2010年 02月 14日
懸詞 |
「古今集 恋の歌」 山下道代著からご紹介します。
▼ひもゆふぐれに
序詞が万葉集以来の修辞技法であったのに対して、懸詞(かけことば)は古今集に到って目立って多く使われ、以後の和歌、連歌、さらには俳譜にまで及んで、長く使われることになった修辞技法である。いま、巻十一のよみ人しらず歌群の歌を読みつづけているのだが、懸詞のある歌として、例えば次のような一首を、そこに見出すことができる。
題しらず よみ人しらず
唐衣 ひもゆふぐれに なる時は かへすがへすぞ 人は恋しき
「唐衣」は、たつ、着る、解く、そで、うら等、すべて衣に関することばにかかる枕詞、ここでは「紐」にかかる。そしてその「紐」を含む「ひもゆふぐれ」の部分が、「紐結ふ」と「日も夕暮れ」の懸詞になっている。また下句の「かへすがへすぞ」には、「返す」と「かへすがへす」(しきりに、つくづくとなどの意)とが懸けられている。さらに「唐衣」「紐」「返す」は縁語である。
つまりこの歌には、一方に「唐衣紐結ふ」から「返す」へつづく一連の文脈があり、別に「日も夕暮れになる時はかへすがへすぞ人は恋しき」という文脈がある。そして歌の主意だけを問うならば、それは後者の文脈で言われていることに尽きる。それならば、「唐衣紐結ふ」や「唐衣返す」は全く無意味な遊びかといえば、そうとも言い捨てられず、そのことばあるがゆえに、紐を結んだ衣の夕風に吹き返るさまがおもかげに立つ。それは、立ち待つ人の全身像をいうのでなく、その裾のみを、しかもそれがひるがえるかたちにおいてとらえていて、印象的である。
しばらくこの歌から離れることになるが、江湖山恒明氏は、その著『国語表現論』において、懸詞に甲類・乙類の別があると説かれる。氏が甲類の懸詞とされるのは、
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
のような場合である。この歌の「ふる」には「経る」と「降る」が、「ながめ」には「ながめ」(物思いの意)と「長雨」が懸けられているが、この下句を「わが身世に経るながめ(物思い)せしまに」と読んで、懸詞の
・どちらか一方をあててみれば、そのまま懸詞を中においての前の句から後の句への脈絡をたどることができ、文章はつながっていく
といわれる。これに対して乙類の懸詞は、
音にのみ きくの白露 夜はおきて 昼は思ひに あへず消(け)ぬべし
のような場合である。ここでは「きく」に、「聞く」と「菊」が懸かっているが、これを「音にのみ聞くの白露……」と読んでも、「音にのみ菊の白露……」と読んでも、「どちらも文章の脈絡をたどることができない」とされ、この乙類の懸詞について、次のように注目すべき論を展開される。少し長くなるが引用したい。
・乙類の懸詞は、必ず懸詞を中にはさんでいる前の句に対しては用言としてつながっているのだから、そのままの文脈でおし進めると、用言のはたらきしか発揮しない、言いかえれば、述語の役割だけしか果さないので、そういうつづきがらの文は必ず懸詞の部分で終ることになる。
そしてそれと同時に、その同じ音声によって喚起される二つの概念のうちの残りの一つである体言を利用し、それまでの文とは全然違った新らしい別の文をひきおこしていくことになり、その体言は主語としてのはたらきをすることになる。
(中略)乙類の懸詞が用いられている場合には、それを中にはさんでいる前の句と後の句とは、違った二つの文に属しているということになるのであり、これによって乙類の懸詞の用いられているほうが、甲類の懸詞の用いられている場合よりも、一首の持つ内容が複雑になって来ると言えるわけである。
これは、語法という角度から懸詞の構造を説き明かして、強い説得力を持つ論である。氏はさらに進んで、古今集の懸詞は、甲類が乙類の二倍以上あり、新古今集の懸詞は乙類が甲類を上まわると、数字をあげて説かれ、古今・新古今両集の歌風の差にまで論じ及ばれるのだが、いまは、この懸詞の甲類・乙類の別という教示に従って、さきの歌にもう一度もどってみよう。
