2009年 10月 09日
言葉の届かない世界へ |
「からだに訊け!」 板橋興宗+玄侑宗久 対談 から抜粋してご紹介します。
板橋▼玄侑先生が対談なさった、セロトニン研究をなさっている有田秀穂先生がいらっしゃいますね。お経を読んだ時の脳波の動きを調べておりますね。韻を踏んだ部分にさしかかると脳波が大きく動くらしいです。
玄侑▼対談のときもお話したのですが、それはおそらく暗記しているからではないかと申し上げました。暗記していることというのは、脳の働く場所が全然違ってくるみたいですね。
板橋▼私の宗門に 『修証儀』 という教典があります。日本文を綴ったものです。これが音律よく読めません。また木魚で調子が取れません。意味も読みながらわかるのです。しかし、読経としでは疲れます。セロトニンもあまりでないでしょうね。
玄侑▼言葉の届かない世界に速やかに入るために、木魚があるし、お線香もあるし、密教の場合には火も使います。言語機能じゃないところをものすごく活性化させるというか、五感に訴えるというのが、儀式の大事な機能なんですね。
いま陀羅尼のお話がありましたが、ヒンドゥー教が持っていたヴェーダを、いったんはお釈迦さまは否定しております。お釈迦さまってかなり合理的な人だったと私は思うのです。それで全面的にヴェーダの儀式を最初は禁止したのですが、後に例外を設けて許すんですね。そこから密教が発生する余地ができるわけです。
音の響きが持っている力、「からださま」に直接訴えてくるのは言葉でなくで音である。音や香り、光も含めて、そういうものは直接からだに訴えてくるものだという考え方が、仏教の中にもほそぼそと、しかし確実に存在したと思います。そういうものがやがて密教になって花開く。
日本の宗派ではほとんどといってもよいほど、密教的なものを取り入れていますよね。実際のところ、臨済宗も曹洞宗もなぜ陀羅尼を読むのか、というのをうまく説明できないと思います。それは音の持っている力を知っていたから、言葉の力とはまた違う力があるということを理解していたからではないでしょうか。
音というのはおそらく直接深い脳に届くのでしょう。逆に言葉は最も表面にある大脳皮質を通って解釈されてしまう。解釈されないものは音とか響きである。それがすばらしいんだという考え方を、はっきり仏教では持っていると思います。
板橋▼頭で解釈されないんですね。読経の音の響きがからだのリズムになり、からだ全体を明るく調子よくするのです。心を整えるのですね。
玄侑▼よく、何でわけの分からないお経をあげるんだ、と言われるのですが、わけが分かったらうるさくて聞いていられないはずです、と私は答えるんですよ。特に葬儀などの悲しい場面で、分かったようなことを言われたら嫌でしょう。昔から伝えられてきた音には、その音が持っている響きの力が、直接「からださま」 に何かを訴えかけるのです。
それを最大限生かそうとしたのが密教でしょう。そもそも顕教と密教という言い方をしますね。私の理解だと、顕教というのは学習的でロジカルな世界だと思うのです。
それに対して密教というのは、一つのシンボリズムだと思います。大日如来自身が宇宙を象徴しているという考え方がありますね。曼荼羅もそうです。さまざまな方法で全体性を凝縮してシンボル化していきました。その全体性に直接訴えかける手段を、たとえばマントラや印を結ぶという形で考えてきた人たちだったのではないかと思います。
もともと塔婆も密教が考え出したものですが、われわれが持っている密教的な部分というのは陀羅尼ですね。陀羅尼は密教のものです。意味を介在させずに全体につながろうとする発想がそこにはある。そのことが人にロジカルに理解されないために、秘密に見える。秘密というのは決して隠すということではなくて、表現できないということだと思います。
板橋▼なるほど。お話をうかがっていて思い当たることがありました。実例で申しますと、私の寺では、朝二時間、坐禅をやってから読経が始まるんです。私の読経は、丹田呼吸の実修です。本堂の読経が終わってから、庫裡のほうに行って、「ノウマクサンマンダ……」と立ったままでお経を読み始める。全身の力をこめて意味のわからないまま読経を行ずるのです。このときが一日のうちでもっとも気力の充実したときですね。不思議です。
玄侑▼不思議ですよね。特定の音は人の気持ちをある方向に運ぶという力を確実に持っていると思います。
板橋▼昔からからだが経験的に知っているから理屈なしに行じられてきたのでしょう。初めてこれを作った人もそう思っていたのでしょうか。
玄侑▼思っていたと思います。ヴェーダの中にそういう思想がありますから。
板橋▼それでは、私には呪文の読経で秘密の力が湧き起こるのですね。本当にものすごい力を感じますからね。
玄侑▼曼荼羅も宇宙そのものだという言いかたをしますが、密教にとっては陀羅尼、マントラも、そのものが仏さまだというとらえかたをしております。
板橋▼なんだ、私も真言密教そのものになっていたんですね (笑)。
#楽隠居です
「訊く」というのは、「たずねて、答えを求める。問う。」という意味らしいです。
『音の響きが持っている力、「からださま」に直接訴えてくるのは言葉でなくで音である。音や香り、光も含めて、そういうものは直接からだに訴えてくるものだという考え方』は、なかなか面白いですが、それをからだに訊くとさて、どのような答えを訊けるんでしょうか?
昔、勝新太郎がやっていた座頭市の主題歌には、
『およし~ なさいよ~ 無駄~なこと いって~聞かせて その~あ~とに 音と~ 匂いの~ 流れ~ 斬~り~』というような一節があったように思いますが、座頭市は、からだに訊いてから斬っていたのか、無意識だったのか・・・
無意識に動けるようになるまでは、からだに訊き続けるしかないんでしょうねぇ~
最近は、会員の皆さんそれぞれが、ブログでいろいろなことを書いてくださっています。本当に有り難いことです。これからもどんどん書いていっていただきたいと思います。でも、それを読んでくださる皆さんは、言葉での表現には限界があるし、とりあえず「その時点で感じたことの一部」を書いて下さっているだけだということを忘れないで、自分の言葉でも表現してみていただきたいと思います。
ところで、私の駄洒落は、「言葉の届かない世界」に近いのかもしれません!
意味不明ですし、合いの手のようなものですから・・・ ポクポク
参照1:脳と眼と呼吸
参照2:息の発見
参照3:スマナサーラ長老の講習会
参照4:悟りながら生きる 続々
by centeringkokyu
| 2009-10-09 23:18
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