2010年 03月 12日
選択肢の豊かさ |
「心臓に毛が生えている理由(わけ)」米原万里著からご紹介します。
▼素晴らしい!
「スッバラシイー!」
チェリストのロストロポーヴィッチは、日本に滞在中この言葉を連発する。大好物の鯛の兜煮を頬張った瞬間にも、親しい友人に久しぶりに再会した時にも、共演するオーケストラとのリハーサルが順調に進んでいる最中にも、ふと目にした美しい風景に心奪われた折にも、この上なく幸せという表情を湛えて叫ぶ。
「スッバラシイー!」
ことの発端は、もう、かれこれ15年ほど前になる.。ヤマハ音楽教室の生徒さんたちが作曲した作品を審査している時のこと。三日間にわたって、のべ150点以上の作品演奏に立ち会い、審査する。肉体的にも精神的にもかなりハードで、通訳をつとめたわたしにとっては、最後の一日は地獄だった。
ところが、世界的名声を誇る音楽家は、すべての作品に全身全霊を込めて聴き入り、幼い作曲家たちにまるで大音楽家に対するように接し、丁寧に厳しくコメントしていく。それでいて、あくまでも、子供を励ます姿勢を貫いていた。
最初の五曲ぐらいまでは、すべてのコメントをロシア語で述べて、それをわたしが通訳するという形をとっていたのだが、六曲目を聴き終えた時点で、マエストロはいきなり、「スッバラシイー!」と叫び、以後、コメントの中に頻繁にこの語を差し挟むようになった。
一日目の日程が終了した時点で、こちらから尋ねようとしたら、マエストロに先手を打たれた。
「実に便利な言葉だね、スッバラシイーってのは」
「はあ?」
「だって、米原さんは、僕がadmirableと言っても、amazingと言っても、braveと言っても、brilliantと言っても、 excellentと言っても、fineと言っても、fantasticと言っても、gloriousと言っても、magnificentと言っても、marvelousと言っても、niceと言っても、remarkableと言っても、splendidと言っても、wonderfulと言っても、必ずスッバラシイーと転換しているんだもの。いやでも覚えてしまうよ」 (ロストロポーヴィッチは、もちろん、「素晴らしい」を意味するロシア語の単語を羅列したのだが、この一文を読まれる大多数の方々には分かりにくいのではという老婆心から、該当する英語の単語に置き換えた)
部屋に戻ってから、辞書を引くと、ロシア語でも英語でも、「素晴らしい」と解釈できる形容詞が、彼が列挙した分のさらに五倍はある。それでも足りないらしく、貶(けな)し言葉を反語的に使って褒め言葉に転用している。ということは、それぞれ微妙なニュアンスがあって、使い分けられているのだろう。
彼らは、何かに感心感嘆しつつも、その感情を呼び起こした対象を誉め称えるのに、最も相応(ふさわ)しい形容詞をこの豊富な語彙の中から、選び取る作業を大わらわでしているはずなのである。感動が嘘偽りないものだと、自分と他人を納得させようと必死な感じさえする。極めて緊張した人間関係がかいま見える。
恐ろしいことに、こんなときに思わず口走る形容詞の選択肢の豊かさ、使用法の的確さに、感嘆した当人の教養、感受性がかいま見えるものだと、考えられているらしい。
それで当初、わたしも、いちいち、「輝かしい」だの「驚嘆すべき」だの「まるで魔法のよう」だのとニュアンスを忠実に伝えるべく日本語に置き換えていたのだが、ひどく気恥ずかしい。不自然な、つまり嘘っぽい表現になってしまう。
何しろ、『枕草子』 の頃から、心を揺さぶられたおりの多様なニュアンスを、「あはれ」の一言で括ってきた伝統が、わたしたちの言語中枢に息づいている。若いお嬢さんたちが、好ましいモノすべてを、「カワイイ」の言で片付けているのも、清少納言の延長線上で捉えれば、眉ひそめるのも躊躇(ためら)われてくる。
というわけで、解決法、いまだに発見できず。日本人スピーカーが「素晴らしい」という語を発する度に、身構える毎日である。
▼「OX」モードの言語中枢
「鎌倉幕府が成立した経済的背景について述べよ」