この歌の「ひもゆふぐれ」「かへすがへすぞ」が乙類の懸詞であることは、容易にわかっていただけよう。さきに、この歌には「日も夕暮れになる時はかへすがへすぞ人は恋しき」の情と、「唐衣紐結ふ」「唐衣返す」の文脈から立ち現われるおもかげとがあるといったが、それは懸詞という技法、それも乙類の懸詞であることによって、はじめて得られる構造的な二重の表現効果である。しかもそれは、一首の中に二条に分かれて流れる文脈として、分析的に読みとられるものではなくて、懸詞という多義性を賦与された一条のことばに導かれて、ほとんど同時に感知できるものだ。仮にこの歌に盛られただけの内容を、散文で表現しようとすれば、どれほど多くの語彙とセンテンスが必要になるか。それを思うとき、懸詞という技法が、この一首の内容をいかに凝縮されたものとしているか、おのずから明らかであろう。
さらにこの歌のことばの懸け方を、技術的な面から見てみると、それは「経る」と「降る」、「聞く」と「菊」などのような、同音異義語の単純な重ね合わせではない。「紐 結ふ」「日 も夕暮れ」。そこで懸けられていることばは、単語でなく句であり、しかもその句は、これを単語に分かってみるとき、その構成を全く異にしている。またそこで重ね合わせられた二つの句の一方は、懸詞の共通の音の範囲からはみ出すように作られている。これは、懸詞という技法により執着し、より工夫を凝らそうとした懸け方だといわなければならない。おそらく作者の関心は、懸詞によって得られる二重の表現効果という結果よりも、この懸け方の言語技術そのものの方に、強く向かっていたものであろう。そして私たちは、「からころもひもゆふぐれになるときは」と読むとき、一つの文脈がいつしか他の文脈に綯いまぜられ、それがいつしか他の文脈になりきってゆくそのことばの変化のおもしろさを、充分に堪能することができるのである。
懸詞という技法は、本質的にはたわむれの要素を持ち、古今集の中ではその遊戯性の方向へ著しい「進化」が見られるのだが、この無名歌はその方向を指向せず、むしろ、歌を詠むということは、一面からいえばことばを使いこなす技術そのものであったのだ、ということを教えているように思われる。
【注】かけ‐ことば【掛け▽詞/懸け▽詞】
一つの言葉に同時に二つの意味をもたせる修辞法。「立ち別れ いなばの山の 峰におふる まつとし聞かば 今帰り来(こ)む」〈古今・離別〉の歌で、「いなば」に「立ち別れ往(い)なば」と「因幡(いなば)の山」の意味が、また「まつ」に「松」と「待つ」の意味が含まれている類。和歌・謡曲・浄瑠璃などに多くみられる。
#楽隠居です
懸詞というほど上品なことはありませんが、私は駄洒落が好きです。基本的に一つの言葉に一つの意味というよりも、いろいろな意味が含まれていたり、いろいろに解釈できるということの方が好きなんでしょうね。
ところで、私の場合は形を覚えられないので、基本的な体内操作ができれば、何にでも共通するというような動き方を目標にしています。昨日の合気観照塾の稽古では、一教・二教・三教が治療時の伸展の稽古になるということを体感していただきました。
これは、本来なら柔道整復師が必ず出来なければならない技術ではないかと考えています。ですから、関節技として体験して頂く場合には、少し厳密に可動域を調整する必要がありますので、『痛かったけど身体が楽になった。』ということを確認していただきながら稽古を進めさせていただきました。
ギブアップを取ることは、目的ではありませんが、いつでもギブアップさせることができるだけの技術も必要になります。ある程度のレベル同士になれば、技を掛けられている人が、返し技の稽古をしてもいいと考えています。
いろいろな可能性があることを常に意識しておくために、懸詞の稽古をしておいていただきたいと願っています??・・・
参照1:序詞(じょことば)
参照2:駄ジャレの流儀
参照3:手指の感覚をするどくする
参照4:伸筋と屈筋と反射
参照5:クレニオ・セイクラル・セラピー
参照6:指圧事始め
参照7:臨界点・体感・ベクトル ☆おまけ
K元さんからのメールをご紹介します。
改めて関節技は整復に繋がっていると認識できました。
体全体の感覚を磨かないといけない。
力・意識のベクトルを合わさないといけない。
力の方向だけでなく意識の方向までピタッ!と合っているのを見てびっくりしました。
いつも見せてますけどぉ~。と言う感じですね。
また勉強になりました!ありがとうございます!!
