2009年 09月 18日
見えない動き |
練功法を稽古する時の体内操作と呼吸は、皆さんに説明をしながら動きを見せる必要があるので、出来るだけ見えるように動いています。しかし、実際に技を掛ける時には動きが小さくなって、見慣れていない人には何をしているのか分からないかもしれません。ですから、合気が掛かって相手が動き出してからが技だと思ってしまうようです。佐川先生は、『バンと派手にやるのは人にみせる時なのだ。』と言われていたようです。
合気道でも私が大阪合気会で習っていた頃には、入り身転換が極意だということで、ぐるぐる廻っていました。しかし、大先輩に聞いたところによりますと、田中万川先生はコンパクトな技を使えたとのことでした。ですから、普段教えている技と本当の技は違うというお話でした。
相手に接触するまでが大切だと分かっていても、それを納得して頂くのは至難の業かもしれません。どうしても、派手な動きに目がいってしまいますから・・・
それに、演武会をしようと思うと、どうしても派手に見せる技が多くなってしまうでしょうし、袴の裾を翻して回転しながら動いていると格好いいですからね。
さらに、黒田鉄山先生は「消える動き」という表現をしておられます。しかし、「消える動き」と「見えない動き」は、本質的な違いがあるような気がします。
「神力徹眼心」や「息のしかた」を読んだとき、私は非常な感動を覚えました。「見えない動き」の必要条件が書かれていると感じたからです。
私自身は、武術的な強さや治療法としての技術を求めている訳ではありませんが、「治療にも使える合気」を目指している方達もおられますので、何らかの参考にしていただけるような身体創りのお手伝いをさせていただきたいと思っています。
ダンスをするような大きな動きでは、とうてい治療には使えませんから・・・
▼仮想対談1から、佐川先生の言葉を引用します。
S:私のやり方は合気で浮かせて、必ず倒れる角度へ軽く押すからスパーンと倒れてしまうのだ。力でやっているようではだめなのだ。正しい角度でも力でやれば相手は頑張る事が出来るのだ。私は全く力を入れずにやるから相手は頑張り所がないのだ。力で倒してもそれで良い事にはならない。
S:本当の合気はゆっくり静かに倒すのだ。だからそのまま極めてしまう事もできる。バンと派手にやるのは人にみせる時なのだ。
S:合気は相手の力を吸い取ってしまう研究だから年をとっても可能なのだ。合気は技術であり、そこに何があるのかという立場で研究を続けて、初めて、少しずつその理が分かってくるものであって、合気は気の流れなどと言った考えからは、いくら何をやっても出てこない。
S:合気はある程度の段階に達しないと、本当のすばらしさが分からない。下の段階では、同じようにひねり倒されていると思うだろう。自分がある程度出来るようになってきて、少しずつ分かってくるものだ。合気は難しい。
S:心と体が一致するのが大事だ。
▼最大最小理論・等速度理論「消える動きを求めて 鉄山パリ合宿記」 振武館 黒田鉄山著
型によって最大最小理論、等速度理論、そして一調子の動き、浮身、無足の法などを学ぶことにより、その動きは消えて見える。したがって、現今多く眼にする型(形)などと同一視、混同されるのは私にとりはなはだ不都合きわまりないことである。動きの消えるものが私に伝えられた型の特徴であり、私にとって唯一の型である。
▼神力徹眼心
体を真っ直ぐにし、みだりに曲げたり・ねじったりせずに手を延ばすわけだが、ここでも相手にめがけて延ばすのではなく、身の内を一杯に延ばすという表現がされている。この手の遣い方であるが、別の段で「車の如く・我が身を包む如く」遣うと表現されている。
となると、手を延ばすことは相手にたいするよりもむしろ、自分に向かって延ばすという意味にとれてくる。このように、自分自身を隅々まで自覚することで、外の対象も自分の中を見る如くに感じる事ができ、その結果、こうと思った時には、同時に所作が完了するという、神速の動きが生まれるというのである。ここに至り、運動には腕力・脚力といった物理的な力は、求められなくなり、いかに鮮明な思いを描けるかという、心理的な力を問われることになる。このような心的描写力がどこまでも細かく、遠くまで及ぶ状態を指して「神力徹眼心」と呼んだのではないだろうか。
▼息のしかた
完全な表現体と化した演者の呼吸は、常人のそれとは異なります。優れた演者が「自然に呼吸する」という場合、その意味するところは非修練者の日常の呼吸を指すのではなく、厳しい修行によって勝ち取られた「自然の呼吸」であり、その「自然さ」で達人は空間をあっという間に作り上げます。