「京都ではなく鎌倉に幕府を置いた理由を考察せよ」
というようなかなり大雑把な設問に対して、限られた時間内に獲得した知識を総動員して書面であれ口頭であれ、ひとまとまりの考えを、他人に理解できる文章に構築して伝えなくてはならなかった。一つ一つの知識の断片はあくまでもお互いに連なり合う文脈を成しており、その中でこそ意味を持つものだった。
ところが、日本の学校に帰ったとたんに、知識は切れ切れバラバラに腑分けされて丸暗記するよう奨励されるのである。これこそが客観的知識であるというのだ。その知識や単語が全体の中でどんな位置を占めるかについては問われない。
これは辛かった。苦痛だった。記憶は、記憶されるべき物事と他の物事、とくに記憶する主体との関係が緊密であればあるほど強固になるはずなのに、単語と単語のあいだの、そして自分との関係性を極力排除した上で覚え込むことを求められるのだ。ひたすら部品になれ、部品になり切れと迫られるようだった。自分の人格そのものが切り刻まれ解体されていく恐怖を感じた。たまらなくなって担任教師に訴えると、彼は誠実に答えてくれた。
「論文や口頭試問では、評価が大変です。教師の力量が足りませんし、教師対生徒の人数比を今の半分にしなくてはなりませんね。それに、評価するものの主観によって評価が左右される。不公平になるでしょう」
そのときは、どこか腑に落ちないものの、一応納得して引き下がったわたしが、今では心の中で反論し続けている。公平な評価なんてフィクションだ。今の方式だと、機械でも採点出来るから、評価の基準が画一化するだけのこと。単に教師が評価に責任を負わなくても良くなるだけだ、と。
#楽隠居です
『公平な評価なんてフィクションだ。』と私も思います。『教師が評価に責任を負わなくても良くなるだけだ。』というのも肯けます。
選択肢が豊になるような教え方をするのは難しいんでしょうねぇ~
コンピュータで採点できるようなことが、公平なんでしょうから、試験の意味ってどこにあるのでしょうか?
見る 観る 診る 視る 覧る 看る
分かる 解る 判る
「百聞は一見にしかず」ともいいますが、一見の仕方にもよるんでしょうねぇ~
そう言えば、大学生の時に「憲法」の授業をとっていました。試験問題の内、一問は必ず「自衛隊は憲法違反かどうかについて書け」という問題を出すという先生でした。先輩から、あの先生は”自衛隊は違憲”と書かないと単位をくれないゾ!」との情報を得ていましたので、迷わず”自衛隊は違憲”と書きました。でも、自衛隊は必要か不要かということは、問題外でしたねぇ~
憲法問題ですから、違憲だということは当然不要ということなんでしょう!
憲法改正という選択肢は許されませんでしたが、学生時代は何故だか解りませんでした。
数年前に「憲法が改正されたら護憲派学者の仕事が無くなるから。」という意見を聞いて、少し納得しました。
参照1:いろいろの「みる」
参照2:わかる
参照3:学ぶとは洞察力を養うこと
参照4:体験学習とは
参照5:達人は「習熟」を自ら否定する
参照6:杜氏
☆おまけ
【鳩山首相】「揺らぎは宇宙の真理」 発言ぶれ批判に強調から引用します。
「物質の本質は『揺らぎ』。多くの意見を聞いて大事にする過程で、揺らぎの中で本質を見極めていくのが宇宙の真理ではないか」。鳩山由紀夫首相は11日、97年の民主党大会で「揺らぎという弱い部分は民主主義の本質」と発言したことについて、首相官邸で記者団から問われ、こう強調した。発言の「ぶれ」を批判されがちな首相だが、科学用語で自らの姿勢を解説してみせたようだ。
首相は「まったく人の意見を聞かなければ揺らがないのかもしれないが」とも語り、聞き上手と称されるゆえの苦悩ものぞかせた。【山田夢留】 引用終了
まぁ~揺らぎも選択肢の豊かさということかもしれませんが・・・
ひょっとすると、ポッポちゃんの心臓には、毛が生えているのかもしれませんね!
by centeringkokyu
| 2010-03-12 00:01
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