▼ひもゆふぐれに
序詞が万葉集以来の修辞技法であったのに対して、懸詞(かけことば)は古今集に到って目立って多く使われ、以後の和歌、連歌、さらには俳譜にまで及んで、長く使われることになった修辞技法である。いま、巻十一のよみ人しらず歌群の歌を読みつづけているのだが、懸詞のある歌として、例えば次のような一首を、そこに見出すことができる。
題しらず よみ人しらず
唐衣 ひもゆふぐれに なる時は かへすがへすぞ 人は恋しき
「唐衣」は、たつ、着る、解く、そで、うら等、すべて衣に関することばにかかる枕詞、ここでは「紐」にかかる。そしてその「紐」を含む「ひもゆふぐれ」の部分が、「紐結ふ」と「日も夕暮れ」の懸詞になっている。また下句の「かへすがへすぞ」には、「返す」と「かへすがへす」(しきりに、つくづくとなどの意)とが懸けられている。さらに「唐衣」「紐」「返す」は縁語である。
つまりこの歌には、一方に「唐衣紐結ふ」から「返す」へつづく一連の文脈があり、別に「日も夕暮れになる時はかへすがへすぞ人は恋しき」という文脈がある。そして歌の主意だけを問うならば、それは後者の文脈で言われていることに尽きる。それならば、「唐衣紐結ふ」や「唐衣返す」は全く無意味な遊びかといえば、そうとも言い捨てられず、そのことばあるがゆえに、紐を結んだ衣の夕風に吹き返るさまがおもかげに立つ。それは、立ち待つ人の全身像をいうのでなく、その裾のみを、しかもそれがひるがえるかたちにおいてとらえていて、印象的である。
しばらくこの歌から離れることになるが、江湖山恒明氏は、その著『国語表現論』において、懸詞に甲類・乙類の別があると説かれる。氏が甲類の懸詞とされるのは、
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
のような場合である。この歌の「ふる」には「経る」と「降る」が、「ながめ」には「ながめ」(物思いの意)と「長雨」が懸けられているが、この下句を「わが身世に経るながめ(物思い)せしまに」と読んで、懸詞の
・どちらか一方をあててみれば、そのまま懸詞を中においての前の句から後の句への脈絡をたどることができ、文章はつながっていく
といわれる。これに対して乙類の懸詞は、
音にのみ きくの白露 夜はおきて 昼は思ひに あへず消(け)ぬべし
のような場合である。ここでは「きく」に、「聞く」と「菊」が懸かっているが、これを「音にのみ聞くの白露……」と読んでも、「音にのみ菊の白露……」と読んでも、「どちらも文章の脈絡をたどることができない」とされ、この乙類の懸詞について、次のように注目すべき論を展開される。少し長くなるが引用したい。
・乙類の懸詞は、必ず懸詞を中にはさんでいる前の句に対しては用言としてつながっているのだから、そのままの文脈でおし進めると、用言のはたらきしか発揮しない、言いかえれば、述語の役割だけしか果さないので、そういうつづきがらの文は必ず懸詞の部分で終ることになる。
そしてそれと同時に、その同じ音声によって喚起される二つの概念のうちの残りの一つである体言を利用し、それまでの文とは全然違った新らしい別の文をひきおこしていくことになり、その体言は主語としてのはたらきをすることになる。
(中略)乙類の懸詞が用いられている場合には、それを中にはさんでいる前の句と後の句とは、違った二つの文に属しているということになるのであり、これによって乙類の懸詞の用いられているほうが、甲類の懸詞の用いられている場合よりも、一首の持つ内容が複雑になって来ると言えるわけである。
これは、語法という角度から懸詞の構造を説き明かして、強い説得力を持つ論である。氏はさらに進んで、古今集の懸詞は、甲類が乙類の二倍以上あり、新古今集の懸詞は乙類が甲類を上まわると、数字をあげて説かれ、古今・新古今両集の歌風の差にまで論じ及ばれるのだが、いまは、この懸詞の甲類・乙類の別という教示に従って、さきの歌にもう一度もどってみよう。