参照1:合気道の奥義
参照2:大東流合気柔術の技術体系
参照3:自己流解釈
参照4:息のしかた 続
参照5:体全体が呼吸をする
参照6:指を使う
参照7:願立剣術物語 全
合気道でも私が大阪合気会で習っていた頃には、入り身転換が極意だということで、ぐるぐる廻っていました。しかし、大先輩に聞いたところによりますと、田中万川先生はコンパクトな技を使えたとのことでした。ですから、普段教えている技と本当の技は違うというお話でした。
相手に接触するまでが大切だと分かっていても、それを納得して頂くのは至難の業かもしれません。どうしても、派手な動きに目がいってしまいますから・・・
それに、演武会をしようと思うと、どうしても派手に見せる技が多くなってしまうでしょうし、袴の裾を翻して回転しながら動いていると格好いいですからね。
さらに、黒田鉄山先生は「消える動き」という表現をしておられます。しかし、「消える動き」と「見えない動き」は、本質的な違いがあるような気がします。
「神力徹眼心」や「息のしかた」を読んだとき、私は非常な感動を覚えました。「見えない動き」の必要条件が書かれていると感じたからです。
私自身は、武術的な強さや治療法としての技術を求めている訳ではありませんが、「治療にも使える合気」を目指している方達もおられますので、何らかの参考にしていただけるような身体創りのお手伝いをさせていただきたいと思っています。
ダンスをするような大きな動きでは、とうてい治療には使えませんから・・・
▼仮想対談1から、佐川先生の言葉を引用します。
S:私のやり方は合気で浮かせて、必ず倒れる角度へ軽く押すからスパーンと倒れてしまうのだ。力でやっているようではだめなのだ。正しい角度でも力でやれば相手は頑張る事が出来るのだ。私は全く力を入れずにやるから相手は頑張り所がないのだ。力で倒してもそれで良い事にはならない。
S:本当の合気はゆっくり静かに倒すのだ。だからそのまま極めてしまう事もできる。バンと派手にやるのは人にみせる時なのだ。
S:合気は相手の力を吸い取ってしまう研究だから年をとっても可能なのだ。合気は技術であり、そこに何があるのかという立場で研究を続けて、初めて、少しずつその理が分かってくるものであって、合気は気の流れなどと言った考えからは、いくら何をやっても出てこない。
S:合気はある程度の段階に達しないと、本当のすばらしさが分からない。下の段階では、同じようにひねり倒されていると思うだろう。自分がある程度出来るようになってきて、少しずつ分かってくるものだ。合気は難しい。
S:心と体が一致するのが大事だ。
▼最大最小理論・等速度理論「消える動きを求めて 鉄山パリ合宿記」 振武館 黒田鉄山著
型によって最大最小理論、等速度理論、そして一調子の動き、浮身、無足の法などを学ぶことにより、その動きは消えて見える。したがって、現今多く眼にする型(形)などと同一視、混同されるのは私にとりはなはだ不都合きわまりないことである。動きの消えるものが私に伝えられた型の特徴であり、私にとって唯一の型である。
▼神力徹眼心
体を真っ直ぐにし、みだりに曲げたり・ねじったりせずに手を延ばすわけだが、ここでも相手にめがけて延ばすのではなく、身の内を一杯に延ばすという表現がされている。この手の遣い方であるが、別の段で「車の如く・我が身を包む如く」遣うと表現されている。
となると、手を延ばすことは相手にたいするよりもむしろ、自分に向かって延ばすという意味にとれてくる。このように、自分自身を隅々まで自覚することで、外の対象も自分の中を見る如くに感じる事ができ、その結果、こうと思った時には、同時に所作が完了するという、神速の動きが生まれるというのである。ここに至り、運動には腕力・脚力といった物理的な力は、求められなくなり、いかに鮮明な思いを描けるかという、心理的な力を問われることになる。このような心的描写力がどこまでも細かく、遠くまで及ぶ状態を指して「神力徹眼心」と呼んだのではないだろうか。
▼息のしかた
完全な表現体と化した演者の呼吸は、常人のそれとは異なります。優れた演者が「自然に呼吸する」という場合、その意味するところは非修練者の日常の呼吸を指すのではなく、厳しい修行によって勝ち取られた「自然の呼吸」であり、その「自然さ」で達人は空間をあっという間に作り上げます。
参照1:合気道の奥義
参照2:大東流合気柔術の技術体系
参照3:自己流解釈
参照4:息のしかた 続
参照5:体全体が呼吸をする
参照6:指を使う
参照7:願立剣術物語 全
by centeringkokyu
| 2009-09-18 00:01
| 合気観照塾