2009年 07月 11日
博(ひろ)く他流の妙所を味わう |
「書の伝統と創造」比田井天来著からご紹介します。
ごく初学の者は真蹟からじかに写真にとって印刷したものがもっとも学びやすい。そのかわりに古い人の手本は、同一人の書としてはたくさん残っていないから、いく人かの書を学ばなければならぬ。いく人かの書を同時に学ぶと、学力が博くなるかわりにできあがるまでに少しひまがかかる。(中略)
速成の方法は字形と筆意を確実に暗記するようにするのと、同じ手本をいく度も学び、狭い範囲で早くしあげるよりほかに方法はない。狭い範囲というのはまず一家の書を専攻するのである。また字形と筆意を確実に暗記するには、根気よく背臨をするのである。同じものをいく度も学んで、手に癖をつくるとともに、確実に形を覚えるのである。
前巻にも述べたように、芸術としての書には癖は禁物であるが、いったんその癖をつけて実用にもまにあうようにしあげておき、それを基礎として他の流派を学び、おいおい改造していくのがこの簡易学習法の主眼である。これが従来から一般に行なわれていた学習法であって、ふつうの人の書を学ぶのにもっともつごうのよいしかたである。
しかしこの学習法では、初めのうちはまったく実用書の学びかたと同様であるから、いったんできあがっても、自己の学んだ一家の書の巧拙を見ることはできるが、何派の書でも公平に批判することはできぬ。そればかりでなく、自己の学んでいる手本のみがあまりによく見えて、その欠点を見出すことは絶対に不可能である。ゆえにその範囲の狭小なることは、いきおいまぬがれないしだいである。
楷行草三体のうち、何から習い始めるのがよいかといえば、楷書を先にするのがふつうの方法であるがかならずしも楷書とかぎったわけではない。ただ楷書が一番学ぶのに趣味が少ないから、楷書を先にしなければ楷書を学ぶことをいやになるおそれがあるから、これを先に学ぶのである。熱心の者はあとでも学ぶようになるから、行書ぐらいから始めてもさしつかえはないのである。
まず一冊の手本をえてそれを学ばんとするには、なるべく書体の異なった字で、その文字を手帳などに一開一開小さく書いておき、まず手本の一開を学び、結体と筆意を記憶した後に、手帳に記してある文字によりてそのところを背臨し、しかる後にそのつぎにおよび、ついに全体を暗記するように学ぶのが、速成法としてまずもって第一の方法である。
以上のしかたによりて一体の書を半年も学べば、その一体だけはそうとうに書けるようになる。それからほかの書体にうつるのが順序である。もっとも一時に二体または三体を学んでも、一度にできあがるというまでのことで、むしろ全体の時間のうえからは経済である。
また書体が違えば、別人の書を学んでもはなはだしく矛盾するようなことはない。師匠があってその人の臨書について学ぶ者は、楷書なり行書なり同一体の書を学んでいる場合に、先生からいく人かの書を臨書した手本を同時に与えられても、それはべつにさしつかえない。なんとなれば臨書したものはその人の家法にかならず一致点があるから、同習することができるのである。(中略)
運筆の速度は初めはしずかに一点一画手本のとおりに書き、おいおい字形を暗記するに従って速く書くようにするのがよいので、はじめから速く書くのは粗雑になる弊害がある。
以上のごとき方法により、勉学の結果、三体ともふつうにできあがればそれで実用のことはまにあうようになる。これからおいおい各派の碑帖を学び、自己の書を改造しつつその欠点を補うのである。ただ簡易学習法によりて初めのうち学んだだけで、ほかの真蹟碑帖を学ばない人は、その短所として、自己の学んだ流儀の長所ばかり見えて欠点が見えないから、その短所を補うことができないのはいたしかたがない。
ゆえにぜひ博く他流の書を味わう必要がある。博く他流の妙所を味わうことができてしかるのちに、はじめて自家の欠点を発見することができる。この境涯になると自他の長短を公平に見ることができるから、したがってその短所を補足することもできるのである。
