2010年 02月 12日
水に書く |
☆「一刀流極意」笹森順造著からご紹介します。
▼流 之 事
流とは水の流れの源と中と末との移りゆく有様のみをいうのではない。流祖以来代々の教えの手筋による勝負合いのことをいうのである。勝負の場に臨んでは扣(ひか)えず余さず滞らざるをいうのである。水が方円の器に従い満ちて余らず、扣えて残らず、動いて滞らず、しかも少しの隙も許さず一ぱいにゆきわたって欠ける所がないようなものである。調子に於ては急あり緩あり、時には廻わり帰る事もあるが大勢は低くきに進み海に入るように必ず勝に入るものである。故に流には己れの固まった法がなく相手に応ずるのみである。しかも応じて余す処がなく許す処がない。必ずついて行って勝つのである。
流はまた光のようなものである。譬えば障子に太陽があたるのに一ぱいあたって残す処がなく、またどこでも針を突くとそこから光が忽ち流れ込むように、相手の隙に応じて打ち込んで勝つのである。これは勝負合いの流である。この流はどの方向に流れても朝する所は海であるように、一刀流の太刀技は様々に働らくけれども遂に勝つべき所に勝つのは一つの勝である。
流れは水の流れや光の流ればかりではない雲の流れ霧の流れもある。これは風の流れに従う空気の流れであり気流である。暖かく軽い薄いものは上に流れ冷たく重く厚いものは下に流れる。音も流れる。電波も流れる。すべての流れは自らに形なくして真実を伝える。一刀流を形や作為で知ろうとするのは見当違いである。この流は剣の真を伝えるものである。
▼拍 子
(一)決戦の一瞬
調子の決する所は拍子である。調子よく敵を攻めておいてその究極の拍子に於て敵を一挙に仕止めるのである。どんなに調子がよく律動しても、その焦点にきまる拍子の好機に一刀がよく投合しなければ勝を挙げられない。たとえ拙い調子の中からでも、若しよい拍子に適合すると勝てることもある。よって技に於ても心に於ても、調子は調子を弄ぶのではなく、その中から一刀のよい拍子を生み出し、即座に投入するように修練しなければならない。拍子の明滅は一瞬にして転換し、無為にして去来する事もある。好機に投じて拍子の焦点を合せてよく決戦の功を挙げるのにはあれやこれやと作意の労作をすることを遙かに超脱し、無為無心のうちにたくらむことがなくても、点滅する拍子の機に投じ、睡中に自然と痒所を掻くようになるものである。ここは拍子に投ずる一瞬である。
(二)拍子の柔剛
敵から烈しく大きい剛の拍子を以て切懸けてくる時には、われは柔らかに小さく留めそらす。それは丁度投げてきた石を綿で留め包むようにする。これは綿の拍子である。飛でくる石を石で受けると揆ね返って合気になるか打砕かれるかする。また柔らかい綿と綿と打合っても勝負がつかない。柔らかい構に柔らかくつけては勝負がない。その時には綿を手で急に引きむしるような、または鋏ではさむような拍子を出すべきである。柳の枝をやんわりたわめても折れない。これは左手で枝の中程を持ち、右手でその上を掴みひょいと逆に両手喰違いに折ると、その拍子で折れる。これは柔を剛の拍子で勝つ所である。また太い松の幹はどんなに力を入れても一図に折れるものではない。しかし枝に葉に柔かい軽い雪が積もり積もつて重くのしかかると、自然にたわまりどたんばの拍子で大幹もがくりと折れるものである。これは剛を柔の拍子で勝つ所である。一刀斎はこれを「柳を折り」 「松をたわめる」と教えた。
(三)拍子無拍子
拍子の無拍子 無拍子の拍子ということがある。それは敵のよい拍子を無拍子に引はずして技を無効にし徒労に終らせ、敵が拍子抜けして無拍子になった所をわが拍子として捉えて勝つことである。例えば敵が正面から切懸かるのを、われは体を開いて剣刄下からはずし、敵の拍子を抜かし、無拍子になった所をわが拍子としてすかさず敵を突くか払捨刀にかける。または敵が打損じて立直る前の無拍子になった所をわが拍子として突込む。これらは無拍子を拍子にとった所である。また拍子の無拍子ということは拍子には機があって相がないということからの教である。
