2009年 02月 08日
袋撓いを使う為に |
土曜日の合気観照塾では、久しぶりに袋撓い(竹刀)を使って稽古をしてみました。これは、身体全体を使った「当たる拍子」から、「付ける拍子」の稽古に進むことが目的なのですが、参加者からは「歩法が出来ていないことに気づいた」「骨盤を締める必要性が分かった」などと、今更ながらの感想?を頂戴しました。
例によって、メニューは無視した稽古になってしまいましたが、「嶺谷」「十文字」「西江水」についても、うすうす感づいて?いただけたのではないかと思っています。
これからの稽古の参考にしていただく為に、重要事項?を抜粋しておきます。詳しくは、単語検索をしてみてください。
▼嶺谷之事
新陰流では真直・順・逆の三つの太刀筋を重んじ、それを截り透す時の目付を嶺谷といっています。この目付が確実にならないと正しい太刀筋を截り透せないのです。
真直ぐに拝み切りの時は、敵の頭の上(嶺)から拳(谷)まで截り透し、順・逆の斜め斬り(袈裟斬り)の時は、肩(嶺)から拳(谷)までを截り透すのです。
習っていた当時、私が本に書き込んだメモには、「太刀の角度が決まると、手の内も決まる。太刀を挙げた時に勝。」と付け加えてあります。
▼付ける拍子
「新陰流本伝の最も特徴的な部分となるのが『付ける拍子』です。これに対して、一般的な打ち合うような技法を『当たる拍子』と呼びますが、これはあくまで鍛練の型であると考えます。付ける拍子は、まさに相手に触れる程度でもって相手を抑えてしまう技術ですから、通常言われる無刀取りのような、相手を掴まなければならない技術は当たる拍子であり、その鍛練によって養われたものをベースとして奥の太刀取りでは掴むも掴まぬも自在の技術となるわけです」
これら本伝の技術は、前述した柔術流儀との交流によって生まれたのか、あるいは甲冑武術としての応用の範囲のなかで独自に開発されたものなのかは確定されないようだ。ただ、江戸柳生と呼ばれた系統ではこの本伝しか伝えられていなかったという。また、尾張柳生の系統では制剛流や武練流も修めた長岡房成によって一部、柔術技法が取り入れられているようだ。
「その要所の技術は口伝として残っています。ひとつには、制剛流の居合は左足を前にして抜きますが、これも柔の技法なのです。相手の抜き付けに対してより深く入っていけるので相手の抜く手を捌き落としつつ抜く技となります。新陰流において居合は本来、柔へ移行する上での基本動作のようなものを示しているのです。
▼十文字之事
当流に「あばら一寸」という刀法の習訓がある。世にいう肉を斬らせて骨を断つという太刀である。敵が左右横から払うように斬ってくる。或いは左右斜に袈裟に斬ってくる。または左右下から弾ねてきても、われは斬り出す敵の拳をしっかり明観して、相手の太刀の拍子に合わせて、敵と正対してわが人中路(中心線)を一拍子に斬り透せば、必ず彼我の太刀が十文字に交わり、わが太刀が上太刀となり敵の拳を斬り落として勝つことができる。これを十文字勝といい、「あばら一寸」ともいう。敵がわがあばらを斬ること一寸に及べば、敵の拳はわが太刀により截断されている。因ってあばらを敵に与えて敵の死命を制せよとの教えである。
若し敵が真直ぐに中筋を斬り込んできた場合は、どう対応するか。勿論われも中筋人中路をはずさずに『わずかの時間差』をとり敵の太刀の上に乗って合し打に勝つか、またはわれは少し左、右に身を替わり、順、逆勢のはす打に敵の柄中へ勝てば、これも十文字勝となる。
このわざを充分に習練し体得すると共に、心の十文字を身につけなければならない。口伝書にも「わざにも、心にも、十文字有り。わざより教へ、位を見合せ、心の十文字は教ゆべし。」とある。心の十文字とは、立合の前に心に下作(用意)して何の迷いもなく充分に備えもっているのである。この用意があればこそ緊迫した場で伸び伸びと十文字のわざが遣えるわけである。
十文字の勝ちは皆当流の極意「転」(まろばし)の働きであるので、転勝ともいう。
私のメモには、「直角に交わらなくても良い。後出しジャンケンに徹する為の、身体と心の下作りが大切。」と書いてあります。
▼西江水
柳生宗矩兵法答書集などから抜粋します。
しまる心持の事
西江水をひくいきにて、ほそめたる心持よし、つめて、せめたてては、かたくいつく心有、ほそめてせめたてる心持よし
西江水の事
下へつむる悪し、上へつむる悪し、中へつめたるよし
いづくにも西江水ある心持専ら也、指の数々、爪先、毛の先までもそれになる事肝要也、しかしながら、みなもとをよく用得れば、それに成る也、ただそれになさんとおもへば、皆本がぬけるなり
心の置き所を定めて、心を一度一度にその所へ返して、其の置き所より十方へくばるべし、此の心の置き所、是を西江水と秘し、或いは神妙剣とも秘したる也
心の持ちどころというは、腹、背中、西江水と三つなり。腹を張るにてはなく、腹を押し落す心持ちなれば、背中の中筋に力わたるなり。その二つに凝り固まらぬように、総身へ心のたんぶとわたって、力みもなく、ぬけた所もないを、西江水というなり
▼薄筋の発見
私が薄筋のことに気付いたのは、新陰流と一緒に教えて頂いた制剛流抜刀術を稽古していた時期でした。全ての型の中で行う共通の動きは、重要なことに気付かせるためのものであると感じていましたので、新陰流より抜刀術の方をよく独り稽古しました。最初の内は、西江水ということを意識しながら、肚と腰を使った動きを工夫していました。しかし、膝と大腿の使い方が納得できなかったので、刀を抜く前の動作を試行錯誤しました。その時に気付いたのが薄筋だったのです。