前巻に述べた理想的独習法では、全然異なった流派を学んで、自己の癖または学んだ癖を根本から除去するのであるが、この簡易学習法にありては初め学んだ書風を根拠として、それを培養しっつ改造する点において相異しているのである。ゆえにまず自己の学んだ書風に近い手本を学び、おいおい反対派におよぶようにする。はなはだ姑息のようであるが、自己の好む手本の風においおい変更してゆき、知らず知らずのうちに自己の書風が変化して、ついにはまったく別物にするのである。かくのごとくにしているうちに、年を経るに従いだんだん鑑識も博くなり、自己の欠点も微細のところまで見ゆるようになるとともに、すべての流派にも平等にわたるようになるから、おこたらず学べばその帰着点は前巻に説明した学習法によった者と同一の進境に達することができるのである。
#楽隠居です
この本は「書」について書かれているわけですが、この考え方は当然「合気」にも当てはまるはずです。私自身がいろいろな道場を転々としたから、余計に「博(ひろ)く他流の妙所を味わう」べきだと考えてしまうのかもしれませんが、3〜4年継続して習っている間に、教えてくださる代表者の体調や考え方が変わるということも度々経験しました。
勿論、自分の感覚や稽古の目的も徐々に変わりますから、余計に他流のことにも興味を持って、常に情報収集しておくことが大切です。
私がこれまで興味を持ったことに関しては、ほとんどこのブログ内で紹介済みです。興味のある方は、ご一読ください。
以下の画像を見て、合気の定義について、じっくりと考えていただきたいと思います。
現在は、植芝盛平翁の孫弟子に当たるような人達が中心になって活動しています。さて、どのような術理が伝承されますことやら・・・
参照1:大東流合気柔術
参照2:植芝盛平
参照3:塩田剛三
参照4:藤平光一
参照5:斉藤守弘
参照6:砂泊かん秀
参照7:田中万川
参照8:山口清吾
ごく初学の者は真蹟からじかに写真にとって印刷したものがもっとも学びやすい。そのかわりに古い人の手本は、同一人の書としてはたくさん残っていないから、いく人かの書を学ばなければならぬ。いく人かの書を同時に学ぶと、学力が博くなるかわりにできあがるまでに少しひまがかかる。(中略)
速成の方法は字形と筆意を確実に暗記するようにするのと、同じ手本をいく度も学び、狭い範囲で早くしあげるよりほかに方法はない。狭い範囲というのはまず一家の書を専攻するのである。また字形と筆意を確実に暗記するには、根気よく背臨をするのである。同じものをいく度も学んで、手に癖をつくるとともに、確実に形を覚えるのである。
前巻にも述べたように、芸術としての書には癖は禁物であるが、いったんその癖をつけて実用にもまにあうようにしあげておき、それを基礎として他の流派を学び、おいおい改造していくのがこの簡易学習法の主眼である。これが従来から一般に行なわれていた学習法であって、ふつうの人の書を学ぶのにもっともつごうのよいしかたである。
しかしこの学習法では、初めのうちはまったく実用書の学びかたと同様であるから、いったんできあがっても、自己の学んだ一家の書の巧拙を見ることはできるが、何派の書でも公平に批判することはできぬ。そればかりでなく、自己の学んでいる手本のみがあまりによく見えて、その欠点を見出すことは絶対に不可能である。ゆえにその範囲の狭小なることは、いきおいまぬがれないしだいである。
楷行草三体のうち、何から習い始めるのがよいかといえば、楷書を先にするのがふつうの方法であるがかならずしも楷書とかぎったわけではない。ただ楷書が一番学ぶのに趣味が少ないから、楷書を先にしなければ楷書を学ぶことをいやになるおそれがあるから、これを先に学ぶのである。熱心の者はあとでも学ぶようになるから、行書ぐらいから始めてもさしつかえはないのである。
