人?としましては、できるだけNHK的な演出(リハーサルをしすぎて面白さが無くなる)にならないように気をつけているつもりです。
今回は特に呼吸と合気の関係を体感していただくような稽古をしました。体内操作・呼吸・意念それぞれの使い方は、人によって微妙に変化します。腕を使うと腕を動かすことが目的になってしまいますので、体の合気を重点的に稽古しました。
毎回、私の身体のあちこちを触って頂きながら、私の身体の動きを確認してもらった訳ですが、合気の技を稽古するのは、技を掛け合って合気を体感することが目的だと思っています。
緊張についてから引用します。
相手からの力が、自分の身体のどこを伝わって行くか、また自分の力が、自分の身体の中から相手の身体に、どう伝わって行くかを感じていると、いい加減な稽古になることはないと思います。しかし、そのことでさえ意識し過ぎると緊張してしまいます。
どんな時も平静な心で過ごせるということも、武術における重要な要素ではないでしょうか。平静な心で過ごすということは、禅や気功の目標の一つでもあります。相手の攻撃は、ある意味において、禅における公案のようなものではないでしょうか。相手に何かを気付かせるような攻撃をしてあげることが、相手も自分も共に向上できる稽古方法だと思います。
日本の古流武術の型稽古では、先輩が後輩のレベルに合わせた攻撃をしかけ、後輩はそれに勝つことによって、その流派の大切な技を徐々に身につけて行ったようです。ですから、あるレベル以上にならないと、後輩の指導や自由乱取りは許されなかったそうです。大東流では、最大限の緊張と弛緩を瞬時に行なうことも大切ですから、緊張し続けると技にはならないわけです。緊張してから弛緩するか、弛緩してから緊張するか、それが問題です。(引用終了)
次回も、体内操作を中心にした呼吸と意念の稽古になると思いますので、相手を倒す稽古ではなく体感を磨く稽古だと考えて、せいぜい感性も磨いていただきたいと思います。「身欠きニシン」ではなく「磨き自身」が大切です・・・?
参照1:知識よりもまず身体の中で起きていることを感じる
参照2:肚が利く
参照3:頭で考えずに、腹で治療する
参照4:技法は実習の経験から生まれる
参照5:「科学的に考える」ことを疑う
お腹に入れた空気が自分の腕を通って相手の体に伝わっていくという感覚を、相手と共有出来るということが、まだ私にとっては不思議でなりませんでした。
経絡を体感より先に知識として覚えてしまっているので、頭であれこれ考えてしまい、余計にそう感じるのかも知れません。
一度出来てしまった自分の中の常識を変えるということがこれほど難しいとは思いませんでしたが、早くありのままを自然に受け入れることがで出来るようになりたいと思います。
#楽隠居です
前回の合気観照塾は、「合気の身体になれるかもしれない体操」から「でんでん太鼓」の稽古をしました。体操も三回目になるのですが、皆さん初めて体操をするような気持で取り組んでくださるので、同じネタを二十年近く繰り返している芸人?としましては、できるだけNHK的な演出(リハーサルをしすぎて面白さが無くなる)にならないように気をつけているつもりです。
今回は特に呼吸と合気の関係を体感していただくような稽古をしました。体内操作・呼吸・意念それぞれの使い方は、人によって微妙に変化します。腕を使うと腕を動かすことが目的になってしまいますので、体の合気を重点的に稽古しました。
毎回、私の身体のあちこちを触って頂きながら、私の身体の動きを確認してもらった訳ですが、合気の技を稽古するのは、技を掛け合って合気を体感することが目的だと思っています。
緊張についてから引用します。
相手からの力が、自分の身体のどこを伝わって行くか、また自分の力が、自分の身体の中から相手の身体に、どう伝わって行くかを感じていると、いい加減な稽古になることはないと思います。しかし、そのことでさえ意識し過ぎると緊張してしまいます。
どんな時も平静な心で過ごせるということも、武術における重要な要素ではないでしょうか。平静な心で過ごすということは、禅や気功の目標の一つでもあります。相手の攻撃は、ある意味において、禅における公案のようなものではないでしょうか。相手に何かを気付かせるような攻撃をしてあげることが、相手も自分も共に向上できる稽古方法だと思います。
日本の古流武術の型稽古では、先輩が後輩のレベルに合わせた攻撃をしかけ、後輩はそれに勝つことによって、その流派の大切な技を徐々に身につけて行ったようです。ですから、あるレベル以上にならないと、後輩の指導や自由乱取りは許されなかったそうです。大東流では、最大限の緊張と弛緩を瞬時に行なうことも大切ですから、緊張し続けると技にはならないわけです。緊張してから弛緩するか、弛緩してから緊張するか、それが問題です。(引用終了)
次回も、体内操作を中心にした呼吸と意念の稽古になると思いますので、相手を倒す稽古ではなく体感を磨く稽古だと考えて、せいぜい感性も磨いていただきたいと思います。「身欠きニシン」ではなく「磨き自身」が大切です・・・?
参照1:知識よりもまず身体の中で起きていることを感じる
参照2:肚が利く
参照3:頭で考えずに、腹で治療する
参照4:技法は実習の経験から生まれる
参照5:「科学的に考える」ことを疑う
by centeringkokyu
| 2010-04-18 23:41
| 合気観照塾