この歌の「ひもゆふぐれ」「かへすがへすぞ」が乙類の懸詞であることは、容易にわかっていただけよう。さきに、この歌には「日も夕暮れになる時はかへすがへすぞ人は恋しき」の情と、「唐衣紐結ふ」「唐衣返す」の文脈から立ち現われるおもかげとがあるといったが、それは懸詞という技法、それも乙類の懸詞であることによって、はじめて得られる構造的な二重の表現効果である。しかもそれは、一首の中に二条に分かれて流れる文脈として、分析的に読みとられるものではなくて、懸詞という多義性を賦与された一条のことばに導かれて、ほとんど同時に感知できるものだ。仮にこの歌に盛られただけの内容を、散文で表現しようとすれば、どれほど多くの語彙とセンテンスが必要になるか。それを思うとき、懸詞という技法が、この一首の内容をいかに凝縮されたものとしているか、おのずから明らかであろう。
さらにこの歌のことばの懸け方を、技術的な面から見てみると、それは「経る」と「降る」、「聞く」と「菊」などのような、同音異義語の単純な重ね合わせではない。「紐 結ふ」「日 も夕暮れ」。そこで懸けられていることばは、単語でなく句であり、しかもその句は、これを単語に分かってみるとき、その構成を全く異にしている。またそこで重ね合わせられた二つの句の一方は、懸詞の共通の音の範囲からはみ出すように作られている。これは、懸詞という技法により執着し、より工夫を凝らそうとした懸け方だといわなければならない。おそらく作者の関心は、懸詞によって得られる二重の表現効果という結果よりも、この懸け方の言語技術そのものの方に、強く向かっていたものであろう。そして私たちは、「からころもひもゆふぐれになるときは」と読むとき、一つの文脈がいつしか他の文脈に綯いまぜられ、それがいつしか他の文脈になりきってゆくそのことばの変化のおもしろさを、充分に堪能することができるのである。
懸詞という技法は、本質的にはたわむれの要素を持ち、古今集の中ではその遊戯性の方向へ著しい「進化」が見られるのだが、この無名歌はその方向を指向せず、むしろ、歌を詠むということは、一面からいえばことばを使いこなす技術そのものであったのだ、ということを教えているように思われる。
【注】かけ‐ことば【掛け▽詞/懸け▽詞】
一つの言葉に同時に二つの意味をもたせる修辞法。「立ち別れ いなばの山の 峰におふる まつとし聞かば 今帰り来(こ)む」〈古今・離別〉の歌で、「いなば」に「立ち別れ往(い)なば」と「因幡(いなば)の山」の意味が、また「まつ」に「松」と「待つ」の意味が含まれている類。和歌・謡曲・浄瑠璃などに多くみられる。
#楽隠居です
懸詞というほど上品なことはありませんが、私は駄洒落が好きです。基本的に一つの言葉に一つの意味というよりも、いろいろな意味が含まれていたり、いろいろに解釈できるということの方が好きなんでしょうね。
ところで、私の場合は形を覚えられないので、基本的な体内操作ができれば、何にでも共通するというような動き方を目標にしています。昨日の合気観照塾の稽古では、一教・二教・三教が治療時の伸展の稽古になるということを体感していただきました。
これは、本来なら柔道整復師が必ず出来なければならない技術ではないかと考えています。ですから、関節技として体験して頂く場合には、少し厳密に可動域を調整する必要がありますので、『痛かったけど身体が楽になった。』ということを確認していただきながら稽古を進めさせていただきました。
ギブアップを取ることは、目的ではありませんが、いつでもギブアップさせることができるだけの技術も必要になります。ある程度のレベル同士になれば、技を掛けられている人が、返し技の稽古をしてもいいと考えています。
いろいろな可能性があることを常に意識しておくために、懸詞の稽古をしておいていただきたいと願っています??・・・
参照1:序詞(じょことば)
参照2:駄ジャレの流儀
参照3:手指の感覚をするどくする
参照4:伸筋と屈筋と反射
参照5:クレニオ・セイクラル・セラピー
参照6:指圧事始め
参照7:臨界点・体感・ベクトル
K元さんからのメールをご紹介します。
改めて関節技は整復に繋がっていると認識できました。
体全体の感覚を磨かないといけない。
力・意識のベクトルを合わさないといけない。
力の方向だけでなく意識の方向までピタッ!と合っているのを見てびっくりしました。
いつも見せてますけどぉ~。と言う感じですね。
また勉強になりました!ありがとうございます!!
by centeringkokyu
| 2010-02-14 00:21
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