2008年 12月 18日
輸気を愉気に変える |
野口晴哉口述 愉気法講座(72)から抜粋してご紹介します。
昭和44年6月20日 於・整体協会瀬田道場
もう一つ、最近ですが、私たちはユキという言葉を「輸気」という字を書いておりました。そしたら或る学者が来まして、「車偏の輸気は、輸(おく)るという意味がある。だから輸気という言葉に使ったのだろうが、この言葉は、壊す、破れる、敗れるという意味があるから名前を変えたらいいのではないか」という勧告がありました。
輸気は壊すことがあっても、人間の体は新陳代謝して絶えず壊して、壊すことによって新しいものを作り上げて生きているのですから、壊すことが必ず悪いことではないのです。壊れない為に病気になっている場合も少なくないのです。だから、壊すことがあることは決して健康を保つのに悪いことではない。病気だって健康法になる。失敗だって成功の元になる。だから壊すことが悪いとは限らないが、そう言われてみるとなんだか可笑しい。何かわざわざ壊れる、破れるなんていうものを相手に送り込んでいることは可笑しい。
いろいろ考えましたが、その学者は、「瑜気」という言葉を使ったらどうかと、気を相手に送ることは、これには玉の光という意味があるのだそうです。だから瑜気というのがよかろうという話なのです。
わざわざ無機物の光を当てにするのも厭だし、物質的なものでないと私は何度も愉気についてミトゲン線が出るとか、ラジウムのアルファー線の様なものだとかいうものを物質測定していろいろ行っておりましたが、私の愉気はその元になる、それを出すもの、細かい放散物質によって決めるのは厭で、アルファー線とかガンマー線とかいう様なものでも物質に相違ないのだから、放散物質でないもっとメンタルなものだという話を屡々(しばしば)やりました。
だから、それを玉の光などにされたのでは困ると思って、それで考えまして、私は玉偏も車偏も止めまして、普段のユキは愉快でいるという。柔らかく、いつの間にかホカホカするという、そういう愉であります。それを心でそうなって行く、心が柔らかく激しくなって行く、そして丁度すり硝子を光が通る様に、さっと全面に広がって、強い思考性の無いというそういう心の状態をいうので、「愉気」とした方が良かろうと思いまして、今月からユキという言葉は全部「愉気」に変えることにしました。神戸でこの間その話をしたら、この愉気の方がいいという人が多くて、見ても前と余り変わらなくていいという。
私は勝つのは厭なのです。勝てば負ける時があるのです。負ければ勝とうとするのです。勝ったり負けたりするのが厭なのです。だから勝つ気も負ける気も厭なのです。それで「愉気」という言葉を使う様になりましたが、これをご承知して戴きたいと思います。
参照:植芝翁を悼む
昭和44年6月20日 於・整体協会瀬田道場
もう一つ、最近ですが、私たちはユキという言葉を「輸気」という字を書いておりました。そしたら或る学者が来まして、「車偏の輸気は、輸(おく)るという意味がある。だから輸気という言葉に使ったのだろうが、この言葉は、壊す、破れる、敗れるという意味があるから名前を変えたらいいのではないか」という勧告がありました。
輸気は壊すことがあっても、人間の体は新陳代謝して絶えず壊して、壊すことによって新しいものを作り上げて生きているのですから、壊すことが必ず悪いことではないのです。壊れない為に病気になっている場合も少なくないのです。だから、壊すことがあることは決して健康を保つのに悪いことではない。病気だって健康法になる。失敗だって成功の元になる。だから壊すことが悪いとは限らないが、そう言われてみるとなんだか可笑しい。何かわざわざ壊れる、破れるなんていうものを相手に送り込んでいることは可笑しい。
いろいろ考えましたが、その学者は、「瑜気」という言葉を使ったらどうかと、気を相手に送ることは、これには玉の光という意味があるのだそうです。だから瑜気というのがよかろうという話なのです。
わざわざ無機物の光を当てにするのも厭だし、物質的なものでないと私は何度も愉気についてミトゲン線が出るとか、ラジウムのアルファー線の様なものだとかいうものを物質測定していろいろ行っておりましたが、私の愉気はその元になる、それを出すもの、細かい放散物質によって決めるのは厭で、アルファー線とかガンマー線とかいう様なものでも物質に相違ないのだから、放散物質でないもっとメンタルなものだという話を屡々(しばしば)やりました。
だから、それを玉の光などにされたのでは困ると思って、それで考えまして、私は玉偏も車偏も止めまして、普段のユキは愉快でいるという。柔らかく、いつの間にかホカホカするという、そういう愉であります。それを心でそうなって行く、心が柔らかく激しくなって行く、そして丁度すり硝子を光が通る様に、さっと全面に広がって、強い思考性の無いというそういう心の状態をいうので、「愉気」とした方が良かろうと思いまして、今月からユキという言葉は全部「愉気」に変えることにしました。神戸でこの間その話をしたら、この愉気の方がいいという人が多くて、見ても前と余り変わらなくていいという。
私は勝つのは厭なのです。勝てば負ける時があるのです。負ければ勝とうとするのです。勝ったり負けたりするのが厭なのです。だから勝つ気も負ける気も厭なのです。それで「愉気」という言葉を使う様になりましたが、これをご承知して戴きたいと思います。
参照:植芝翁を悼む
by centeringkokyu
| 2008-12-18 01:09
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