拍子に形があるだろうと思って敵を打つべき拍子の形を求めても見付け得られるものではない。それは機の現滅に過ぎない。水に字を書くような所であって跡形がない。わが太刀を筆にし敵を水にして字を書くと、書いたには相違ないが跡は残らない。よい拍子で敵を打ったには相違ないが、その拍子の跡は早や消えている。拍子の無拍子は色即是空の所である。
☆ 「古今集 恋の歌」 山下道代著からご紹介します。
▼行く水に
題しらず よみ人しらず
行く水に 数書くよりも はかなきは 思はぬ人を 思ふなりけり
流れゆく水に数を書くとは、いかな悲しみがさせるすさびごとであったか。書くにしたがってその形はくずれ、流れ失せて、書くという行為の結果が成り立つことは決してあり得ないのに、それでも人は、そこで確かに書くという行為を遂げてはいるのである。流水の抵抗感は、まごうかたなき力として書く手に知られ、その流速は、そこに書かれた無形の文字の運び去られる速さを、まのあたりに見せる。これは、書くというしわざの確認を求めながら、そのしわざの跡をとどめることを願わぬという意味で、ひどく虚無的なものの書きようだと言わねばならない。
#楽隠居です
私の場合は、「水に字を書く」ではなく、「水で字を書く」ということをしています。時間的に余裕があるときには、墨を磨って「墨磨り瞑想」から半紙を墨で汚す?ことを楽しんでいるんですが、ちょっと筆遣いを試してみようと思いついた時には、片づけが簡単なので「水で字を書く」稽古になります。
「水で字を書く」ときと墨を使うときでは、別の筆を使っています。写真のは水用の筆で、太い方が「天心(精華堂)」細い方が「澄心(玉泉堂)」です。墨用の筆は「楽心(筆庵)」・「会心(松山堂)」・「無我(長栄堂)」などを使っています。
筆の名前ってなかなかよく考えられていますねぇ~
参照1:一緒
参照2:「西江水」&「水」ブログ内検索抜粋
☆おまけ
N山さんからメールをいただきましたので、ご紹介します。
最近、センタリング呼吸法のブログを読んでいて、ほんとに全部書いてある!
といつものことながら思っています。
そんな時、先生の「全部、書いてあるやろ?」と仰っている映像が目に浮かびます(^-^)
いつも、本当に有難うございます!
▼流 之 事
流とは水の流れの源と中と末との移りゆく有様のみをいうのではない。流祖以来代々の教えの手筋による勝負合いのことをいうのである。勝負の場に臨んでは扣(ひか)えず余さず滞らざるをいうのである。水が方円の器に従い満ちて余らず、扣えて残らず、動いて滞らず、しかも少しの隙も許さず一ぱいにゆきわたって欠ける所がないようなものである。調子に於ては急あり緩あり、時には廻わり帰る事もあるが大勢は低くきに進み海に入るように必ず勝に入るものである。故に流には己れの固まった法がなく相手に応ずるのみである。しかも応じて余す処がなく許す処がない。必ずついて行って勝つのである。
流はまた光のようなものである。譬えば障子に太陽があたるのに一ぱいあたって残す処がなく、またどこでも針を突くとそこから光が忽ち流れ込むように、相手の隙に応じて打ち込んで勝つのである。これは勝負合いの流である。この流はどの方向に流れても朝する所は海であるように、一刀流の太刀技は様々に働らくけれども遂に勝つべき所に勝つのは一つの勝である。
流れは水の流れや光の流ればかりではない雲の流れ霧の流れもある。これは風の流れに従う空気の流れであり気流である。暖かく軽い薄いものは上に流れ冷たく重く厚いものは下に流れる。音も流れる。電波も流れる。すべての流れは自らに形なくして真実を伝える。一刀流を形や作為で知ろうとするのは見当違いである。この流は剣の真を伝えるものである。
▼拍 子
(一)決戦の一瞬
調子の決する所は拍子である。調子よく敵を攻めておいてその究極の拍子に於て敵を一挙に仕止めるのである。どんなに調子がよく律動しても、その焦点にきまる拍子の好機に一刀がよく投合しなければ勝を挙げられない。たとえ拙い調子の中からでも、若しよい拍子に適合すると勝てることもある。よって技に於ても心に於ても、調子は調子を弄ぶのではなく、その中から一刀のよい拍子を生み出し、即座に投入するように修練しなければならない。拍子の明滅は一瞬にして転換し、無為にして去来する事もある。好機に投じて拍子の焦点を合せてよく決戦の功を挙げるのにはあれやこれやと作意の労作をすることを遙かに超脱し、無為無心のうちにたくらむことがなくても、点滅する拍子の機に投じ、睡中に自然と痒所を掻くようになるものである。ここは拍子に投ずる一瞬である。
