2009年 04月 28日
教え方 |
S川さんから教えていただいた「幸田家のしつけ」橋本敏男著からご紹介します。
▼教え方は三段重ね
露伴の教え方は大体三段に重ねられている。「やらせて見る」「やって見せる」「もう一度やらせて見る」の三段方法だ。理にかなっている教授法である。まず教える相手がどの程度出来るのか、そのレベルを自分の目で確かめる。そのうえで自分が実際にやって見せて模範を示す。そしてそれをまた相手に実際にやらせて、会得出来たかどうか確かめる。あとは繰り返して厳しくたたき込んでいくのである。
この三段階がどれ一つ欠けてもうまくいかないであろう。まず相手のレベルを把握しなければ、教え方が相手に合っていない見当違いになることもある。まずそれを見極める。次に、出来ない者には、実際にやって見本を見せることが最も効果的である。口で教えるだけでは相手は分からない場合もある。より分かり易く教えるのである。そしてさらに相手は、模範を見ただけでは本当に会得は出来ない。自分で実際にやってみて初めてその技を会得できるのである。そしてそれを本当に身に付けるには経験を重ねるのがいちばん効果的である。さらにあとは練習の繰り返しである。
露伴はこの三段重ねの手順を知っていた。そしてまた自身、実地に模範をやって見せるだけの技量を身に付けていたのである。それが明治末期から大正期にかけてのことであり、当時は女性の領分であるとされていた家事であるだけに驚かされる。
この教えは、ふき掃除、障子張りから、なたを使ったまき割り、庭の草取りにまで及んで行く。
そして中でも水を使った掃除は、露伴にいわせれば「水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない」というものであった。
ぞうきんは、刺したものより一枚ぎれがいい。刺しぞうきんは不潔になり易い。大きさは八つ折が広げた手のひらからはみ出さない位であること。
バケツには水を六分目に入れる。ぞうきんをしぼり上げた際、水滴を四方に飛び散らせないためである。「指と雑巾は水をくるむ気持で扱いなさい、六分目の水の理由だ。」少ない水はすぐ汚れるから度々取り替える。これを面倒がるのはケチだという。幸田家で「ケチ」は最も蔑まれ嫌われた言葉であった。
▼幸田露伴語録
先生と呼ばれるにはそれだけの心構えがいる。惜しい時間も割いてあげようし、親切心も分けようというものだ。おまえ・おれの間柄とはわけが違う。私の今までに先生と呼ばれて、ほんとうに気持ちよくうけとれたことは多くないのだ。(『ちぎれ雲』所収「すがの」)
#楽隠居です
私の場合もときどき「先生」と呼ばれることがあります。自然に呼ばれているときは、「さん」でも「先生」でも気にならないので、適当に呼んでいただいています。『先生と呼ばれて、ほんとうに気持ちよい』かどうかは、こちらの問題なんですが、基本的にはあまり呼ばれ慣れていないので、ちょっと「お尻の辺りがこそばい」ことが多いですねぇ〜
まぁ〜それだけ実力が伴っていないということなんですヨ!
でも、このところ店では、「先生」と呼ばれることが多くなってきています。不思議なもんですなぁ〜
参照1:人生、報われる生き方
参照2:治療家ヴァージョンの感想
参照3:観察力
参照4:先生は間違ってます
参照5:才能、教育、成功
参照6:自分で工夫・努力&不断の練習
▼教え方は三段重ね
露伴の教え方は大体三段に重ねられている。「やらせて見る」「やって見せる」「もう一度やらせて見る」の三段方法だ。理にかなっている教授法である。まず教える相手がどの程度出来るのか、そのレベルを自分の目で確かめる。そのうえで自分が実際にやって見せて模範を示す。そしてそれをまた相手に実際にやらせて、会得出来たかどうか確かめる。あとは繰り返して厳しくたたき込んでいくのである。
この三段階がどれ一つ欠けてもうまくいかないであろう。まず相手のレベルを把握しなければ、教え方が相手に合っていない見当違いになることもある。まずそれを見極める。次に、出来ない者には、実際にやって見本を見せることが最も効果的である。口で教えるだけでは相手は分からない場合もある。より分かり易く教えるのである。そしてさらに相手は、模範を見ただけでは本当に会得は出来ない。自分で実際にやってみて初めてその技を会得できるのである。そしてそれを本当に身に付けるには経験を重ねるのがいちばん効果的である。さらにあとは練習の繰り返しである。
露伴はこの三段重ねの手順を知っていた。そしてまた自身、実地に模範をやって見せるだけの技量を身に付けていたのである。それが明治末期から大正期にかけてのことであり、当時は女性の領分であるとされていた家事であるだけに驚かされる。
この教えは、ふき掃除、障子張りから、なたを使ったまき割り、庭の草取りにまで及んで行く。
そして中でも水を使った掃除は、露伴にいわせれば「水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない」というものであった。
ぞうきんは、刺したものより一枚ぎれがいい。刺しぞうきんは不潔になり易い。大きさは八つ折が広げた手のひらからはみ出さない位であること。
バケツには水を六分目に入れる。ぞうきんをしぼり上げた際、水滴を四方に飛び散らせないためである。「指と雑巾は水をくるむ気持で扱いなさい、六分目の水の理由だ。」少ない水はすぐ汚れるから度々取り替える。これを面倒がるのはケチだという。幸田家で「ケチ」は最も蔑まれ嫌われた言葉であった。
▼幸田露伴語録
先生と呼ばれるにはそれだけの心構えがいる。惜しい時間も割いてあげようし、親切心も分けようというものだ。おまえ・おれの間柄とはわけが違う。私の今までに先生と呼ばれて、ほんとうに気持ちよくうけとれたことは多くないのだ。(『ちぎれ雲』所収「すがの」)
#楽隠居です
私の場合もときどき「先生」と呼ばれることがあります。自然に呼ばれているときは、「さん」でも「先生」でも気にならないので、適当に呼んでいただいています。『先生と呼ばれて、ほんとうに気持ちよい』かどうかは、こちらの問題なんですが、基本的にはあまり呼ばれ慣れていないので、ちょっと「お尻の辺りがこそばい」ことが多いですねぇ〜
まぁ〜それだけ実力が伴っていないということなんですヨ!
でも、このところ店では、「先生」と呼ばれることが多くなってきています。不思議なもんですなぁ〜
参照1:人生、報われる生き方
参照2:治療家ヴァージョンの感想
参照3:観察力
参照4:先生は間違ってます
参照5:才能、教育、成功
参照6:自分で工夫・努力&不断の練習
by centeringkokyu
| 2009-04-28 00:01
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