まず一冊の手本をえてそれを学ばんとするには、なるべく書体の異なった字で、その文字を手帳などに一開一開小さく書いておき、まず手本の一開を学び、結体と筆意を記憶した後に、手帳に記してある文字によりてそのところを背臨し、しかる後にそのつぎにおよび、ついに全体を暗記するように学ぶのが、速成法としてまずもって第一の方法である。
以上のしかたによりて一体の書を半年も学べば、その一体だけはそうとうに書けるようになる。それからほかの書体にうつるのが順序である。もっとも一時に二体または三体を学んでも、一度にできあがるというまでのことで、むしろ全体の時間のうえからは経済である。
また書体が違えば、別人の書を学んでもはなはだしく矛盾するようなことはない。師匠があってその人の臨書について学ぶ者は、楷書なり行書なり同一体の書を学んでいる場合に、先生からいく人かの書を臨書した手本を同時に与えられても、それはべつにさしつかえない。なんとなれば臨書したものはその人の家法にかならず一致点があるから、同習することができるのである。(中略)
運筆の速度は初めはしずかに一点一画手本のとおりに書き、おいおい字形を暗記するに従って速く書くようにするのがよいので、はじめから速く書くのは粗雑になる弊害がある。
以上のごとき方法により、勉学の結果、三体ともふつうにできあがればそれで実用のことはまにあうようになる。これからおいおい各派の碑帖を学び、自己の書を改造しつつその欠点を補うのである。ただ簡易学習法によりて初めのうち学んだだけで、ほかの真蹟碑帖を学ばない人は、その短所として、自己の学んだ流儀の長所ばかり見えて欠点が見えないから、その短所を補うことができないのはいたしかたがない。
ゆえにぜひ博く他流の書を味わう必要がある。博く他流の妙所を味わうことができてしかるのちに、はじめて自家の欠点を発見することができる。この境涯になると自他の長短を公平に見ることができるから、したがってその短所を補足することもできるのである。
前巻に述べた理想的独習法では、全然異なった流派を学んで、自己の癖または学んだ癖を根本から除去するのであるが、この簡易学習法にありては初め学んだ書風を根拠として、それを培養しっつ改造する点において相異しているのである。ゆえにまず自己の学んだ書風に近い手本を学び、おいおい反対派におよぶようにする。はなはだ姑息のようであるが、自己の好む手本の風においおい変更してゆき、知らず知らずのうちに自己の書風が変化して、ついにはまったく別物にするのである。かくのごとくにしているうちに、年を経るに従いだんだん鑑識も博くなり、自己の欠点も微細のところまで見ゆるようになるとともに、すべての流派にも平等にわたるようになるから、おこたらず学べばその帰着点は前巻に説明した学習法によった者と同一の進境に達することができるのである。
#楽隠居です
この本は「書」について書かれているわけですが、この考え方は当然「合気」にも当てはまるはずです。私自身がいろいろな道場を転々としたから、余計に「博(ひろ)く他流の妙所を味わう」べきだと考えてしまうのかもしれませんが、3〜4年継続して習っている間に、教えてくださる代表者の体調や考え方が変わるということも度々経験しました。
勿論、自分の感覚や稽古の目的も徐々に変わりますから、余計に他流のことにも興味を持って、常に情報収集しておくことが大切です。
私がこれまで興味を持ったことに関しては、ほとんどこのブログ内で紹介済みです。興味のある方は、ご一読ください。
以下の画像を見て、合気の定義について、じっくりと考えていただきたいと思います。
現在は、植芝盛平翁の孫弟子に当たるような人達が中心になって活動しています。さて、どのような術理が伝承されますことやら・・・
参照1:大東流合気柔術
参照2:植芝盛平
参照3:塩田剛三
参照4:藤平光一
参照5:斉藤守弘
参照6:砂泊かん秀
参照7:田中万川
参照8:山口清吾
by centeringkokyu
| 2009-07-11 00:03
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