例によって、メニューは無視した稽古になってしまいましたが、「嶺谷」「十文字」「西江水」についても、うすうす感づいて?いただけたのではないかと思っています。
これからの稽古の参考にしていただく為に、重要事項?を抜粋しておきます。詳しくは、単語検索をしてみてください。
▼嶺谷之事
新陰流では真直・順・逆の三つの太刀筋を重んじ、それを截り透す時の目付を嶺谷といっています。この目付が確実にならないと正しい太刀筋を截り透せないのです。
真直ぐに拝み切りの時は、敵の頭の上(嶺)から拳(谷)まで截り透し、順・逆の斜め斬り(袈裟斬り)の時は、肩(嶺)から拳(谷)までを截り透すのです。
習っていた当時、私が本に書き込んだメモには、「太刀の角度が決まると、手の内も決まる。太刀を挙げた時に勝。」と付け加えてあります。
▼付ける拍子
「新陰流本伝の最も特徴的な部分となるのが『付ける拍子』です。これに対して、一般的な打ち合うような技法を『当たる拍子』と呼びますが、これはあくまで鍛練の型であると考えます。付ける拍子は、まさに相手に触れる程度でもって相手を抑えてしまう技術ですから、通常言われる無刀取りのような、相手を掴まなければならない技術は当たる拍子であり、その鍛練によって養われたものをベースとして奥の太刀取りでは掴むも掴まぬも自在の技術となるわけです」
これら本伝の技術は、前述した柔術流儀との交流によって生まれたのか、あるいは甲冑武術としての応用の範囲のなかで独自に開発されたものなのかは確定されないようだ。ただ、江戸柳生と呼ばれた系統ではこの本伝しか伝えられていなかったという。また、尾張柳生の系統では制剛流や武練流も修めた長岡房成によって一部、柔術技法が取り入れられているようだ。
「その要所の技術は口伝として残っています。ひとつには、制剛流の居合は左足を前にして抜きますが、これも柔の技法なのです。相手の抜き付けに対してより深く入っていけるので相手の抜く手を捌き落としつつ抜く技となります。新陰流において居合は本来、柔へ移行する上での基本動作のようなものを示しているのです。
▼十文字之事
当流に「あばら一寸」という刀法の習訓がある。世にいう肉を斬らせて骨を断つという太刀である。敵が左右横から払うように斬ってくる。或いは左右斜に袈裟に斬ってくる。または左右下から弾ねてきても、われは斬り出す敵の拳をしっかり明観して、相手の太刀の拍子に合わせて、敵と正対してわが人中路(中心線)を一拍子に斬り透せば、必ず彼我の太刀が十文字に交わり、わが太刀が上太刀となり敵の拳を斬り落として勝つことができる。これを十文字勝といい、「あばら一寸」ともいう。敵がわがあばらを斬ること一寸に及べば、敵の拳はわが太刀により截断されている。因ってあばらを敵に与えて敵の死命を制せよとの教えである。
若し敵が真直ぐに中筋を斬り込んできた場合は、どう対応するか。勿論われも中筋人中路をはずさずに『わずかの時間差』をとり敵の太刀の上に乗って合し打に勝つか、またはわれは少し左、右に身を替わり、順、逆勢のはす打に敵の柄中へ勝てば、これも十文字勝となる。
このわざを充分に習練し体得すると共に、心の十文字を身につけなければならない。口伝書にも「わざにも、心にも、十文字有り。わざより教へ、位を見合せ、心の十文字は教ゆべし。」とある。心の十文字とは、立合の前に心に下作(用意)して何の迷いもなく充分に備えもっているのである。この用意があればこそ緊迫した場で伸び伸びと十文字のわざが遣えるわけである。
十文字の勝ちは皆当流の極意「転」(まろばし)の働きであるので、転勝ともいう。
私のメモには、「直角に交わらなくても良い。後出しジャンケンに徹する為の、身体と心の下作りが大切。」と書いてあります。
▼西江水
柳生宗矩兵法答書集などから抜粋します。
しまる心持の事
西江水をひくいきにて、ほそめたる心持よし、つめて、せめたてては、かたくいつく心有、ほそめてせめたてる心持よし
西江水の事
下へつむる悪し、上へつむる悪し、中へつめたるよし
いづくにも西江水ある心持専ら也、指の数々、爪先、毛の先までもそれになる事肝要也、しかしながら、みなもとをよく用得れば、それに成る也、ただそれになさんとおもへば、皆本がぬけるなり
心の置き所を定めて、心を一度一度にその所へ返して、其の置き所より十方へくばるべし、此の心の置き所、是を西江水と秘し、或いは神妙剣とも秘したる也
心の持ちどころというは、腹、背中、西江水と三つなり。腹を張るにてはなく、腹を押し落す心持ちなれば、背中の中筋に力わたるなり。その二つに凝り固まらぬように、総身へ心のたんぶとわたって、力みもなく、ぬけた所もないを、西江水というなり
▼薄筋の発見
私が薄筋のことに気付いたのは、新陰流と一緒に教えて頂いた制剛流抜刀術を稽古していた時期でした。全ての型の中で行う共通の動きは、重要なことに気付かせるためのものであると感じていましたので、新陰流より抜刀術の方をよく独り稽古しました。最初の内は、西江水ということを意識しながら、肚と腰を使った動きを工夫していました。しかし、膝と大腿の使い方が納得できなかったので、刀を抜く前の動作を試行錯誤しました。その時に気付いたのが薄筋だったのです。
by centeringkokyu
| 2009-02-08 12:20
| 合気観照塾