(二)拍子の柔剛
敵から烈しく大きい剛の拍子を以て切懸けてくる時には、われは柔らかに小さく留めそらす。それは丁度投げてきた石を綿で留め包むようにする。これは綿の拍子である。飛でくる石を石で受けると揆ね返って合気になるか打砕かれるかする。また柔らかい綿と綿と打合っても勝負がつかない。柔らかい構に柔らかくつけては勝負がない。その時には綿を手で急に引きむしるような、または鋏ではさむような拍子を出すべきである。柳の枝をやんわりたわめても折れない。これは左手で枝の中程を持ち、右手でその上を掴みひょいと逆に両手喰違いに折ると、その拍子で折れる。これは柔を剛の拍子で勝つ所である。また太い松の幹はどんなに力を入れても一図に折れるものではない。しかし枝に葉に柔かい軽い雪が積もり積もつて重くのしかかると、自然にたわまりどたんばの拍子で大幹もがくりと折れるものである。これは剛を柔の拍子で勝つ所である。一刀斎はこれを「柳を折り」 「松をたわめる」と教えた。
(三)拍子無拍子
拍子の無拍子 無拍子の拍子ということがある。それは敵のよい拍子を無拍子に引はずして技を無効にし徒労に終らせ、敵が拍子抜けして無拍子になった所をわが拍子として捉えて勝つことである。例えば敵が正面から切懸かるのを、われは体を開いて剣刄下からはずし、敵の拍子を抜かし、無拍子になった所をわが拍子としてすかさず敵を突くか払捨刀にかける。または敵が打損じて立直る前の無拍子になった所をわが拍子として突込む。これらは無拍子を拍子にとった所である。また拍子の無拍子ということは拍子には機があって相がないということからの教である。
拍子に形があるだろうと思って敵を打つべき拍子の形を求めても見付け得られるものではない。それは機の現滅に過ぎない。水に字を書くような所であって跡形がない。わが太刀を筆にし敵を水にして字を書くと、書いたには相違ないが跡は残らない。よい拍子で敵を打ったには相違ないが、その拍子の跡は早や消えている。拍子の無拍子は色即是空の所である。
☆ 「古今集 恋の歌」 山下道代著からご紹介します。
▼行く水に
題しらず よみ人しらず
行く水に 数書くよりも はかなきは 思はぬ人を 思ふなりけり
流れゆく水に数を書くとは、いかな悲しみがさせるすさびごとであったか。書くにしたがってその形はくずれ、流れ失せて、書くという行為の結果が成り立つことは決してあり得ないのに、それでも人は、そこで確かに書くという行為を遂げてはいるのである。流水の抵抗感は、まごうかたなき力として書く手に知られ、その流速は、そこに書かれた無形の文字の運び去られる速さを、まのあたりに見せる。これは、書くというしわざの確認を求めながら、そのしわざの跡をとどめることを願わぬという意味で、ひどく虚無的なものの書きようだと言わねばならない。
#楽隠居です
私の場合は、「水に字を書く」ではなく、「水で字を書く」ということをしています。時間的に余裕があるときには、墨を磨って「墨磨り瞑想」から半紙を墨で汚す?ことを楽しんでいるんですが、ちょっと筆遣いを試してみようと思いついた時には、片づけが簡単なので「水で字を書く」稽古になります。
「水で字を書く」ときと墨を使うときでは、別の筆を使っています。写真のは水用の筆で、太い方が「天心(精華堂)」細い方が「澄心(玉泉堂)」です。墨用の筆は「楽心(筆庵)」・「会心(松山堂)」・「無我(長栄堂)」などを使っています。
筆の名前ってなかなかよく考えられていますねぇ~
参照1:一緒
参照2:「西江水」&「水」ブログ内検索抜粋
☆おまけ
N山さんからメールをいただきましたので、ご紹介します。
最近、センタリング呼吸法のブログを読んでいて、ほんとに全部書いてある!
といつものことながら思っています。
そんな時、先生の「全部、書いてあるやろ?」と仰っている映像が目に浮かびます(^-^)
いつも、本当に有難うございます!
by centeringkokyu
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| 一刀流極意など